新しい神の民の誕生

新しい神の民の誕生  イザヤ5246、ロマ21729  2023.6.18

 

(順序)

前奏、招詞:詩編13217、讃詠:546、交読文:イザヤ58911、讃美歌:Ⅱ-1、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:87a、説教、祈り、讃美歌:356、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 礼拝でローマの信徒への手紙を読み進めています。今読んだ2章17節から29節までの部分は、1章18節から3章20節にかけてのひとつながりの中の一部にあたります。この、ひとつながりの中で語られるのは、ひとことで言えば人間の罪とそれに対する神の怒りです。しかしそれは、人間の中に罪人(つみびと)がいて、そういう人たちに対して神が怒っておられている、ということではありません。その場合、前提となっているのは人間の中には善い人も悪い人もいるということですが、パウロはそんなことはひとことも言っていません、少し先取りになりますが、3章の10節をご覧下さい。「正しい者はいない、一人もいない」と書いてあります。その続きもみましょう。「悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」

 つまりパウロが語っているのは、人間の中に善い人もいれば悪い人もいるということではありません。すべての人が罪を犯しており、それゆえに誰もが神の怒りの下にあるということです。

 ただ、本当にそうなのかと、納得できない人がいるかもしれません。そういう人がいたとしても、この国ではありがちなことです。日本や中国の伝統的な考え方の中には、人が死んだあとも、現世と大して変わらないような世界で生きていくというのがあります。そこに神様がいたとしても、ひとりではなくたくさんで、それも愛すべきところもあれば弱点もあるという、人間にちょっと毛の生えたような存在でしかありません。そのような信仰に影響されて生きていると、何が善で何が悪かということもあいまいになっていくのですが、聖書はそれとは違い、ただひとりの、まことの神がおられること、その神が全能の神であることを世界に示しています。まことの神がおられるところ、善と悪の境があいまいになることがないのはもちろん、まことの神の前には正しい者はいない、一人もいないのです。

 

 すべての人を見渡しても、正しい者はいない、一人もいない、その中で今日は特にユダヤ人を取り上げます。

 ロマ書では世界のすべての人を二つに分類して「ユダヤ人とギリシア人」という言い方をしています。ユダヤ人以外はすべてギリシア人なのです。というのはユダヤ人以外は異邦人、異邦人の代表がギリシア人なので、異邦人すなわちギリシア人としています。

 ギリシア人のことは後日に学ぶとして、ユダヤ人は誇り高い人々でした。自分たちは世界の諸民族の中でただ一つ、神に選ばれた特別な民族だと信じているので、政治の面ではローマ帝国の支配下にあって異邦人に頭が上がらなかったのですが、心の中では「あいつらは罪人だ。自分たちユダヤ人とは違う」と思っていたのです。皆さんはこういう人たちのことをどう思われますか。

 そうしたユダヤ人の心の支えであり誇りについて17節から20節にかけて書いてあります。「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理とが具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」。

 ユダヤ人は異邦人に対してこれほどの優越感を持っていました。ローマ帝国の中でいくら差別を受けようとも、自分がユダヤ人であることを隠すことはしません。「律法に頼り」と書いてありますが、神が自分たちに、神の民として生きるために律法を与えて下さったことを誇りに思っていたということです。そしてそのことで神を誇りとしていました。

ユダヤ人は自分たちには律法が与えられているから、神の御心を知ることが出来、律法によって教えられ、何をなすべきかをわきまえていると思っていました。そして、その律法の中には知識と真理が具体的に示されているので、自分たちこそ「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負して」いたのです。

 ところで、なになに人はという言い方は現在では気をつけなければなりませんね。たとえば日本に滞在中のある国の人が犯罪を犯して逮捕されたりすると、その国の人間はみな同じかと思われがちですが、人は多種多様ですから、そういう色眼鏡で見ると間違いを犯すことになります。ここでユダヤ人といってもみんながみんな異邦人を見下して傲慢だったということはなかったと思いますが、その傾向が高かったことは確かでしょう。

 私たちは、ここで教えられていることがわれわれとどんな関係があるのかと思ってはなりません。他人のふりみて我がふり直せ、です。私たちも、自分が日本人だということを誇りに思うことがあるでしょう。日本には長い歴史とすぐれた伝統文化があるので、それを誇りに思うのはわかるのですが、それが他の国の人々への軽蔑となっていることはないでしょうか。その場合、問題点を正さなければなりません。日本人が誇りに思っていることがいろいろあるとして、それを正しい仕方で誇りに思うようにならなければなりません。

 ユダヤ人は神を誇りにしていました。神を誇りにすることのどこが悪いのでしょうか。パウロだって「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリ1:31)とか「キリスト・イエスを誇りとし」(フィリピ3:3)と言っているのでややこしいのですが、ユダヤ人が「神を誇りとする」というのは、神のために神を誇りにするということではありません。神を自分たちの所有物のように見なし、これによって自分を高め、自分が偉くなったように思っているということです。ちょうどブランド品を身につけていることで自分が偉くなったかのように思うのと似ています。神は利用される存在でしかなくなっています。自分はまことの神を信じているので偉いのだということですから。私たちにもこのようになる危険があるのです。

 

 パウロはこのようなユダヤ人のプライド、鼻持ちならない傲慢さを打ち砕こうとしています。そこでユダヤ人に対して、21節以下の問いを突きつけています。「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』と書いてあるとおりです」。

 パウロはユダヤ人に対し、あなたがたは、自分たちは律法によって神の御心をわきまえており、無知な異邦人の導き手だと言っているが、自分自身はその律法を破っているではないかと言うのです。律法は、これを誇りに思っていても、それだけでは、…自分の生活の中でこれを実際に行わなければ意味がないだろうということです。実際、あなたがたを見れば、律法に反した行いをしており、そのためあなたがたのせいで神の御名が汚されているのだ、とまで言うのです。

 ここでパウロによって糾弾されたこと、盗むなと説きながら盗む、姦淫するなと言いながら姦淫する、偶像を忌み嫌いながら神殿を荒らす、これが本当にあったのかという点については議論になってきました。2000年も昔のことで、これを裏付ける資料がないからです。…そのため、こんなことをした人がいたとしても、ユダヤ人の中のほんの一部にすぎないのだから批判はあたらないとする意見がある一方、これはパウロが書いて聖書に収録されたものだから本当のことだ、当時のユダヤ人はここで言われているような堕落した人たちだったとする意見があって、未解決のままになっています。 

当時のユダヤ人は本当に盗みをよくする民族だったのでしょうか、それともこれは経済的な搾取などあからさまな盗みとは違うことを言っているのでしょうか。…姦淫と言ってもそれが一般的だったのか、それともまことの神を裏切りにせものの神に走るという宗教的な意味での姦淫だったのでしょうか。…「神殿を荒らす」ということについても、ユダヤ人が信仰の中心であったエルサレム神殿を荒らすということは考えにくく、各地にあった異教の神殿からお賽銭をくすねるなどの悪さをしたのだと主張する人がいます。あるいは、ここでイエス様の宮清めが意識されていて、その時イエス様がたたかわなければならなかったのと同じ問題があったのかもしれません。

 ユダヤ教徒の側からすると、これはパウロのとんでもない言いがかりだとなるでしょう。私もすっきりと説明することは出来ないのですが、パウロの言うことを信じましょう。ユダヤ人が本当に神を崇めていたのなら、イエス様を救い主だと認めることが出来たはずです。しかし、そうはならなかったのです、一部の人たちを除いて、大多数のユダヤ人がイエス様を拒否したということは、その信仰にも、そしてふだんの生活にも大きな否定的影響を与えたことでしょう。ユダヤ教信仰が、神をあがめるより神の名を利用して自分を高くあげることに向かってしまい、そのことでかなり問題の多い信仰に陥ってしまった、言っていることとやっていることが違ってしまったということではないでしょうか。パウロにとってその時のユダヤ人の姿とは、かつて回心する前の自分の姿でもありました。

 

 25節からは割礼のことが書いてあります。割礼は昔、神がアブラハムに命じたことから始まっています。これは律法と並んで、ユダヤ人であることの印であり、ユダヤ人と異邦人を区別するものでした。

 旧約聖書には、ダビデが巨人ゴリアトを打倒した有名な話がありますが、戦いに臨む前、ダビデはこう言っています。「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」(Ⅰサムエル1726)と。ダビデはゴリアトを見て、あいつは割礼を受けていない、そんな奴が生ける神と共に戦うわれわれにかなうはずはない、と言っているのです。…私たちには理解しにくいのですが、ユダヤ人、それも男子に限られるのかもしれませんが、割礼を受けていることが民族の誇りになっていた、自分たちは割礼を受けているから特別な民であると思っていたのです。しかしパウロは、「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」と言い切っています。律法に示されていることを本当に守ってこそ、神の民であるしるしの割礼も意味あるものとなるのであって、そういう内実なしに割礼を受けていることで優越感を抱いていても、それは無意味だということです。ユダヤ人の思い上がりに対し、パウロはこのように激しく戦いを挑み、あなたがたも異邦人と全く同じく神の前に罪人だ、と言ったのです。

 ローマの教会でパウロの手紙が朗読された時、そこにいたユダヤ人でキリスト者になった人にとっては、これがたいへんショッキングなことだったのは間違いありません。まして、教会の外にいたユダヤ人たちがパウロが手紙で書いたことを知ったとしたら、これはとんでもないことだと激高して、こんなことを言うやつは殺してしまわなければならないと思ったはずです。

 

 私たちはこのようなパウロの言葉をどう読んだらよいのでしょうか。昔のユダヤ人というのはそれほどに思い上がった傲慢な人たちだったのか、自分とは関係ない、…そんなことで片づけてしまったらそれでおしまい、私たちの人間としての進歩はありません。

 パウロの言葉は、ユダヤ人だけではなくキリスト者もおそれをもって受けとらなければなりません。神を自分たちの所有物のように見なし、これによって自分が偉くなったように思ってしまうのはキリスト者にもよく見られることだからです。

 よく欧米で見られるのは、キリスト教を高等宗教、他の宗教は劣等宗教と見なし、自分たちクリスチャンはすぐれているけれどもあの人たちは劣っていると考えることです。そうして滅びゆく愚かな人々を救いに導かなければならないと考えて、外国に宣教師を派遣するとしたら、こういうことを皆さんはどう思いますか。そこに尊いものがあることは確かですが、どこか変なのです。…歴史の上でキリスト教徒は、アメリカの先住民族の多くを滅亡に追いやったり、アジアやアフリカの諸国を植民地にしてしまったり、黒人奴隷を虐待するようなことに大きな罪責を負っています。そこには自分たちは本当の信仰を持っているから偉いんだという思い上がりがあったと見なすほかありません。

 私たちはキリスト教こそまことの教えだと信じていますから、どの宗教も同じだとは言いません。しかし、キリスト教を信じているから自分たちは偉いのだと考えては間違いです。

 キリスト教こそまことの神の教えであるというのは、キリスト教が高等宗教であって、他の宗教が遅れているということでは決してありません。イエス・キリストは神のみ子という最も高いところにおられながら、人間の身分となり、そればかりではなくすべての人の身代わりとなって犯罪人として処刑され、今度は陰府にくだるという、下の下、もっとも深いところまで降りられた方です。イエス様自ら自分を偉い、尊い存在としなかったことこそが、キリスト教が絶対であるゆえんです。

 仏教にも、うさぎが「自分を食べて下さい」と言って火に飛び込んで、自分の体を焼いて捧げたという話があります。イエス様とどこか重なると思いませんか。キリスト教以外の他の宗教には、旧約聖書に出て来る偶像礼拝のように明らかに間違った宗教もありますが、今の話のように、真剣に人間の救いを求めているものもあります。だから私たちは、キリスト教を信じることで他の宗教をばかにするのではなく、その中にも真理の一部分があることを悟り、そうした教えもやがてキリスト教に近づいていくことを祈り求めるべきです。

 

 パウロは「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく〝霊〟によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」と教えます。ここでパウロが語っているのは、ユダヤ人であることや割礼を受けていることを誇るのではなく、むしろ本当のユダヤ人、本当の割礼がどのようなものかを考え、そのことを通して神の民とはどういう人たちかを見極めようとするのです。

 〝霊〟によって心に施された割礼とは、聖霊の導きの下で授けられた洗礼のことを言っています。このことの意義ははかりしれません。もっとも洗礼を受けてキリスト者となり、教会員となったとしても、これを誇りに思うことで自分を偉い者のように見なし、他の人々を見下してしまったとしたら、それはユダヤ人の過ちを繰り返すことになってしまいます。それが神の民だと言えるのでしょうか。それは神のみ名を汚すことになってしまうでしょう。

今ここにはすでに洗礼を受けた方が多いですが、繰り返し繰り返し、人となった神、もっとも低い所にまで降りられたイエス・キリストにこそ立ち返らなければなりません。そうしてこそパウロがここで糾弾したユダヤ人の間違いから免れることが出来るのです。

 

(祈り)

 神様、私たちの多くは、洗礼を受けてキリスト者となり、神の民の一員となりました。洗礼を受けたことは感謝すべきですが、水による洗いそのものに意味があるのではありません。人は水と霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできないからです。

 神様、まだ洗礼を受けていない人が洗礼を受けて神の民の一員となるようお導き下さい、そして、すでに神の民の一員となった者も、本当の意味でそのようになるため、間違った信仰理解から来る思い上がりがあればこれを厳しくしりぞけて下さい。そのようにして、イエス・キリストにますます深く結びついていく者として下さい。

 どうか私たちの歩みが、自分の中にある過ちを認めず、他の人ばかり裁いてしまうような間違った信仰に陥らず、神のみ前にへりくだることで神の栄光を世に現わし、隣人との間に平和を確立することが出来ますようにと願います。

 とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。