わたしに従いなさい

わたしに従いなさい  詩編341223、マタイ81822 2023.6.11

 

イエス・キリストのもとに二人の人がおりました。一人は律法学者で、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言って弟子になろうとしましたが、イエス様はその人を押しとどめられました。もう一人は主イエスの弟子で「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ってしばらくの暇乞いをしましたが、イエス様は彼を行かせませんでした。一人には弟子になることを押しとどめ、一人は逆に引き止めようとする、主イエスのこのなさりようから私たちは、キリストに従うとはいったいどういうことかを考えたいと思います。

 

皆さんの中で、洗礼や信仰告白がまだという方は、キリストに従うということ自体、まだのみこめていないかもしれませんが、すでに教会員となった方は、洗礼を受けたり、信仰告白をした時にキリストに従うことを学び、そのことを、その通りの言葉ではないのですが誓約しています。長老や執事の任職式、教師の任職式においても同じです。私たちは聖書の朗読や礼拝説教を通しても、キリストを信じると共にキリストに従うことをいつも教えられているのですが、いざそのことを考えてみようとすると、それが簡単でないことに気がつきます。

皆さんにとって、キリストに従うことを教えている今日の聖書の箇所は、ふだんあまりなじみのない所ではなかったでしょうか。それは私にとっても同様で、私はここで説教の準備をするにあたって、恐れをいだきました。キリストに従うとはどういうことか、自分が偉そうにお話しできるとは思えないからです。私は牧師として、福音の宣教のためにこの身をささげる誓いをなした者ですが、しかしそれは、ここに出て来る律法学者と似たようなものではなかったか、主イエスが行かれる所に本当についてゆくことが出来るのだろうかと思ったのです。ここを説教すれば、主の厳しい言葉が自分にもはねかえってくるだろう、これはそのような箇所です。

 

それでは、まず18節から見てゆきましょう。「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」。

ここで主イエスがなさったのは、奇妙なことなのです。イエス様は大勢の群衆に取り囲まれながら、弟子たちに向こう岸に行くよう命じられました。向こう岸に行くためには舟に乗らなければなりません、イエス様も同行するのですが、そうするとご自分を頼って集まってくる群衆のもとを去ることになります。そのあたり、いくつもの理由が考えられています。

まず群衆を見てみましょう。当時、イエス様は奇跡を行って病気をいやしたことなどが評判になり、多くの人々が集まって来ました。ただその中にはご利益めあてで集まって来る人がいるわけですね。良いことがあればイエス様のそばに留まり続けますが、そうでなければすぐどこかに行ってしまうような、つまりイエス様に従うということでは疑問符をつけざるをえない人がたいへん多かったのです。

イエス様はいつまでもこの人々と一緒にいることは出来ません。ガリラヤ湖の向こう岸というと異邦人の土地ですが、そこにも大切な務めがあり、行かなければならなかったのです。

聖書をこのあと続けて読んでいくとわかりますが、主イエスと弟子たちが乗った舟は湖の中で大嵐に遭遇して、あやうく転覆しそうになります。もちろん、そこでおぼれ死ぬ人もけが人も出なかったのですが、このことを教会では2000年来、ひゆ的に解釈し、嵐の湖はサタンが猛威をふるっている世の中で、そこを進んでいく舟は教会だと教えてきました。教会が何事もなく平穏に、世の中で存在し続けるということはありません。教会は常にたたかいの中にあるのです。

そして、そこから逆算して考えていきますと、主イエスが弟子たちを舟に乗せ、向こう岸に行くよう命じられたことには、彼らを訓練しようとされる意図があることがわかります。律法学者もこれに参加しようとしたのです。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言って、彼は舟にも乗ろうとしたのです。もちろんこの人は舟が嵐に襲われることなど知る由もないのですが、湖の向こう岸に行くことだけでも相当な決心を要することであったにちがいありません。

 

律法学者は、当時の社会の中でとても地位が高く、あの人は神様の教えをよく知っていると自他ともに認めていたのですが、この人が主イエスの言葉と行いに触れたとき、自分が長年勉強してきた律法を守りぬき、これを完成させる道がここにあると考えたのでしょう。

 プライドが高かったはずのこの学者にとって、当時辺鄙な地方だと思われていたガリラヤのナザレから出て来たイエス様の前に出て、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ってのけるのは、なかなか勇気のいることだったと思われます。一緒に舟にまで乗ろうとするのです。この人にとっては一大決心でした。…それならば、イエス様の方でも「よくぞ決心されましたね」とか何とか、ねぎらいの言葉があってしかるべきだと思ったのですが、…そうは言っておられません。この人は、聖書にはそのあとどこにも出て来ませんから、やはりイエス様の言葉を受けて、帰ってしまったのでしょう。結局この人は、主イエスの弟子にはなれませんでした。

 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」、これが律法学者を主への献身から押しとどめた言葉です。

狐も空の鳥もさすらいの習性があります。空の鳥はたいへんな距離をものともせず、渡ってくることがあります。どんな動物も巣を持っています。どんなにさすらいの習性のある動物であっても家を持っています。しかし……。

 ここに人の子という、日本語としては耳慣れない言葉があります。ここにも深い意味があるのですが、今日のところはイエス様がご自分を指してお用いになった言葉だと考えて下さい。イエス・キリストは人となった神であられます。私たちは、イエスが神の子であると教えられていますが、イエス様御自身は自分のことをあえて神の子とは言わず、人の子と言われました。それはイエス様が神の身分を捨て、人間と共に生きるということなのです。ただ「人の子には枕する所もない」と言われるとき、ここでは「人の子」であるイエス様が普通の人間と比べてもさらに苛酷な人生をおくることが意味されているのです。

 これは狐や空の鳥に比べても過酷な暮らしです。ただ「枕するところもない」と言っても、イエス様はいつも野宿ばかりしておられたのではありません。この頃、宿泊する場所は確保され、富んでいるとは言えませんが貧しさのどん底にあったとも思えず、質素ながらそれなりの暮らしはしていただろうと思われます。むしろ、そのあとのイエス様が生きる道を表している言葉です。

主イエスの人生は、まことの神の教えを大胆率直に語ったために、人々から憎まれ、この世の中で居場所をなくしてしまう、そのような人生でありました。この時のイエス様は、群衆に取り囲まれてまるでスターのようでしたが、こののちご自分がすべての人間の病を負い罪を背負って十字架にかけられることになります。主イエスの弟子たちもそれを受け継いでいるので、社会の中での栄達を目指すことはありません。有力者に近づいて上に上にと昇っていくのではなく、その反対の生き方、貧しい人々や苦しみにある人々と共に生きる生き方を選ぶことになるのです。だから受難のメシアであるイエス様は律法学者に、あなたは私の弟子になろうとする前に考えなさい。あなたが思うほど、それは簡単な道ではないのだ、と言われたのです。

ある人はこの時の律法学者のことを、まるで自己啓発セミナーに参加しようとする人のようだと書いていました。自分を高めていきたいと考えて、自己啓発セミナーに参加するのも良いでしょう。しかし、それは信仰の道とは違います。自分を高めるのではありません。神の前に自分を低くすることがないとキリストに従うことは出来ないのです。

 

そうして、さらに主イエスと弟子の一人との会話を見てみましょう。「主よ、まず父を葬りに行かせてください」と言った弟子に対して、主は「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と答えられました。主イエスの言葉は私たちにはとても冷たく聞こえます。主イエスはここで、弟子が父親の葬式に行くことを禁じたのでしょうか。日本では父親が死んだとなれば、どんなに忙しい会社に勤めている人でも休みをもらってかけつけることが出来ます。こうしたことはイエス様の時代でも変わりなく、ユダヤ人にとって死んだ親のために葬儀をすることは神聖な義務でありました。イエス様が弟子に、親の葬式に行くことを禁じたとすれば、それはあまりに厳しすぎると言わなければなりません。

そこで「まず父を葬りに行かせてください」という言葉に注目したいと思います。こんな話があります。昔シリアで伝道していた宣教師が、日頃親しくしていた青年に、学校を出たあと見識を広めるためにヨーロッパに旅行したらどうかと勧めてみたのです。すると青年は「私はまず父を葬らなければなりません」と答えました。宣教師が驚いて哀悼の言葉を述べると、父親はまだ元気でいるとのこと。「父を葬らなければなりません」という言葉の意味は、親に対する義務を果たさなければならないと言うことで、すなわち父親が死ななければ家を留守に出来ないということでありました。

弟子の一人が主イエスに語ったのも、おそらく同じ意味です。この人の父親はまだ死んでいません。彼は「私は、父親が死んで自由になったら、あなたに従います」と言って、イエス様に従うことを先延ばしにしたのです。まず父親に孝行をつくし、何年先のことかわかりませんが父親が死んで、何にも気兼ねしなくて良い時になってから、イエス様に従おうとしたのです。

人はいまこの時、思い立ったときに決断しなければ、永久に機会を失っててしまうものです。私たちもしばしば、今やらなければならない大切な課題を先延ばしにしてしまうことがないでしょうか。こういう人に向かって、主イエスは、今すぐ私に従って来なさいと命じられたのです。

そのあとの「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」というのはわかりにくいですが、主イエスはここで、「あなたでなければ出来ないことをしなさい」と言われたのです。…死者を葬る人はほかにもいるではないか。神様から召しを受けた時は、自分にとって大切だと思っていることでも投げ出してしまわなければならないことがあるのです。あなたは神に仕える仕事をするために重要度で劣ることからは手を引きなさい、そして今この時を用いなければなりません、と教えられたのです。

 

主イエスはこのように、ある人には弟子になることに待ったをかけ、ある人にはご自分のもとから逃げ出さないようにされました。…主イエスはそれぞれの人にそれぞれの方法で関わって下さいます。

もちろん誰もが伝道者になるわけではありません。キリストに従うと言ってもいろいろな道があります。神様は一人ひとりの信者に対し、もっともふさわしい道を示して下さいますから、私たちにはこれを祈りつつ求める日々が準備されています。

イエス様が律法学者や弟子に言われたことは、私たちへの警告の意味を持っています。律法学者の「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という言葉は、最後の晩餐の日にペトロの口から出た言葉を連想させます。ペトロは「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ったのですが、そのあと、舌の根もかわかぬうちにイエス様を知らないと言って、裏切りの罪を犯してしまいました。また、大切な決断を先延ばししたことで、そこから受け取るはずの恵みを取り逃がしてしまうということは、聖書にも私たちの日常生活にもたくさんあります。

神様の恵みは畑に隠されている宝のようなものです。ふだんは気にとめられることが少なく、無視されがちですが、もしもそこに宝があるとわかったなら、人は持ち物を全部売り払っても、その畑を買うのです(マタイ1344)。私たちがみな目先の安っぽい宝物に目を奪われず、畑に隠されている本当の宝者を

求める者となりますように。

人はえてして主イエスの厳しい言葉を水で薄めて安心しようとしますが、そのようなごまかしを捨てて、これにしっかりと向き合いましょう。イエス様が自分に何を呼びかけているか問い続け、口先やカラ元気から来るのではなく、心と言葉と行いを持って真にキリストに従う人生を歩み続けることができるよう、神様のお支えを願います。

 

(祈り)

 

私たちの主イエス・キリストの父なる神様。み名を崇めます。礼拝を通して、あなたのご臨在の恵みにあずかることが出来たことを、心から感謝申し上げます。キリストに従うと言葉では言いながら、実際にはあなたからいただいた人生の課題から目をそらし、ただお恵みだけをいただこうとばかり思っている私たちです。しかし神様のもとには、私たちが想像も出来ないような素晴らしい世界があるはずです。その恵みにどうか心の目を開かせて下さい。私たちの前を先立って進まれるイエス様に従いつつ、人生の確かな歩みをしてゆくことが出来ますように。主のみ名によって、祈り願います。アーメン。