神の霊に生かされる

神の霊に生かされる   創世記24b7、使徒214 2023.5.28

 

今日の礼拝説教のタイトルは「神の霊に生かされる」です。この中の「霊」という言葉はなかなか難しく、よくわからないという人が多いと思います。日本語では「霊」は死んだ人やおどろおどろしいもののように見られていることも多い言葉で、「幽霊」、「亡霊」、「悪霊(れい)」、「悪霊(りょう)」、「怨霊」と並べていくと怖い感じがします。また、怖くはないのですが、精神の精がついた精霊という言葉も、わかったようでわからない言葉です。「あなたには背後霊がついている」と言われたら、ぎょっとしてしまう人もいます。そういうことがあるためか、「聖霊」とか「神の霊」という言葉も誤解されやすくなっているかもしれませんが、聖書ではそれらは神様から来ること、そして神様自身であること教えています。決して、幽霊などの仲間ではないので、混同しないようにして下さい。

聖書は、この世界には霊的なものが、良いものも悪いものも含めて存在することを教えています。

 ただ世の中には、「霊」などうそだ、そんなものはない、という人がいます。

目で見ることが出来たり、測定できるもの以外は存在しないという立場ですね。

ふだん私たちが見ているものばかりでなく、宇宙全体というたいへん大きな世界を見ても、そこにあるのはもの、つまり物質だけであって、それが運動することですべては動いていくのだと。この人たちは、神様がおられることを信じません。神様なしで世界は動いているのだと考えます。

この考えに立つ人の中にも多様な考え方があって、その中には、人がこの世で生きる目的は豊かで快適な生活を送るため、そして死んだら無に帰るだけだと、人生難しいことを考えなくても愉快に楽しく生きればいい、その方が寿命も伸びるし良いじゃないか、という人だっています。このような人のことを皆さんはどう思われますか。

戦前、日本統治下の朝鮮で日本への抵抗運動を行った朱基徹(チュキチョル)牧師という人がいました。投獄されてしまい、その時となりにいたのが、やはり日本への抵抗運動を行った無神論者の共産主義者で、彼が言うには「君は良いよ。死の向こうにも希望を持っているのだから。僕にはそんなものはまったくないんだ」と。二人とも同じように不条理な死が迫っていたのですが、神を信じる人と信じない人ではこれだけの違いがあるのです。

神様の存在を否定する人も多様で、中にも立派な人がいることも否定しません。ただ、やはり神様を信じないことで人生の道を踏み誤ってしまう人が大勢いることは認めなくてはなりません。

聖書は神様が確かにおられ、神様が世界をお導きになっていることを証ししています。聖書に幽霊は出て来ませんが悪霊なら出て来ます。これは悪魔から来ているもので人間に災いをもたらす霊ですが、神様が送って下さるのは、このようなやっかいものとは全く違う霊です。

 

創世記2章に天地創造の物語の一部が書いてあります。7節を見てみましょう。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。ここで神様は、土の塵で作った人に命の息を吹き入れた、そこで人は生きる者になったと言われていますが、詳しくお話ししましょう。

神様は土の塵から人を造られた、と言います。土をアダマと言い、最初の人をアダムというのは語呂合わせのようですが、これは土の塵と人間がたいへん近い関係にあることを示しています。…人は土の塵から造られました。塵は日本語ではゴミのようにきたないものを言うことが多いのですが、天地創造というはるか昔の時代に紙のゴミやプラスチックゴミがあるはずはありません。ここでは細かい土の粒とか砂粒を意味しています。

人が土の粒や砂粒から出来ているのがわかるのはお葬式の時です。お葬式に出たり、見たことのある人なら誰でも知っていることですが、死んだ人をそのまま埋葬するとやがて土に帰ります。死体を焼いても骨になり、これもやがて土に帰ります。人は土から出て土に帰るのです。人間は、土にすぎない者なのです。

人間の力で、土から人間を作ることが出来るでしょうか。粘土をこねていくら人の形を造ったところで、それがしゃべったり、手足を動かしたりすることは出来ません。それだけでは命あるものにはならないのです。

聖書は、別の場所で人間の体のことを土の器と言っています(Ⅱコリント47)。土の器にすぎないものに何かが与えられないと、生きた人間になることは出来ませんが、神様はこれに、宝物のようなとうといものを入れて下さいました。もう一度7節を見てみましょう。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。命の息が吹き入れられたことで、人は生きる者となったのです。

命の息とは何でしょう。…私たちはみんな息をしています。呼吸しています。誰でも息をしなくなると死んでしまうので、ここでは神様が人間に呼吸をさせたことだと考える人がいるでしょう。ただ聖書は何千年も昔に書かかれたものなので、注意して読んでいかなければなりません。命の息を吹き入れられたのは人間だけです。動物も植物も呼吸していますから、彼らにも息は与えられたのですが、命の息が吹き入れられたとは書いてありません。人間は、人間だけに与えられた命の息によって、生きる者となったのです。

ヒトと動物には共通している部分が多いです。チンパンジーとヒトのDNAは98パーセント、同じなのだそうです。同じ祖先から出て来たのだとすればそうなるのが当然でしょう。しかしチンパンジーとヒトを一緒にすることは出来ません。チンパンジーも人も土から出て土に帰ります。同じように呼吸しています。けれども神様は動物と人間を区別されました。…動物と人間では決定的に違うところがあるのです。人間は神様との関わりの中で生きており、神様に導かれ、そのことを自覚しています。本能のままに動くということはなく、人格を持っています。だから神様のことを覚えて、今ここで皆さんがしているように礼拝をするのです。…動物も神様との関わりの中で生きており、神様に導かれていますが、しかしそのことを自覚していません。本能のままに生きていくだけなので、動物が集まって礼拝するなんてことは考えられません。

人間だけが神様を信じ、礼拝します。もちろん、神様を礼拝しないたくさんの人がいるじゃないかと言われたらその通りなのですが、それは人間本来の姿ではありません。人間も動物もこの世界の中で自然に湧いて出て来たものではなく、神様が造られたのです。そのことを動物は知りませんが人間は知っています。人間だけに命の息が与えられたから、人間が神様を信じ、礼拝するのは当然なのです。

聖書の中に書いてある息、風、そして霊という3つの言葉は、聖書の原文では同じ一つの言葉になっています。日本語に訳す時にそれぞれ書き分けてあるのですが、みな神様から来たもので意味は近いのです。人間だけに与えられた命の息、これを命の霊と言っても間違いありません。神様から来たものなので、それは神の霊、すなわち聖霊でもあるのです。

 

最初の人間アダムの創造のあとも神の霊はたびたびこの世界の上に送られましたが、それが決定的な形で起こったのが五旬祭というお祭りの日です。五旬祭を原文ではペンテコステと言い、イエス・キリストが十字架上で亡くなられてから50日目に当たっていました。教会ではこの日をペンテコステ礼拝として守っています。

 皆さんごご存じの通り、イエス様は十字架上で亡くなられたあと3日目に復活され、40日ののちに天に帰られました。復活したイエス様は使徒たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と言われていました。父の約束されたもののことを、イエス様は真理の霊と言っておられます(ヨハネ1417)。やはり霊の一つです。神の霊や聖霊のことです。

使徒たち、イエス様に従っていた女性たち、イエス様の兄弟など総勢120人ほどの人たちが毎日心を合わせて熱心にお祈りしていました。そして、それがだんだんと熱烈な祈りになっていきました。自分たちの中でそれを押えつけるのが不可能なくらいに。こうしてペンテコステの朝、一同が一つになって集まり、祈っていると、…使徒言行録2章2節をご覧下さい。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2:1~4)。

ここで彼らの上に与えられたのが真理の霊であり、神の霊です、3節では聖霊と言われています。みんな同じです。

聖霊が降った時、激しい風が吹いて来るような音がして、120人ほどの人々が座っていた家中に響きました。先ほど申し上げた通り、聖書の原文では霊と風と息は同じ言葉で、それが天から、父なる神とイエス・キリストから来て、120人ほどの人々の上に注がれた時、大きな音が響いたのです。そして、その直後、炎のような舌が分かれ分かれに現われて一人一人の上にとどまりました。ここで起こったのは不思議なことですが、さらにそれ以上、不思議なことが起こります。大きな音がして、炎のような舌が一人一人の上にとどまると、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。このことは、この先起こってくるさらに大きな出来事をあらかじめ示すしるしとなっています。それが全世界に広がる教会の誕生です。

聖霊を受けた120人ほどの人々は建物の中から飛び出し、通りや広場に出て、いろいろな言葉で語り始めました。このあとのことは聖書で今日読み上げていないところですが、それはまるで熱に浮かされたような話し方ではなかったでしょうか。言葉が鉄砲玉のようにぽんぽん出て来て、それがみんな神様とイエス・キリストをたたえる言葉、それもいろいろな国々の言葉なので、そこに居合わせた人たちはみんなあっけにとられてしまいました。

 「話をしているこの人たちは。皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また…」、

いろいろな地名が列挙されます。さすがに中国や日本は入っていませんが「あ、ギリシャ語をしゃべっている」、「アラビア語が聞こえた」といった声が聞こえて来たという状況だったのでしょう。もっとも、これを聞いて「あの人たちは、新しい酒に酔っているのだ」と言ってあざける人がいたとも書いてあることから、120人がみんな外国語を流暢にしゃべれたかどうかはわかりません。たどたどしい、片言まじりの外国語だったのかもしれません。でも、そんなことはどうでもいいことです。みんながそれぞれ、いろいろな国の違った言葉で神様をたたえる言葉を語り始めました。そして、これを聞いた人たちの中から3000人ほどの人たちがイエス様を信じて洗礼を受けました。それが歴史上初めての教会の誕生です。今日は、教会の誕生日なのです。

 

天地創造の時、土の塵で造られた人は神の息を吹き入れられたことで生きる者となりました。神様と向かい合い、神様を礼拝する者として人間が立てられたのです。そうしてペンテコステの日、今度は聖霊が降ると、使徒たちを初めとする120人ほどの人々が神様をたたえ、死んで復活したイエス様のことを大胆に語る者とされました。こうして教会が誕生したことから、その恵みは巡り巡って地の果ての私たちのもとにまで届いています。

イエス様が天に帰られたあと、地上でイエス様を見た人は誰もいません。その状況は今も変わりませんが、聖霊が働くことで、各地に教会が起こされ、人が見ることの出来ないイエス様と出会い、礼拝を捧げ、心を通わせることが出来るようになりました。教会で私たちの礼拝を受け入れて下さるイエス様が私たちの信仰を確かなものとしてくれます。どうか聖霊が信仰の薄い私たちの前にイエス様を指し示し、私たちを強めて下さいますように。

 

(祈り)

天の父なる神様。いま聖霊なる神様が私たちを導いて、父なる神様とイエス・キリストの前に集め、礼拝の恵みを受けることが出来たことを思い、心から感謝いたします。

聖霊なる神様について、私たちはこれまで素通りしていたところがありました。父なる神様、子なる神様についてはわかるけれど聖霊のことはさっぱりわからないという人が多いのです。しかし、わかってもわからなくても、私たちの人生は聖霊に導かれています。どうか、そのことに心の目を開かせて下さい。

神様、この世界に今も聖霊が生きて働き、各地の教会を支えておられます。どうか聖霊によってこの地に立てられた広島長束教会を強め、聖霊によって私たちの信仰を燃え立たせて下さい。教会と私たちそれぞれに迫ってくる試練から私たちを守り、イエス様のもとで生きる喜びと力を与えて下さい。主イエスのみ名によって、祈り願います。アーメン。