ユダヤ人と日本人

ユダヤ人と日本人  詩編116、ロマ21216  2023.5.21

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1328、讃詠:546、交読文:イザヤ58911、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:355、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

本日の説教題は「ユダヤ人と日本人」としました。ここから、むかし「日本人とユダヤ人」という本があったことを思い出された方があったかもしれません、「日本人とユダヤ人」は1970年に、神戸生まれのユダヤ人イザヤ・ベンダサンの著書として出版されたものです。日本人とユダヤ人を比較対照するという、意表を突く設定が驚きをもって受け止められ、ベストセラーになりましたが、その内容については批判もされています。

 ユダヤ人という世界の歴史の中でも特殊な位置を占めている民族と、この民族には歴史の長さの点で及ばないものの島国の中で数千年変わらず生きのびてきた日本人を並べて比較するというのは日本人のプライドをくすぐるようで、これとよく似たことを言う人が時おり出てきます。「日猶同祖論」なんていうのもその一つです。これは紀元前8世紀、アッシリアに滅ぼされて歴史から消えてしまったイスラエルの失われた10部族がめぐりめぐって日本人になったというもので、相当に怪しい説だと見なければなりません。

今日の礼拝説教で、そのような、ユダヤ人と日本人の民族としての特性を比較対照するつもりはありません。…ロマ書では、1章10節に「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも…」という言い方がされており、2章9節も「ユダヤ人はもとよりギリシア人にも」と言っています。どうしてこの2つしか出て来ないのかということですが、パウロはここでユダヤ人とギリシア人に世界のすべての民族を代表させているのです。世界のすべての民族はユダヤ人とそれ以外に分類されます。それ以外の民族をユダヤ人は異邦人と呼びましたが、ここではそれをギリシア人と言っているわけです。…今日の礼拝説教のタイトルが「ユダヤ人とギリシア人」だとピンと来ないでしょう。そこで「ユダヤ人と日本人」にしたのです。

 

パウロはローマの教会にあてたこの手紙の1章の中で、異邦人の罪を列挙しています。異邦人の罪とは、まことの神を拝まず、偶像礼拝に走るところからもたらされるあらゆる悪徳を指しています。ローマの教会でその部分が読み上げられていた時、それを聞いていたユダヤ人キリスト教徒は、自分の思っていることをよくぞ言ってくれた、と拍手していたと思うんですね。

ところが2章に入ると、批判のほこ先はユダヤ人に向かいます。「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(21)。パウロ自身、ユダヤ人ですが同胞に対してこういう厳しい言葉を投げつけているのです。

私には、ユダヤ人の友人も知り合いもおりませんから、現代のユダヤ人がどういう人たちなのかというのはわかりませんが、聖書に出て来るユダヤ人についてはある程度お話出来ます。2000年前のユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた民であるというのが大きなプライドになっており、それ以外の異邦人を罪人(つみびと)だと見なして裁いていたのです。その根拠となるのが、自分たちに律法が与えられているということです。

律法はご存じのように出エジプト記、レビ記、申命記などに書いてあります。内容においても量においても、これに匹敵するものが古代世界においてほかにあったでしょうか。…偶像を礼拝する周囲の諸宗教にはそんなものはありません。ギリシャ神話に面白い話はたくさんありますが、これでもって人間を正しく導いていける内容があるとは考えられません。ですからユダヤ人が律法を誇りに思うのはわかるのですが、彼らはそのことをもって自分たちが神の特別な祝福を受けているのだとする一方、律法を与えられていない異邦人を滅びに向かうしかない人々だと見なしていましたから、自分がユダヤ人であるというただそのことだけで救われる、死後すぐに神のみもとに行けるのだと信じていたということです。…イエス様に先立ってバプテスマのヨハネが出現した時、彼は洗礼を受けに集まってきた人々に言いました、「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」(マタイ39)と。アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちもアブラハムと同じく神の恵みを受け、救われていると思っていたのですが、ヨハネは、そんなプライドなど意味がない、と警告したのです。パウロはそれと同じ線に立っています。あなた方は異邦人を罪人と見なし、裁いているが、自分たちも同じようなことをしているではないかと。お前たちも罪人なのだ、と。…そこから「神は人を分け隔てなさいません」(111)という言葉が導き出されます。

神は人を分け隔てなさらないというのは、人生における幸福や不幸とは関係ありません。…人間は決して平等に造られてはおらず、お金持ちの家に生まれる人もあれば貧しい家に生まれる人もあります。何の苦労もなく人生を過ごす人も、苦しみばかり多い人生を過ごす人もあるので、人はとかく神様がある特定の人ばかりえこひいきしているように思ってしまうことがあるのですが、ここで、そんなことが言われているのではありません。

12節は「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下(もと)にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます」と言います。まず、こういう律法談議について、頭を整理しておきましょう。

律法を知らないで罪を犯した者というのは異邦人です。そこに日本人も含まれます。その反対に、律法の下(もと)にあって罪を犯した者とはユダヤ人です。

ユダヤ人は律法を与えられていますから、罪を犯せばその律法によって裁かれます。たとえば律法には「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」(出2112)と書いてあります。ユダヤ人で殺人を犯した人は、この掟によって裁かれてきたのです。

では異邦人はどうなのか。異邦人には律法は与えられていなかったので、殺人をを犯したとしても、律法の条文によって裁かれることはないのです。では、殺人を行ってもお咎めなしなのか、そんなことはありませんね。パウロはその場合でも「律法と関係なく滅び」と書いています。殺人が自由に出来る民族など世界のどこにもありません。律法などなくても、その民族の掟によって罰せられます。異邦人世界も神様の支配の下(もと)にあるからです。

つまり律法を与えられていようといまいと、ユダヤ人であろうと日本人であろうと、罪を犯せばその罪によって裁かれ罰せられる、その結果滅びる、それが神の正しい裁きであって、そこには何の分け隔てもないということです。神のみ前で、その裁きを免除されたり、大目に見てもらえるような人はどこにもいない、それが「神は人を分け隔てなさいません」という言葉の意味です。この点において、全ての人間は平等です。ユダヤ人でも異邦人でも、先進国に住んでいる人も、未開人と呼ばれている人もみな同じなのです。

 パウロはこのことをさらに明確にするために14節、15節でこう語っています。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」。

 なかなか難しいのですが、かみくだいて言うとこのようになるでしょう。つまり、神様の掟である律法を知らない異邦人でも、心の中に神様の掟が書かれていて、そのことを自然に行っているなら、彼らがユダヤ人に比べてどうしようもなく遅れているとは言えない、ということです。

 では、律法のことを教えられてなく、知らされてもいない異邦人がなぜ律法の命じるところを自然に行うことが出来るというのでしょう。律法が与えられていない人々の社会というのは、乱れに乱れてしまうだけではないのでしょうか。確かにそういう現実もあります。しかし、そんな異邦人も心の奥底では、正しいことと悪いことを区別できます。罪から離れ、正しい方向に向かおうとする力があるのです。それは、彼らの心の中に神様の掟である律法が書かれているからということです。どういうことでしょう、そこには良心というものがあるのです。

 律法など与えられていない世界に生きる異邦人であっても、律法の命じる事がらがその心に記されてそれを行っているのは、どんな人にも与えられている良心の働きによるのです。心の中に良心の声があって、その人の思いや行いをチェックしており、悪いことを考えたり、行ったりしそうになると、それはだめだ、やめなさい、と言うのです。…パウロは、異邦人の心の中にも働いている良心の働きによって、彼らが律法が求めていることを行っていくならば、律法が与えられても律法が求めることをしていないユダヤ人のプライドとはいったい何なのか、大して変わりがないではないか、神は異邦人とユダヤ人を分け隔てなさらない、異邦人でもユダヤ人でも罪を犯せば罰し、良いことをすれば喜ばれるということなのです。場合によっては、異邦人の方がユダヤ人よりすぐれているということもあるのだ、と言うのです。

 パウロがここで言っていることは、この時代としては画期的なことでした。

これは、自分たちだけが神に選ばれた民であり、律法によって神のみ心を示されているという自負を持ち、そうしたプライドを拠り所にしていたユダヤ人に対する、たいへんに挑発的な批判です。これを知ったユダヤ人の教会員は顔を真っ赤にして怒ったかもしれません。誇り高いユダヤ人が、心の中では軽蔑し、野蛮人のように見なしていた異邦人と一緒くたにされてしまったのですから。

 

 

神のなさることはまことに不思議で、それを人間がわかったように言うことは出来ません。私も、牧師なのにわからないことばかりなのですが、ご容赦下さい。

 パウロがここで議論していることは、救いという問題に直結します。この時代のユダヤ人が神の恵みによって自分たちは救われるけど、異邦人は滅びると考えていたところに、パウロはそれは本当かと、爆弾宣言をしています。

 いったい、異邦人は救われるのでしょうか。

 その後、キリスト教はヨーロッパで盛んになり、やがて世界へと広がっていきました。日本人に初めて福音を伝えたフランシスコ・ザビエルが、日本人信徒から「福音を聞くことなく死んだ自分たちの先祖はどうなったのですか。地獄に落ちたのですか」と尋ねられて、たいそう困ったという話があります。イエス・キリストを信じて救われた自分たちは良いけれど、キリスト教到来以前の時代に生まれて、福音に接することなく死んだご先祖さまはどうなったのか、救われなかったのか、地獄に落ちたのかというのは、先祖を大切にする日本人にとってたいへん大きな問題でした。

 この問いにザビエルがどう答えたかというのは、私が調べた限り、立ち往生してしまったというのがある一方、それとは反対に、先祖たちが「主なる神の恩恵の助けによって、罪の償いができる」と答えたことに信徒たちは安堵して大いに喜んだというのもあって、事実を確かめることは出来なかったのですが、そうした問題に対し、私たちはパウロの言葉からその答えを探すことが出来るでしょう。

 クリスチャンの中には、信者以外はすべて地獄に落ちる、キリスト教到来以前の時代に生きた人たちはもとより、そのあとの時代に生まれたどんな立派な人であってもキリストを信じていなければみんな地獄に落ちるという人がいます。しかし、聖書にそのようにはっきり書かれているわけではなく、神のなさることを人が先走って宣言することは出来ません。

 パウロは、異邦人で律法が与えられていない人でも、律法が言うことを実行しているなら、つまり自分では自覚しないまま神の掟に従っているなら、13節で「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」と書きました。そのことは、断言することは出来ませんし、さまざまなケースを考えなければなりませんが、異邦人が救われている可能性があるということにほかなりません。

 パウロの言葉はユダヤ人キリスト者のプライドを打ち砕いてしまいましたが、これとよく似たケースは現代の教会にもあります。クリスチャンの中にも、自分を高く掲げて、信仰のない人を内心低く見て、あの人たちはみな地獄に落ちると信じている人がいないとは言えません。…私たちは知っておきましょう。自分を高く上げることは出来ません、崇められるべきなのは父、み子、みたまなる神様だけです。私たちは主イエスが良い僕について言われたように、神様から命じられたことを果たしたら、「わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです」(ルカ1710)と言うだけで十分です。私たちは、キリスト者も罪を犯してしまう反面、キリスト教信仰を持っていない人でも実質的には神に従うのと同じ生き方をしている場合があることを覚え、神のみ前にこうべを垂れるべきです。

しかし、そのことは、信仰がいらないということでは決してありません。神は私たちと同様、いま信仰を持っていない人をも深いみこころによって導いておられます。ですから、その人がついに神の導きを悟って、イエス・キリストの下(もと)にかえるという希望を持って良いのだし、そのために出来ることは何でもしたいと思います。

 パウロが、律法を持たない異邦人の救いにまで言及している時、そこにイエス・キリストから注がれる光が差しています。16節、「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」

 私たちは、終わりの日にすべての人が神のみ前に立つこと、神の裁きがイエス・キリストを通してなされ、その執り成しが与えられることを教えられています。いつの日か訪れるその日、イエス様を信じ、洗礼を受けた者が救われるのは確かですが、そのことに安住することは出来ません。

神様の裁きは、すべての人に対し、信仰があろうとなかろうと公平になされるのです。誰が救われるか、誰が滅びるか、考えてもわからないことばかりですが、今わからないことも、やがてイエス・キリストが明らかにして下さいます。だから私たちは、いま自分が歩んでいる信仰の道を迷わず、まっすぐに進んで行こうではありませんか。

 

(祈り)

 天の父なる神様。神様は、人間が究め尽くすことの出来ない深いみこころでもって世界を治めておられ、そのことを礼拝とそこで語られるみ言葉によって教えて下さっています。

 パウロがユダヤ人と異邦人について語った言葉を、いま私たちは異邦人のキリスト者として聞くことが出来ました。私たちはもともと律法が与えられていない者たちですが、奇しき恵みによって教会につながり、神の民となることが出来ました。しかし、私たちは圧倒的多数の本当の神様を知らない人たちの間で生活しています。家族や友人にイエス様のことを知らせようとしても、なかなかその思いが届かないことに悩んでいます。私たちの先祖のほとんども福音を知らずに生き、そして死んで行きました。イエス様を信じることのなかった人たちが神様の前でどうなるかというのは、私たちにとって大きな関心事ですが、どうかその方々のためにも尊い命を捧げられたイエス様の思いが実を結んでいることを信じさせて下さい。そして、教会に集う私たち自身の信仰がマンネリ化しないように、本当の神様を知らない人たちの前で思い上がることなく、また少数者意識に閉じこもることなく、キリストの名を頂くに恥じない者として下さい。

 いま、広島でG7サミットが行われています。広島はこれまで核兵器廃絶と恒久平和を求める切なる願いが、実現するかと思ったら裏切られることを繰り返して来ました。神様、広島から本当の平和が発信されますように。為政者はもとより、あらゆる人が平和を自分の問題として考え行動することが出来るよう、平和の君であるイエス様の栄光を輝かせて下さい。

 

 とうとき主イエスの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。