信じたとおりになるように

信じたとおりになるように イザヤ5618、マタイ8513 2023.5.14

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1327、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:20、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:68、説教、祈り、讃美歌:354、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

今日与えられたのはいっけん地味なお話で、聖書の読者にはあまり注目されてこなかったかもしれません。しかし、これは主イエスから「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われた人のお話で、黙って通り過ぎるわけにはいかないのです。

教会ではいつも信仰、信仰と言いますが、信仰とは何なのか、案外わからないものです。ためしに信仰の例として主イエスが取り上げたところを探してみましょう。新約聖書にはマタイの6章30節に「信仰の薄い者たちよ」という言葉があります。ここに限らず、主イエスが人々の不信仰に驚かれたり、嘆かれたりされたところはたくさんあるのですが、では信仰をほめて下さったところはというと、あまり多くありません。イエス様から「あなたの信仰があなたを救った」と言われた人の例などいくつかあるのですが、実はこの百人隊長に匹敵する言葉をかけてもらった人はいないのです。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」、イエス様からこんな言葉をかけてもらった人は他にはだれ一人いません。

この人は信仰者の鑑と言って良い人です。だから、これはもっともっと注目されていい話なのですが、実際にはそうはなってはいません。アブラハムが息子イサクを捧げた話などに比べて影が薄い印象で、ここから説教をするのもたいへん難しいのですが、イエス様はいったい。この人の何に驚いて、これほどまでにほめて下さったのかということを考えてみたいと思います。

 

この出来事はカファルナウムという町で起きました。ガリラヤ湖に面した町で、ナザレから出て来た主イエスは、ここを根拠地としてガリラヤ地方一帯の伝道を進めていったのです。主イエスにとって第二の故郷のような町、そこに、百人隊長がいたのです。名前はわかりません。百人隊長というのは百人の兵士を統率する隊長です。当時ローマ帝国はユダヤ全国を支配し、ローマの軍隊が各地に駐屯していました。ローマの一つ一つの軍隊は六千人から成り、これが六十の百人隊に分かれており、この百人の指揮官として百人隊長が置かれていたのです。

この人はユダヤ人ではありません。異邦人です。立派な人でしたが、もしかするとローマの軍人の間では変わった人だと思われていたかもしれません。というのは、ローマとユダヤの関係は、占領軍と戦いに敗れた国の関係ですから、ローマの軍人ならユダヤ人を上から見下ろして、傲慢にふるまうことも出来たのです。しかし、この人はユダヤ人に対し何の偏見もなく、高慢な態度を示すことがありません。ルカ福音書の7章4節では、ユダヤ人の長老たちがこの人について、「わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」と言ったことが記録されており、ここから、彼がローマ帝国の人々が普通に拝んでいる神々ではなく、ユダヤ人という当時の世界の中では一風変わった民族が拝んでいるただひとつの神に心を寄せていたことがわかります。…もっとも、彼はユダヤ教に改宗まではしていません。当時、異邦人がユダヤ教に改宗しりためには、割礼を受けてユダヤ人にならなければなりませんが、そこまではしていなかったはずです。

この百人隊長の僕が中風のためにひどく苦しんでいました。中風とは、脳血管障害による後遺症である半身不随、言語障害、手足のしびれやまひのことです。脳卒中による後遺症と考えて良いでしょう。この時代、僕が生きようが死のうが大したこととは思わない人も多かったはずですが、この人はそうは思いません。彼は僕を親身になって看病しました。この人の社会的地位からすれば、すぐれた医者や高価な薬を求め、手を尽くして看病したのでしょう。しかし、その甲斐なく、僕の病は日に日に重くなるばかりでした。           

そんな時、百人隊長はイエス様のことを聞いて、この方ならと思って助けてもらおうとしました。人生で危機にある時にイエス様がおられるというのは、何にも代えがたい恵みにちがいありません。百人隊長は主イエスの前に出て懇願しました。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」。……そこで主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたと書いてあります。そのように受け取って良いのですが、しかし、7節のこの部分にはもう一つの訳し方があります。それは「私が行っていやせと言うのか」というものです。原文は疑問文に訳すこともできるのです。

イエス様のことですから、親切に、病気をいやしてあげようと言うのならわかります。しかし「私が行っていやせと言うのか」だと、なぜ、イエス様らしからぬ冷たい言葉が出て来るのかということになりますね。ここは百人隊長が異邦人であったことを踏まえて考えなければなりません。

この時代のユダヤ人にとって、ユダヤ人とそれ以外の人々、つまり異邦人とは、まったく違うのです。ユダヤ人にとっては、神様が世界の諸民族の中でただ一つ選んで下さったのが自分たち、だから救いにあずかるのは自分たちで他の民族は救いからもれてしまうのです。そしてイエス様にとっては、福音はまずユダヤ人に、そしてそのあと異邦人世界に伝えられていくべきものだったので、ご自分がユダヤ人であるという立場も踏まえつつ「異邦人であるあなたが」、つまり私たちの神とはもともと関係ないはずのあなたのことで、「私が行っていやせと言うのか」と尋ねたとしても、少しもおかしくはないのです。

もっともイエス様のお答えがどうであれ、その時、百人隊長は、自分が異邦人であることを踏まえて発言しています。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」

百人隊長の口からこれほど丁寧で、へりくだった言葉が出て来るというのは、普通は考えられません。この人は占領軍の将校ですから、イエス様に向かって家に来るよう命令したって良かったのです。ユダヤ人は異邦人を軽蔑していましたが、異邦人もユダヤ人を自分たちより一段下の連中だと見なしていました、そのユダヤ人であるイエス様に占領軍の将校が頭を下げているのは不思議です。

 百人隊長はこのように言っているのです。「私は異邦人です。神様の選びから漏れた人間です。神様の恵みにあずかる資格などない人間で、そのことは、よくわかっているのです。しかし、他の何でもない、あなたの言葉がほしいのです。私の僕が病気です。あなたがひと言おっしゃって下されば、私の僕はいやされます」。

 ここから私たちは、この人の、み言葉に対する絶対的な信頼を見るのです。……かりに私たちがこの人の立場にいたら、イエス様に一刻も早く来てもらい、病人に手を置いていやして下さるようお願いするでしょう。「ただ、ひと言おっしゃってください」と言うことはないでしょう。しかし、彼は主とそのみ言葉の力を信じました。主のみ言葉をいただくことは、そこに主イエスご自身をお迎えすることと同じだと確信していたのです。…ただ、そのことは、イエス様の言葉に何か魔術的な意味を求めていたということではありません。

 百人隊長は続けて言いました。「わたしも権威のもとにある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。彼はなぜ、こんなことを言ったのでしょうか。自分の下には百人の兵士がいる。みんなよく言うことを聞く。そういう権威を持っている私なのだ、とふんぞり帰っているのか、もちろんそうではありません。

 ここで注意しておきたいことがあります。「あなたがひと言おっしゃってくだされば僕はいやされます」、ここではどんな言葉を語ってほしいとは言っていないのです。イエス様の言葉の中身について注文するより、イエス様という権威あるお方の言葉を頂くことの方が大事だったからです。そこに、この人の信仰が現れてています。

 ややこしいので、もう少し説明します。「あなたがひと言おっしゃってくだされば、僕はいやされます」というのは、決して、「イエス様がなにか魔術的なひと言を語って下されば僕はいやされるから、それを言ってください」というような、イエス様の不思議な力を信じての言葉とは言えません。百人隊長はイエス様が奇跡を起こして下さるのを願っていたというより、イエス様がおっしゃる言葉が、それがどのような言葉であれ、間違いなく自分の僕を救う言葉であると信じていたのです。自分の下にいる部下たちが自分の言葉に従うなら、ましてイエス様の言葉に服さない何ものもないと信じたのです。…百人隊長はここで、イエス様がこの世のどんな権威とも比べ物にならないまことの権威を持っているお方だということを表明しています。自分をイエス様の下に置かせてもらい、その、並ぶものなき権威から発せられる言葉に従うことが、自分と愛する僕にとって最善のことであると信じたのです。

 

それでは、百人隊長に対する主イエスの言葉を見てゆきましょう。主イエスは感心して「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とおっしゃいました。この時代のユダヤ人なら、信仰することで神から恵みを得ることを期待することはあっても、へりくだって神の権威に服するという態度は見られなかったのです。それなのに、ここで異邦人がみごとな信仰の告白をしました。選民であるユダヤ人ではなく、選びの外にあった異邦人の中に、ユダヤ人には見出せない本当の信仰を見出したことによる驚きがそこにあるのです。

百人隊長は主イエスとそのお言葉にまことの権威があることを信じました。主イエスはその思いを受けとめられたので、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言って下さったのです。まことの信仰は、主イエスの言葉の権威を信じ、これを求めていくところから勝ち取られます。

主イエスは百人隊長に「帰りなさい、あなたが信じたとおりになるように」と言われました。ちょうどその時、僕の病気はいやされました。…信じた通りになる、これほどの恵みはありません。…同じことをクリスマス物語の中で、マリアに会ったエリサベトも口にしています、お腹に子どもを宿した母親同士の会話の中で。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ145)と。まことの信仰に生きる人は祈りがかなえられること、神様に示されて信じたことが実現するのを見るのです。

百人隊長の信仰とは、繰り返しますが、「イエス様にお願いすれば、病気はいやされるに違いない」という程度のことではありません。この人が主イエスのみ言葉にこそ権威があり、力があることを信じて、その御言葉を求めた、その信仰に対して僕の病気がいやされるという恵みが与えられたということです。だから、僕の病気がいやされたことを、主イエスが行った奇跡の一つとして片づけてしまってはなりません。この出来事はむしろ、百人隊長が信じた通り、主イエスにまことの権威があることを示すしるしであると受けとって下さい。

 

 かつて神は全人類を救いに導くために、救いの器としてイスラエル民族、すなわちユダヤ人をお選びになりました。ところが、神の選んだ民の中で信仰はすたれ、異邦人に本当の信仰が受け継がれました。そうして、旧約聖書の時代には神の選びの外にあった異邦人が、信仰によって救いに入ることになり、かわって「御国の子らは、外の暗闇に追い出される」ということになったのです。   

 世界の歴史はまさにこのことを実証しています。大部分のユダヤ人から拒絶された福音は、異邦人世界であるヨーロッパやアメリカに広まってゆくことになりました。しかし今日、キリスト教世界と言われてきた地域は深刻な危機に直面しています。いまドイツの教会に行っても、大きな礼拝堂にわずかな信徒しか残っていないそうです。けれどもアジアやアフリカには、キリスト教が驚くほどの勢いで発展している国があります。先の者が後になり、後の者が先になる、負うた子に教えられるということが実現しているのです。

 

 百人隊長の、み言葉の権威に服そうとする信仰をイエス様がほめて下さったことは、私たちを心強くさせます。なぜなら私たちは、主が地上を去って二千年後の世界に生きており、直接主イエスを見ることが出来ません。しかし、み言葉をいただくことが出来ています。それが、今この時、礼拝の時なのです。

 神の言葉は、神のみこころを確実に実現する力だと言うのが、旧約聖書の教える真理でした。イザヤ書55章は言っています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。

百人隊長はみ言葉がまさにこのような権威と力を持つことを信じたことで、イエス様から「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言って頂いたのです。それなら私たちも、「ただ、ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、私たちはいやされます」と祈りつつ、信仰の耳をもって、主の言葉を聞き続けていく者となりましょう。

「あなたが信じたとおりになるように」。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。み名があがめられますように。いま、信仰とは、権威あるみ言葉に従おうとする、まさに命をかけた決断なのだということを教えられました。み言葉に従うなら救われ、従わなければいのちは失われます。それなのに私たちはこれまで、み言葉の力を信じ切れていませんでした。いま私たちはみ言葉の力を信じます。ただ、ひと言おっしゃって下さい、どうか私たちにみ言葉を賜ることで、私たちをして信仰の道を歩ませて下さい。そうして、信じたことが実現する恵みが与えられますように。主のみ名によって、この祈りをお聞き上げ下さい。アーメン。