平和の根、祝福の実

平和の根、祝福の実  イザヤ27:1~13、使徒4:12 2023.4.30

 

(順序)

前奏、招詞:詩編131:2、讃詠:546、交読文:詩編85:9~14、讃美歌:23、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:75、説教、祈り、讃美歌:174、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

イザヤ書の25章から27章までは、イザヤの黙示録と言われています。黙示録とは、神がその時点で未来の世界に対して行われることを啓示した記録で、イザヤ書では25章から始まり27章はその終わりということになります。神がイザヤに託して語って下さったその言葉は、もともと紀元前8世紀の人々に与えられたものなのですが、しかしこれは現代の私たちにも与えられたメッセージだと考えて下さい。ところどころ意味がつかみにくいところがありますが、これを説きかすためにもこの礼拝があるのです。

イザヤ書27章には「その日」という言葉が4回登場します。1節、「その日、主は厳しく、大きく、強い剣をもって逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺される。」

 2回目が2節、「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。」

 3回目が12節、「その日が来ると、ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで、主は穂を打つように打たれる。」

 そして4回目が13節、「その日が来ると、大きな角笛が吹き鳴らされ、アッシリアの地に失われて行った者も、エジプトの地に追いやられた者も来て、聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す。」

 その日というのは、イザヤが預言した段階では未来のことでしたが、それから2700年も経過した今日では、もう、すでに終わったことなのでしょうか。今がその日なのでしょうか。それとも、その日はまだ来ていないのでしょうか。こういうことを考えながら、それでは、本文に入って行きましょう。

 

 最初に出て来る「その日」、主は逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺されると書いてあります。レビヤタンも竜も、海に住むと考えられていた巨大な怪獣です。古代の人々はこのような怪獣の存在を信じて、恐れていたのですが、現代人は首をかしげてしまうかもしれません。そのため、聖書の記述と科学で獲得した成果を一致させようとして、これは太古の海で実際に生きていた恐竜だと主張する人もいるのですが、そこまで考えなくて良いでしょう。古代の人々は荒れ狂う海の中に怪獣、すなわち神に敵対する力を見ており、そうしたことがここに反映しています。現代の科学をもってしても海を制御することは出来ませんから。昔の人々が荒れ狂う海の中に怪獣を見、また神がそのことを用いてみ言葉を語られたのは、皆さんも理解できることだと思います。

 荒れ狂う海に神に敵対する力を見た人々はさらに、強大な軍事力でもって世界を震え上がらせ、イスラエルをも征服しようとする国々も神に敵対する勢力、すなわちレビヤタンであり蛇である見なしたはずです。この時代の人々にとって、それはアッシリアであり、バビロニアでありました。これらの超大国は、いっときたいへんな力をもって当時の世界に君臨しましたが、やがて滅んで行きました。主なる神がこれを滅ぼしたのです。…それでは、このことは現代に生きる私たちにとって何を意味しているのでしょうか。今の時代にも強大な力でもって世界を震え上がらせる悪魔的な力というものがあるわけです。それが具体的に何であるかということについては、いろいろな考え方があると思いますが…。ヨハネの黙示録12章9節にはこう書かれています。「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」、ここには神の全世界に対する最終的な勝利が約束されているのです。

 

 次に登場する「その日」、ここには見事なぶどう畑についての主なる神の言葉があります。

 ぶどう畑のことは、イザヤ書にすでに出て来ました。5章です。神様がぶどう畑をよく耕して、良いぶどうの種を植え、一生懸命世話をしました。しかし、期待はずれのことが起こりました。そこで実ったのは、神様の意に反して、酸っぱいぶどうだったのです。そこで神はこのぶどう畑を見捨て、荒れ放題になるのに任せてしまわれました。

 ぶどう畑というのはもちろん比喩的な言い方で、これは神の民イスラエルを示しています。神はイスラエルの民をこれ以上はないしかたで愛し、訓練したのですが、それにもかかわらず、この民は神に背いて、神ならぬものを神として拝み、口には出来ないような忌まわしいことを行ってきました。そのため神はこの民を見捨て、アッシリアによって、バビロニアによって、つまり異民族の軍隊を用いて攻撃させたのです。イザヤ書5章にあるのは、ぶどう畑、すなわちイスラエルに対する呪いの歌なのです。

 しかし27章は、同じくぶどう畑のことを語りながら、もはや呪いの歌ではありません。神はぶどう畑の番人、常に水を注ぎ、害する者のないよう、昼も夜もこれを見守ると言われています。もう憤ってはおられません。4節は「茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば、わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす」、もしもイスラエルに敵対する者があれば、神自ら立ち上がって、敵を打ち破って下さるというのです。

 神はイスラエルに対する呪いを放棄なさるので、これが喜ぶべきことであるのは言うまでもりません。…ただし、そのことは、イスラエルの民が以前と同じように、神にそむいたままでいいということではありません。そんなことはありえません。これを示すのが5節の言葉です。「わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい」。

 それまでイスラエルの民は神様にさからってばかりいました。これまで見てきた通りで、それは和解とはほど遠い姿です。しかしその日、そこにはみごとなぶどう畑があります。そこにあるのは、この民が本心から神に立ち帰り、神がこの民を再び受け入れ、この民と和解したことを示しています。

 6節、「時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす」。ヤコブはイスラエル民族の祖先の一人ですから、ここでヤコブとイスラエルは同じことです。この民が神と和解する時、地中に深く根を下ろし、芽を出し、花を咲かせ、豊かな実を実らすことになります。…もしも地面に浅くしか根を下ろしていなかったなら、風で飛んだり、引っこ抜かれたりするでしょう。ほかの教えが説かれた時、誘惑を断つことが出来ず,浮気してすぐに別の神々に心を捧げてしまうということがありますが、深く根を下ろしている、つまり信仰の土台がしっかりしているなら、その心配はありません。この民はまことの神に対する信仰を貫き、そこには豊かな収穫が約束されているのです。

 

 7節と8節はわかりにくいですね。彼とはイスラエル、彼を撃った者とはアッシリアとかバビロニアだと考えて下さい。そうすると「主は、イスラエルを撃った者を撃たれたように、イスラエルを撃たれたか。イスラエルを殺した者を殺されたように、イスラエルをも殺されたか」となります。神はイスラエルの民の間に攻め込んでこれを征服したアッシリアやバビロニアを滅ぼされます。しかしイスラエルの民はそうまではならないと言うのです。神はその後、イスラエルの民を追い立て、異民族の地に追放されました。バビロン捕囚です。国を失うのですから、これはもちろん大変なことです。しかし彼らを征服した国ほどの罰は受けなかったのです。

 9節、「それゆえ、ヤコブの咎はこのようにして贖われ、罪が除かれると、その結果はこのようになる」。神が罰を下されることによって塗炭の苦しみを受け、絶望の淵に追いやられたイスラエルの民ですが、それにもかかわらず罪の赦しを受けます。「このようにして贖われ」と書いてあります。それは無条件の赦しではありません。条件つきの赦し、それは偶像を取り除くことです。イスラエルの民は、自分たちを破滅へと導いた偶像を除くことで過去と決別しなければならない、偶像の祭壇を破壊せよ、アシェラ像とその柱や台は二度と建たないようにしなければならない、ということです。…国中から偶像を取り除くのは、自分は神様に対して罪を犯しましたと、心からの悔い改めなしには出来ないことです。

 そのあと10節と11節には、城壁に囲まれた都が荒れ果ててしまうこと、全く分別のない民が造り主である神から見捨てられてしまうことを書いていますが、これはいったいどの民のことを言っているのでしょうか。私が調べたところ、注解書の一つは、イスラエルの敵がこうなるのだと書いていますが、別の注解書は、城壁に囲まれた町はエルサレムで、分別のない民はイスラエルのことだと書きます。もう一つの注解書は、荒れ果てた町がサマリアなのかエルサレムなのか述べていないと言います。要するにわからないので、皆さんは自分なりに考えて下さいますように。…もっとも、この都がもしもエルサレムだとすると、イスラエルの民が罪を悔い改め、まことに神の民となって見事なぶどう畑にたとえられるようになるためには、まだまだ大変な道のりを通って行かなければならないことになるはずです。

 

 こうしてイザヤの黙示録の最後の場面になりました。「その日が来ると、ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで、主は穂を打つように打たれる」。ユーフラテス川は今のイラクでペルシャ湾に流れこんでいる川ですから、そこからエジプトのナイル川までは広大な地域で、この時代においては全世界のことを示していたのかもしれません。この時、その中のあちこちに神に敵対する勢力が跋扈しているけれども、神はそれらをすべて打ち破る一方、イスラエルの人々に対しては「ひとりひとり拾い集められる」、救いのみ手を差し伸べて下さるのです。

 そして13節、「その日が来ると、大きな角笛が吹き鳴らされ、アッシリアの地に失われて行った者も、エジプトの地に追いやられた者も来て、聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す」。

 アッシリアの地に失われて行った者とは、アッシリアが紀元前722年にイスラエル王国を滅ぼしたあと連行されていった民、失われた10部族と呼ばれます。…また、エジプトの地に追いやられた者ですが、紀元前586年のエルサレム陥落など重大な出来事があった時にエジプトに逃れていった人々のことだと考えられます。…要するに、各地に散らされているイスラエルの民にとって同胞である人々もみんな帰ってきて「聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す」、つまり神を礼拝する民が再び建てられるということです。

 

 預言者イザヤの口からこれらのことを聞いた人々の反応をちょっと想像してみて下さい。この時代、イスラエルの民はエルサレムを都とするユダ王国が大国アッシリアの前に、まるで風前のともしびみたいな状況にあったために、国中に「われわれの国は滅びるだろう」というあきらめや絶望感がただよっていたはずです。イザヤの話を聞いても、そんな夢みたいなことが、と信じなかった人もいたでしょうが、これを信じた人にとっては、神様が再びイスラエルの民を神の民として立てて下さるのですから、希望と力を与えたにちがいありません。

 それでは、現代の私たちは2700年も昔に与えられたこの預言をどう考えたら良いのでしょうか。

 ある教会では、27章6節の「時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす」とは今のイスラエルのことだと教えています。その教会ではこのように説教しました、「1948年にイスラエルが建国されるまで、そこは全くの不毛地帯だった。しかし、世界中に散らばっていたユダヤ人が帰ってくると、ここは世界有数の農業国となった。この国の花の輸出量は世界第4位、果物の輸出量は世界第3位、それこそ地上をその実りで満たしている。この国はなぜそれほどに祝福されているのか。神と和解したからだ。神が彼らを守っていて下さるからだ」と言うのです。

 こういう考え方をする教会はけっこう多いようです。この人たちは、聖書に書いてあることは必ず実現する、今がその時なのだと言うのです。…彼らの考えをまとめてみるとこのようになります、「紀元70年のエルサレム陥落以降、世界中に散らばって、さまよえるユダヤ人と言われた人々が集まってきて、イスラエル国を建国させ、いま国造りに励んでいる。これは聖書の預言が実現したことである」と。そこから、ユダヤ人へのキリスト教伝道を進めると共に、この国を守る、それはパレスチナ人などイスラム教徒から守ることですが。そうして、この人たちがその先に思い描いているのはまもなく実現するというイエス・キリストの再臨なのです。再臨のキリストはエルサレムに近接するオリブ山に来られることになっています(ゼカリヤ14:4、使徒1:11)。この人たちはその日を熱烈に待っているのです。

 けれども1948年のイスラエル建国から現在までの状況、そしてまもなくイエス・キリストが再臨されるということは信じていいことなのか、本当に聖書の預言が実現してきているのかということについては、慎重に検討しなければなりません。…少なくとも今日のイザヤ書27章では、イスラエルの民にとって、神との和解ということがなければ祝福はありません。これがないところで見事なぶどう園について喜び歌うことはないのです。だとすれば今、強引な入植によってパレスチナ人をその土地から追い出し、これに対する武力をも伴う抵抗に武力でもって対処し、戦争まで引き起こしている今のイスラエル国が神と和解しているとはとても思えません。また、この国を守ることで再臨のキリストを迎えることなどとうてい考えられないのです。従って、見事なぶどう畑に対する祝福も人々が聖なる山、エルサレムで主にひれ伏すことも、この人たち、すなわち現代イスラエルにおいて神の約束の実現を信じている人たちが考えているのとは別なやり方でなしとげられると言うべきです。それがどういう形になるかはわかりませんが。

 

 聖書全体を見ると、イエス・キリストを信じなかった大部分のユダヤ人に対し、教会に集まる信徒は新しいイスラエルとされています。そして、いつの日か、このユダヤ人もイエス様のもとに帰ってくるとされています。

ならば私たちはこのイザヤ書27章を、まさに私たちにも向けられた言葉として受け取らなければなりません。ここで神は「わたしを砦と頼む者はわたしと和解するがよい」と言われます。私たちは悪いことをしようと思っていなくても神様から離れ、罪に支配されるものですが、この私たちが神様と和解する方法を見つけなければなりません。…ただ、神さまごめんなさいと言い続けても、それで和解を成し遂げることは出来ません。…神が罪人(つみびと)に向ける激しい怒りをイエス様がすべて十字架上で引き受けて下さったので、私たちはイエス様を信じること、もっと丁寧に言うならイエス様を信じ抜くことによって救われるのです。イザヤ書が言うその日、それは世の終わりの日です、その時、私たちが生きていても、死者の内に入っていても、イエス・キリストの再臨と神の全世界における勝利を見ることになるでしょう。

 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)

 あなたは何を砦と頼んでいますか、何によって自分を守ろうとしていますか。お金ですか、自分の能力ですか、しかし、それらのものをいつまでも保っておくことは出来ません。神が自分の砦だというなら、神と和解して下さい。神との間で平和を確立して下さい、神に逆らうことから遠ざかり、イエス様を言葉の本当の意味で自分の救い主として下さい。

自分の信仰の土台を地中深く、しっかりすえて下さい、それが根を下ろすということで、そのことが自分の外の世界を明るく照らすことにもなるのです。ここにいる誰もが芽を出し、花を咲かせ、豊かな祝福の実を結ぶことになりますように。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様。今日、神様は私たちに、見事なぶどう畑について語ることをもって、神様が不信仰な人間たちへの呪いを祝福に変えて下さったことを見ることが出来ました。神様の永遠の真理が、不安のただよう現実の中、平凡な私たちの内に切り込んでいます。

イザヤ書27章には、神様が全世界において最終的な勝利をおさめることが予告されています。ただ、そのことが21世紀の今、世界と私たちにとってどういう意味があるのかが、今ひとつわからないままになっています。

神様、先行き不透明な今の時代の中、私たちが間違った宗教にだまされないのはもちろんですが、キリスト教の中にもいろいろな考え方がありますから、その中で何が正しく、何が間違っているかを判別する知恵を与えて下さい。

私たちがみな神様の確かな救いのお約束から生まれた確信に生きること、その確信に支えられた愛に生きることをゆるし、命じて下さい。この教会の中には体の病気、また心の病気で苦しむ人がいますが、どうか神様から頂く信仰によって心身の健康を与えて下さい。

神様、広島長束教会は神様から託された務めをまだまだ十分に果たすことが出来ないままでおります。いまだ神様に出会わず、神様の驚くべき力のことを何にも知らない、私たちの身近な多くの人たちに、神様をおそれ、救いを渇望する思いを起こして下さい。この願いと祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によってお捧げします。アーメン。