神は分け隔てをなさらない

神は分け隔てをなさらない ヨブ34115、ロマ2611   2023.4.23

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1311cde、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:9、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:74、説教、祈り、讃美歌:532、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 今日は2か月ぶりのロマ書による礼拝説教になるので、まず前回までのまとめからお話しいたします。

 人間は肌の色や言語などがどれほど違っていようと、生物学的にはヒトという一つの種に属しています。どこの国に行っても良い人もいれば悪い人もいます。人間は変わらないのです。しかしこうした考えになじまない人がいて、自分たちは世界に冠たる民族だけどあの連中は劣等人種だなどと決めつけたりします。

 日本には戦前、八紘一宇というスローガンがありました。「全世界を一つの家のようにする」と説明されましたが、それは日本が世界に君臨することで成し遂げられます、つまり他のすべての民族から抜きんでた日本人が世界を支配するということで、侵略戦争のスローガンとして用いられてしまいました。…日本人が日本の伝統文化とか優れたところに誇りを持つのは当然ですが、だからといって他の民族を見下したり、まして征服しようとすることが良いはずはありません。自分の国のすぐれたものに本当に誇りをもっている人なら、他の国のすぐれたものも尊重するはずです。

 日本人、朝鮮人、中国人、いずれもプライドが高いという点では相当なものがありますが、しかしユダヤ人にはかないません。私はユダヤ人と個人的につきあったことがないので現代のユダヤ人についてはわかりかねますが、2000年の昔のユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた民、神の民であるというのが大きな誇りとなっており、他の人々を異邦人と呼び、神に従っていない罪人(つみびと)だと見なして裁いていたのです。

 ユダヤ人は当時、政治的にはローマ帝国の支配を受けていた民族であったにもかかわらず、プライドはものすごく高くて、その根拠となっていたのが律法です。律法とは、主なる神がかつてモーセを通して与えた、神の民として生きるための掟です。ユダヤ人は、自分たちに律法が与えられたことで、神の特別な祝福を受けているのだと思ってそれを誇りとする一方、律法を与えられていない異邦人を滅びに向かうしかない罪人として裁いていたのです。

 パウロはこの手紙の1章において異邦人の罪を列挙しています。異邦人のさまざまな悪徳の根底にあるのは偶像礼拝です。これは律法においてもっとも強い言葉でしりぞけられていることですが、当時、ギリシャやローマの人々の間ではよく見られたことでした。様々な場所に偶像が置かれていたばかりでなく、そうした神々を祀る神殿も建設され、たくさんの信者を集めていましたが、そのことはさまざまな悪徳を蔓延させる結果につながります。それが1章29節以下に書いてあります。あらゆる不義、悪、貪り、悪意、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念、陰口、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲となっているのです。ローマ教会でパウロのこの手紙が読み上げられ、こうした異邦人の罪が列挙されていることを知ったユダヤ人は、「それみろ、思った通りじゃないか。異邦人はなんてひどい連中なんだ」と思ったはずです。

 しかし、この手紙は2章になってから批判の矛先が変わります。標的はユダヤ人です。1節、「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」なぜ、そのように言われなければならないのでしょう。この当時のユダヤ人は異邦人とは違って、偶像の神々を拝むことは絶対にしません。しかし偶像礼拝とはそういう外面的なことだけに留まるものではないのです。神が造られたものを、たとえ神とは言わなくても、それに近い位置に引き上げてしまうのが偶像礼拝で、そこではしばしば人間が神格化されます。これをユダヤ人にあてはめると、神が自分たちのような小さな、弱い民を選んで下さったことを感謝して神を崇めるのではなく、自分たちは偉いんだと言うことで、神を使って自分たち自身を崇めています。神を自分の思いや願いを適えてくれる都合のよい存在にしようとすることで、神を自分のレベルに引きずりおとし、自画自賛しているのです。それは偶像礼拝だと言えないのか、ということなのです。ユダヤ人の、そのような的をはずれた信仰生活が、神と人の関係ばかりでなく人と人との関係も破壊するので、ユダヤ人も異邦人と同じような悪徳にそまっている、というとパウロは言っているのです。

パウロに言わせれば、ユダヤ人は神から律法を与えられていることを誇りとし、律法を与えられていない異邦人を自分たちとは違う劣った連中だと裁きながら、自分も律法の精神を傷つけ、律法が本当に求めていることを行なっていないのです。5節では「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています」とし、「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」と結んでいます。ユダヤ人だから異邦人だからというのではない、ユダヤ人にも神の怒りはくだるのだ、と言うのです。それが起こるのは「神が正しい裁きを行われる怒りの日」、今日明日ということではなく、最後の審判の時ですが、その日、異邦人が犯した罪はもとより、神の民であるユダヤ人が犯した罪も、神の前に顕わにされ、罰が下されるのです。

 

 こうして、ようやく6節に入りますが、ここに解釈が難しい問題があることに皆さんは気がつかれたでしょうか。こう書いてあります。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」

 これをリビングバイブルのわかりやすい翻訳ではこうなります。「神様は、一人一人に、その行いにふさわしい報いをお与えになります。神様の喜ばれることを忍耐強く行ない、目には見えなくても、神様が与えようとしておられる栄光と栄誉と永遠のいのちを求める人には、それが与えられるのです。」

 これまで教会では、プロテスタント教会では、信仰によって義とされるという、信仰義認の教えが大切にされてきました。パウロ自身がそれを説き、宗教改革者によって明らかにされ、教会ですっぱく言われてきたのは、人は死んで復活されたイエス・キリストを信じることで救われるということです。断じて、善い行いをすることによってではありません。それなのにパウロがここで、これと矛盾するようなことを言っている、それはなぜかということが問題です。

 教会に来てまもない人だったら、なぜこんなことが問題になるのかと思うでしょう。どういう動機があったとしても、善を行うのは良いことだ、難しいことは考えなくても良いじゃないか、そう考える人は多いはずです。…しかし皆さん、善い行いをすることによって救われると教えたカトリック教会がついに免罪符の販売に行き着いたことを思い起こして下さい。ローマの大聖堂のための建築資金を調達するためということで免罪符が販売されました。これを買うのは善い行いとされたのです。そのため免罪符の販売人は、お金を箱の中に投げ入れると、その音と一緒に霊魂は天国に向かって飛び立つのだ、つまり救われるのだと教え、ルターによる宗教改革が引き起こされました。ここから免罪符を認める認めないという議論は、善い行いをすることで救われるのか、それとも信じることで救われるのかというところに発展していったのです。

 ユダヤ教も、善いことを行うことを尊んでいます。善いことを行うとは律法を実行すること、これによって人は救われる、としたのです。ところがプロテスタント教会では、善を行うに際してもその心を問うようになりました。何かよからぬ動機があって、そのために善いことを行うというのもあるからです。まして、善を行うことがその人が救われるかどうかの基準にはなりません。パウロ自身、この手紙の3章21節以下でこう書いています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。これと矛盾するようなことがなぜここで教えられているのか、これはなかなかの難問です。

 聖書、全66巻の中には多種多様な教えが書いてあり、その中には、これとこれは正反対のことを言っているんじゃないかと思われるような言葉もあったりします。そこでもしも教会が、自分にとって都合の良い言葉ばかり取り上げ、そうでない言葉を無視したとしたら、福音はゆがめられてしまいます。そこで誰もが聖書をしっかり整理して把握できるようにということで神学が起こり、教理が組み立てられていったのです。

 免罪符の問題を発端に、善い行いをすることによって救われるということに疑問を感じた宗教改革者たちは聖書全体を新たに読みなおすことによって、創世記(156)の「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とかガラテヤ書(216)の「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」といった言葉を再発見し、こうして信仰義認の教理が確立されました。信じるだけで良いのです。善い行いをすることは自分が救われるための条件ではありません。……しかしながら、このことは、キリスト者の間で誤解を生み、これはどうだろうと思われる信仰生活を導くことにもなりました。それは、「キリスト者は行いによらず信仰によって生きる。人は善い行いに対する報酬ではなく、恵みによって義とされ救われるのだ」というところから、善い行いをすることに熱心ではなくなり、「そんなことしなくたって『主よ、主よ』と言って、信じて祈ってさえすれば救われる、最後の審判の時に永遠のいのちを授けていただける」、こんな信仰の持ち主が多くなってしまったのです。

 しかしこれには聖書自体が警告を発しています。有名な良きサマリア人のたとえ話を思い出してみましょう。主イエスは傷ついた旅人を助けたサマリア人を指して「行って、あなたも同じようにしなさい」と命じておられます(ルカ1037)。決して、ご自分を信じていれば、傷ついた旅人を助けなくていいんだ、と教えているわけではないですね。聖書にはこれに類した教えがほかにもいくつもあって、信仰義認ということが極端に流れないようはかっているのです。

 ですから今日のところは、私たちの信仰生活における実際の心がまえに対して、大切な指針を与えているものと考えて下さい。私たちが救われるのは、たしかに十字架について私たちの罪に対する罰を引き受けて下さったイエス・キリストの恵みによるのです。人は信仰によって救われます、善い行いによってではありません。しかしそのことは、イエス様を信じる者が善い行いに無関心であって良いというのではないのです。7節で言われているように、神は私たちが「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求めることを通して。神のもとにある永遠のいのちを得る者となることを願っておられます。私たちは栄光と誉れと不滅のもの、すなわち神のもとにある永遠のいのちを求める者となるよう変えられていきます。神の恵みが私たちをこのように導いて下さるのですから、イエス・キリストによって救われた私たちが善を行うことに無関心であることはありえないのです。

 

 かつて世界の諸民族の中からただ一つ、ユダヤ人を選んで律法を与えて下さった神は、イエス・キリストを地上に送ることによって異邦人を救いに招くことを開始するとともに、神の民ユダヤ人が陥ったの間違いも正そうとしておられます。神は分け隔てをなさらない方ですから、ユダヤ人だけを特別扱いすることはありません。神様に先に見出されたユダヤ人も、あとから福音に接するようになった異邦人も、それぞれが自分に与えられた課題を背負って、イエス様のおられる所に進んでいく責任が与えられているのです。だから私たちもユダヤ人と同様、自分たちは特別だなどと考えることは出来ません。先にいる多くの者があとになり、あとにいる多くの者が先になる(マタイ1930)ということがこれまで起こってきましたし、これからも起こるかもしれません。

 今日の箇所を、私たち皆が自分の信仰生活を顧みる契機として受け取っていくことを願います。

 

(祈り)

天の父なる神様。ユダヤ人を初めとしてプライドの高い人たちは、自分とは違う人たちこそ悔い改めるべきだとし、自分には何の落ち度もないと思いこむことによって、人を裁いていました。かつて欧米から日本にキリスト教が伝えられたのは素晴らしいことですが、もしかしたら宣教師の中にも、野蛮な日本人をわれわれの福音によって導いていこうという傲慢な思いがあったかもしれません。そしていま私たちは、私たちの中にもそのような思いがないのかと思うのです。尊ばれるのは神様のみです。私たち一人ひとりではないのです。初代教会はパウロたちがユダヤ人のプライドを神様に返すことで異邦人世界に広がっていきました。私たちが属する日本の教会も、妙なプライドがあればこれを捨て、神様を知らない多くの人々と共に喜び、共に悲しむことから、この社会の中でイエス様のメッセージを伝え続け、言葉の本当の意味でクリスチャンと言われるにふさわしい者たちの集まりにして下さい。

神様、広島長束教会に集まる一人ひとりの心身の健康を与えて下さい。主の恵みのもと、信仰生活を過ごす中で善を行うことを喜びとさせて下さい。教会から離れて行こうとする人がいたら呼び戻して下ささい。そうして、神様からいただく救いを見ることが出来ますように。

 

 とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。