天国をめざす旅人

天国をめざす旅人  ゼカリヤ8912、Ⅰペトロ139  2023.4.16

 

(順序)

前奏、招詞:ヨハネ1125、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:30、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:171、説教、祈り、讃美歌:485、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

                              

 

 今年も、すでに世を去った私たちの愛する人々をしのび、礼拝する時がめぐってきました。机の上に置いてある写真は、みな広島長束教会に関係ある方々ですが、そのすべてではありません。お配りした召天者名簿には29名の方々の名前が掲載されています。これ以外にも、皆さんの心に浮かぶ方々がおられるかもしれません。これら召天者の方々の中には、覚えている人も少なくなった昔の人がおられる一方で、最近亡くなられた方もいますが、それぞれの方がその人生をけんめいに生きていったその証しが消えてしまうということは決してありません。神様につながれたその人生は、神様を通して私たちの上にも何かを残していったはずで、今日わたしたちはそのことを確認したいと思うのです、

 

 広島長束教会の歴史は1962年8月24日、平田虎雄・ハルコさん宅で家庭集会が開かれた時から始まりました。平田ご夫妻は、二人とも2008年に天に召され、その時まで熱心に教会を支えてくれましたが、その間もそののちも、教会を通して恵みを受け、信仰にふれ、信仰を持ち、信仰をまっとうした人たちの生き方そのものが、教会の大切な財産となって今に受け継がれています。…もちろん召天者の方々といえども完璧な人間であったのではありませんから、もしも私がこの人はこんなに素晴らしい人でしたということばかりお話ししたら、そこにはうそが混じってしまうでしょう。召天者の方々にこういう欠点があり、こういう間違いがあったということがないはずはありません。しかし、誰もが神様と結ばれ、人間をはるかに超えた力に望みを抱いて生きてこられたことは間違いないのです。神は死より強いお方で、召天者の人生に何が起ころうとこれを導いて行かれました。そして、この世での務めを終えた時、ご自分のそばに置いて下さったのです。

 ですから、今ここに残る私たちと召天者との絆は今も深く結ばれたままになっています。…よく、愛する人に死なれ、生死をへだてた関係になったことで絶望の淵に陥る人がいるのですが、召天者の方々がいま神様のおそばにおり、私たちも神様のお導きの中で生きているのなら、召天者も私たちも神様を通して堅く結ばれているのです。

 

 聖書は人間の生と死について何を教えているでしょうか。

 ペトロの手紙一は、イエス・キリストの弟子でのちに使徒と呼ばれるようになったペトロが今のトルコの各地にあった教会を励まし、力づけるために送った手紙です。すでに死んだ人のことについて直接教えているのではありませんが、今日の礼拝に関係があると思って、取り上げました。

 この手紙が書かれたのは紀元90年代、ぺトロはローマからこれを書き送っています。手紙の受け取り人は今のトルコにある各地の教会ですが、出来てからそれほど時が経っていません。ローマ皇帝が治めている多神教の世界で、一つのまことの神を信仰する人々は、神々を信仰している圧倒的多数の人々の中で生き抜いていかなければなりませんでした。キリスト教に対する無理解と偏見は、迫害を引き起こすほどになっています。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と書いてあります。ペトロはキリスト教徒が直面する厳しい現実を見据えながら語っているのですが、その人々に与えられたのが3節後半からの言葉です。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生れさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。その結果、

「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」ということになりました。これは、困難の中にある人々への励ましの言葉になっています。

 キリスト者といってもピンからキリまでありますが、ここには、現代の私たちから見て、理想的なキリスト者の姿が見えているように思います。今の日本では、キリスト者について、良いイメージを持っている人ならまじめだとか、温和だとか、逆に悪いイメージを持っている人ならつきあいにくいとか、宗教バカとか、良いにつけ悪いにつけいろいろ言われるのですが、そのような外から見えるものがキリスト者の本質ではありません。すべての人の罪を一身に背負って十字架につけられ、よみがえったイエス様を救い主として信じているのがキリスト者ですが、誰もが知っている通り、信仰に熱心な人もいればそうでない人もいます。もしも、キリスト者がみなペトロの言葉通りだたとしたら、どんなに素晴らしいことかと思います。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」、このところが今日、たいへん重要だと考えられます。

 ここでペトロはなぜ「あなたがたは、キリストを見たことがないのに」と、念を押して書いているのでしょうか。この問いは比較的簡単です。手紙を受け取った教会に集まる人々はイエス・キリストを直接見たことがないのです。これに対しペトロは、イエス様がガリラヤで伝道していた時からの弟子で、イエス様の十字架の死、復活、さらに昇天に立ちあっています。

 それではペトロは「自分はイエス様から直接教えを受け、訓練された弟子で、今は使徒と呼ばれている。これに対しお前たちは、イエス様を見ることが出来なかった。ここには越えられない違いがある。お前たちは、せいぜいイエス様の直弟子である私の言うことをよく聞きなさい」と言ったのでしょうか。そうではありませんね。手紙の受け取り手である人々は、イエス様をその目で見るという貴重な経験をすることは出来なかったのですが、それでも悔やむことはないのです。「あなたがたはイエス様を見なくてもイエス様を愛することが出来ている。私と同じように素晴らしい体験をして、イエス様と結ばれて生きることが出来ているのだ」とパウロは言っているのです。

 私ごとき若輩者が大先輩であるペトロ先生のことをあれこれ言うのには忸怩たる思いがあるのですが、そもそもペトロはイエス様の覚えめでたき、よく出来た弟子ではありませんでした。福音書にはペトロの失敗がいくつも記録されています。ペトロはイエス様が地上におられた時、イエス様と行動を共にし、直接教えを受けながら、実はキリストを本当に愛していたとは言えなかったのです。ペトロが、イエス様が裁判を受けていた間、自分はイエスなんか知らないと三度口に出して、イエス様を裏切ってしまったことはよく知られています。

 しかし、この手紙を書いた時点で、ペトロは以前とは全く違った人になっていました。言葉の本当の意味で、キリストを愛しているところに立っていたのです。その決定的な転機となったのが、イエス・キリストの十字架の死、復活、昇天、そして聖霊降臨と続く一連の出来事でした。イエス様の十字架の死がペトロを打ちのめし、すべての望みが消えうせたかのようになりましたが、そこに復活という驚くべき出来事が起こって、神が死よりも強いことが示されました。復活した主、イエスはご自分を裏切ったペトロの罪を赦し、新たな伝道の使命を与えました。十字架の出来事のあと50日目に起こった聖霊降臨は、天から降った聖霊なる神が、この世の果てまで教会をつくり、福音を告げ知らせることを全世界に告知した出来事でありました。

 人間の常識が教えるところでは、もしもイエス様を直接見ることが出来なければ、キリストを愛することはやがてすたれ、福音も消えてゆくというものです。しかし、ペトロはそうではないことと語っています。イエス様を直接見ることが出来なくなった今こそ、キリストを愛する人が各地に起こり、福音も広がっていくのです。父なる神と子なる神キリストから来る聖霊が世界を包んで、イエス様の十字架と復活を伝えていくのですから。…宗教改革者マルティン・ルターも言っています。「主が地上に肉体をもって存在された時には私どもから遠かったが、死んでよみがえり天に昇られた後、かえって私どもにとって近い存在になって下さった」と。

 

 キリスト教会が誕生してから今日まで約2000年の時が流れました。主イエスは天に帰られましたから、地上の人間でイエス様のお姿をその目で見るということはちょっと考えられません。しかしながら、地上の教会は天とつながり続け、まるでイエス様が地上におられた時のように生きた御言葉を伝え続け、そのようにして信仰は受け継がれていったのです。

 このようなことを私たちの広島長束教会において、応用して考えてみましょう。私たちの中には、昔この教会にどれほど立派な信仰をお持ちの方がいたとしても、その人の死とともに信仰もその生き方も忘れられ、受け継がれないまま消えてしまう、という思いがないでしょうか。たしかにそのような危険はあります。しかし、あとに残された人が死んだ人のことを覚えていれば、また意識的に思い起こそうと努めるなら、そうはなりません。そのために、このような記念礼拝が必要なのです。

 キリスト教は、イエス・キリストが天に帰られ、イエス様をもう目で見ることが出来なくなっても、その信仰は2000年にわたって受け継がれていきました。それは、聖霊なる神のお導きのもと、イエス様のこと、なかんずく十字架と復活が繰り返し繰り返し語り継がれてきたからでありまして、そのため直接ペトロの手紙を受け取った人たちばかりでなく、現代人にいたるまで「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」ということが続いてきたのです。

 召天者の方々ももちろん聖人君子ではありませんから、欠点も間違いもあったはずです。しかしペトロやこの手紙を受け取った方と同様、イエス・キリストの十字架と復活という事実の上に信仰を与えられていましたから、人間は死んでしまえばおしまいということではなく、

天において永遠の命に生きることを信じて旅立たれた、みんな天国への旅人だったのです。その死は天国への凱旋ということが出来るでしょう。

 ですから私たちが召天者の方々につながろうとするなら、まずこの方々が信じていた神様に立ち返るということがなければなりません。みんな、生ける神に望みを抱いて生涯をまっとうし、そして今も神のみもとで生きておられる、ならば私たちも同じ生ける神を信じぬくことで、この方々とつながることが出来るでしょう。

 今日、皆さんが、召天者の方々の表情とか、あの時あんなことを言っておられたなあということなど思い出されたら、それは心の中に召天者が生きているということです。そしてこれを含め、あなた自身についての記憶は、次の世代の人々に受け継がれます。すべて神様を仲立ちとして。そうした記憶の中にはいろいろなことが入っているのですが、その中でももっとも大切なもの、先の世代から受け継ぎ、あとの世代に語りついでいくべきことは先に亡くなられた方々の信仰、そしてその信仰から来る生き方なのです。

 私たちが召天者一人ひとりから受け取ったものを今日、改めて確認することが出来ますように。それは私たち自身にも何らかの尊いものを与えてくれるはずです。そして私たちが、先に召された人たちのよりどころであった神様の導きの下に人生をまっとうするなら、それはあとの世代の人たちにとってどんなに力強い励ましになるでしょうか。

 

(祈り)

 イエス・キリストを信じる者たちを心に留め、永遠の命に至る道を開いて下さった神様。私たちは、先に天に召された愛する人々のこと思うと、悲しみを押えることが出来ませんし、また誰もが死という定めから逃れることの出来ないことを思います。しかしいまイエス様からペトロに、初代教会に、そして召天者に与えられたみ言葉を受け取ることが出来ました。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛している」というところに堅く立っている時、もはや死の力の前にひれ伏す必要はありません。

神様、どうか私たちが召天者の方々からその信仰と生き方を引き継いで、死と滅びに向かう道ではなく、命に通じる道を歩いていくことが出来ますように。

 

どうか私たちのひからびた信仰を命の水でもってうるおし、死を超える命への希望に生きる者として下さい。とうとき主イエスのみ名によって、この祈りをおささげします。アーメン。