イエスは復活された

イエスは復活された   詩編16111、マルコ16:18  2023.4.9

 

(順序)

前奏、招詞:ヨハネ1224bc、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:312、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式、讃美歌205)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 今日はイースター、まことの神様を信じる世界中の信徒にとっての喜びの日です。どこの教会でも「主は復活されました」、「イースターおめでとうございます」などと喜びの挨拶がかわされていることでしょう。…イースターがなぜ喜びの日なのかと言うと、それは言うまでもなくイエス・キリストが復活なさったからですが、そこにとどまるものではありません。復活とはイエス様に続くあらゆる人々の復活の先駆けとなる出来事です。このことを皆さんとこの場で共有し、喜びあいたいと思うのです。

 

人間の一生には多種多様なかたちがありますが、赤ちゃんとしてこの世に生まれ、子どもから大人に成長、そしてお年寄りになり、命が尽きると死ぬというのが一般的です。

今この場にいる中学生と高校生はこれまでお葬式に参列したことがないのではないかと思いますが、いずれは経験することになるでしょう。昨日まで元気で笑っていた人でも死ぬと息をしなくなり、冷たい死体となって横たわっています。これを火葬場に持っていって焼くと骨になってしまい、箸で拾って壺に入れたり、お墓におさめる時の気持ちは何とも言えません。誰もがこのようにして、大切な家族や友人などとお別れすることを続けていくのです。死んだ人はもう帰ってきませんから、その人が大切な人であればあるほど、悲しみは大きな傷となってあとに残ります。この人たちは私たちをこの世に残して、去って行ったのです。私たちはうろたえ、悲しみ、泣きながら死んだ人を葬ってきましたが、そこでわかること、それはいつの日か自分の身にも同じことが起こるということです。当たり前のことですが、自分だけは死なないですむということはないのです。

 

古来、人間は死より強い力はないと思ってきました。誰もが死をおそれ、少しでも長く生きようとします。そして死を超える命を求めてきました。エジプトのピラミッドは、永遠に続く命を得ようとしたファラオが造らせたものですが、そのような企ては世界各地にあります。…死をおそれて死を超える命を求めるという点では、聖書に出て来る人たちも変わりありません。

イエス・キリストが十字架につけられた、これほど衝撃的なことはありませんでした。ここに出て来る3人、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメはイエス様がガラテヤ地方で伝道を始められた時以来、イエス様の一団に加わっていた女性たちです。彼女たちは、イエス様こそユダヤの人々が何百年も待ち焦がれていた救い主、自分たちばかりでなくこの国を救って下さるお方だと望みをかけ、この人こそはと、イエス様に自分の人生をかけて従ってきたのです。

ところがイエス様は無惨にも殺されてしまいました。3人の女性はイエス様がゴルゴタに連れて行かれる時、泣きながらあとについていきました。そしてイエス様が十字架にかけられ、死んで、お墓に埋葬されるまでを見届けました。…このことは彼女たちにとって絶望以外のなにものでもありません。すべての望みが消えてしまったのです。イエス様が死んでしまわれた、自分たちがこの人こそはと望みをかけていたイエス様が亡くなってしまわれた、それは、いくらイエス様であっても、死んでしまわれたらおしまいだということだったのです。

 

イエス・キリストが亡くなられたのは金曜日、聖書は3人の女性が日曜日の朝早く、日の出を待ちかねたようにお墓に向かったことを書いています。お墓は横穴で、入り口は大きな石でふさがれていました。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」、これだけ聞くと、楽しそうでピクニックに行くみたいだなあと思った人がいるかもしれませんが、決してそうではありません。

 3人の女性は、イエス様のご遺体に油を塗って丁寧に埋葬しようと考えていたのです。これは決して、ピクニックなんかではありません。みんな、つらくてつらくてやりきれない思いでした。…もう私のイエス様はいない。これからの人生、いったいどうやって過ごそうか、せめてご遺体をきれいに整えて、イエス様に恩返しをしましょうということだったのです。

ところがお墓の前まで来ると、穴をふさいでいた大きな石がわきに転がしてありました。いったい何が起こったのかと思って墓穴に入ってみると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているので女性たちはひどく驚きました。この若者は言いました、「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。…「あの方は復活なさってここにはおられない」、これがイエス様ご復活の最初の告知となります。死んだ人が復活した、こんなことは歴史上、前代未聞、空前絶後のことでありまして、これを信じなさいと言われてもすぐには無理というものです。女の人たちはあまりのことに茫然としてしまったはずです。

その場所にイエス様のご遺体はありませんでした。

白い衣を着た正体不明の若者はさらに続けました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」これは復活したイエス様が先にガリラヤに行って、あなたがたを待っているということです。  

では、そのあとどうなったのか、こう書いてあります「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」

皆さんは、このところをどう思いますか。みんなイエス様復活の知らせを聞いて大喜びしたでしょうか。そうではありません。パニックになってしまったのです。…でも、そうだからこそ、聖書に書いてあることが本当だとわかるのです。もしもここに、女性たちが大喜びする様子だけ書いてあったら、それこそ嘘かもしれないということになります。女性たちはイエス様の復活を聞いてすぐに大喜びするほど、心の準備は出来ていなかったはずだからです。それまでの世界の歴史の中で、死んだ人が復活したというのはただの一度も起こったことがありません。また、イエス様が復活のことをすでに予告されていたのに誰も理解できなかったのですから、信じることが出来ないのは当然といえば当然ですが、何か想像もつかないような大変なことが起こったと思ったのでしょう。だから震え上がって逃げていった、ここに嘘はありません。

 

この女の人たちは、このあとよみがえられたイエス様に会うことでイエス様の復活を本当に信じるようになります。そして男の弟子たちと共に、世界に向けてイエス様がよみがえられたことを語るようになりました。こうして教会が誕生するのです。

しかしながら復活というのは人間の想像を超えた出来事なので、イエス様は本当に復活したのかと疑う人が昔からいました。今もいます。その中に、イエス様仮死説をとる人がいます。イエス様は十字架の上では死ななかった、仮死状態のまま埋葬されて、その後目を覚ましたのだというものです。…けれどもイエス様が十字架の上で死んだことはローマの兵士たちがはっきり確認しています(ヨハネ193334)。本当に死なれたからお墓に納めたのです。

それとも何者かがイエス様のご遺体をどこかに持って行ったということでしょうか。あるいは、復活したイエス様を見たと証言した人は、すべて幻覚を見たというのでしょうか。どの考え方も、イエス様の復活をくつがえすことは出来ませんでした。

 

イエス様の復活について、それが本当にあったのかどうか考えるに先立って大事なことは、イエス様が復活された場合と復活されなかった場合、どちらにおいても、それが私たち自身の人生にどういう関わりを持っているのかを考えることです。

かりにイエス様は復活せず、イエス様が復活したという証言がすべてつくり話か幻覚だったと仮定してみましょう。その場合は、イエス様でさえ死に打ち勝つことが出来なかった、ならば人間は誰も、死んでしまえばあとは何もなし、すべてがおしまいだということになってしまいます。そんな世界で、皆さんは生きていけるのかということを考えてみて下さい。死んだ人は決してよみがえることがないとすると、あなたはいったい何のために生きているのですか、ということになりはしませんか。

人が生きる目的は何でしょう。たまたまこの世界に生まれ、つらいこと楽しいこといろいろ経験しますが、死んだあと何もないのだとしたら、がんばって生きていかなければならない理由も見つからないでしょう。…また、さんざん悪いことをして生きている人もまっとうな人生を歩んでいる人も、大してかわりがないということになってしまうでしょう。…愛する人と死に別れたら、二度と会うことは出来ません。

よく自分は自分と家族の幸せのために生きているという人がいますが、家庭が幸せでさえあればそれで良いのでしょうか。その幸せも生きている限りのこと、死んだあとまで持っていくことは出来ません。それどころか、死んだ人間のことを家族はすぐに忘れてしまうかもしれません。

人がこの世に生きている間、どれほど幸せだったとしても、イエス様が復活なさらず、どんな人も死んだあとは何もないのだとしたら、そこにあるのは限られた幸せにしかすぎず、それはやがて無に帰るのです。

 

そこでイエス様が本当に復活されたと考えてみましょう。それは神様が死よりも強いことを示しています。…多くの人が死を怖がり、死の圧倒的な力の前に両手をあげて降参しているのですが、そこに人となられた神であるイエス・キリストが現れ、人間と同じように死を体験して下さった。死の世界に分け入って下さった。そして死を克服してよみがえって下さった。…これはイエス様の力が及ばない、どんな世界もないということです。

どんな人でも、いつかは死を体験しなければなりません。そこに何が待っているかわかりません。しかし、イエス様が先駆けとしてそこに入って行って下さったのですから、私たちは自分がいつか死ぬ時においてもイエス様のあとについていけば良いのです。そしてそのあと、私たちが三日目に復活するということはなかなか考えられませんが、この世の終わりには復活します。最後の審判の時、十字架刑を引き受けることで私たちの罪を贖って下さったイエス様のとりなしを頂いて、天に迎えられるのです。…このような未来が示されている時、いまこうしてこの世で生きていることがどんなに素晴らしいことか、教えられます。この人生に何があったとしても、死に打ち勝ったイエス様につながれているなら、それは希望に向かっての歩みなのです。

 

つまりイエス様の復活を信じるかどうか、それは私たち自身の人生を決めることでもあるのです。聖書はイエス様が復活したと書いていますが、あなたはこれを信じて生きますか、それとも信じないで生きますか。どうか礼拝とふだんの祈りを通して、神様の前で自分にとっていちばんふさわしい答えを見つけて下さいますように。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる御神様。イースターのこの日、神様が私たちの心と体を、死からいのちへと導く言葉によって養って下さったことを心から感謝いたします。イエス様は今も生きて、私たちを導き、私たちの中で働いておられます。どうかイエス様の復活が、死という人間に与えられた宿命の前に意気消沈し、絶望した心にまことの希望を与えて下さいますように。イエス様の復活を直接知らされた人々に行われたことを、私たちのうちにも行い、そのことによって私たちがいのちの道を歩み、本当の意味で神様を賛美して生きる者となることが出来ますように。

神様、イエス様の復活が今日、戦争、環境破壊、感染症となどとたたかう全世界において、喜びをもって受け止められますように。そして、この日本にも恵みと希望を与えて下さい、神様、今の日本の国ほど、神様の言葉が必要とされているところはありません。今日は大切な選挙も行われます。どうか、日本全国の教会で行われているイースター礼拝を祝し、この国を正しく打ち立てるためのみ言葉の力を発揮して下さい。

 

この祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名を通して、お捧げします。アーメン。