この人は神の子だった

この人は神の子だった 詩編22122、マルコ152141  2023.4.2

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1307、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:10、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:136、説教、祈り、讃美歌:142、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式、讃美歌206)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 新約聖書には百人隊長というのが何人か出てきます。これは以前の聖書では百卒長といわれていたもので、ローマ帝国の軍隊の中の一つの組織、歩兵100人から成る一隊の隊長を指しています。イエス・キリストが地上におられた時代、ユダヤに百人隊長がいたのは、ユダヤが独立国ではなくローマ帝国の支配下にあったからです。今日のお話に出てくる百人隊長はユダヤ人ではないと考えられます。裁判の判決にのっとって行われたイエス様の十字架刑を監督する責任者だったのです。この人はイエス様についてそれまでわずかのことしか聞いていなかったはずですが、イエス様が苦しんで死なれた様子を最後まで見届けたあと、その口から出たのが「本当に、この人は神の子だった」という言葉でありました。

 

 今日、私たち全員が、イエス・キリストが神の子であるとはどういうことか、悟ることが出来ますように。

教会にずっと来られている方なら、イエス様が神の子であることは頭に叩きこまれているでしょうが、教会に来たことがない人はもちろん教会に来てもまだ日の浅い人にとっては、これはたいへんわかりにくいことです。十字架に打ちつけられて、息を引き取られたイエス様のお姿を想像してみて下さい。それが神の子でしょうか。神の子がこんな無惨な死に方をするものでしょうか。そこには神の子について人間が想像することとはすべて正反対のことが起こっているのですが、そのお姿をみながら、百人隊長はなぜ「本当に、この人は神の子だった」と言うことが出来たのでしょう、これはなかなかの難問だと思います。

 

 イエス・キリストはこの前の晩、最後の晩餐のあとオリブ山のふもとで逮捕されました。最高法院で裁判を受け、ついで総督ピラトからも尋問され、死刑の判決を受けました。最高法院にしてもピラトにしても「今は勤務時間外だから、あした来て下さい」とは言いません。イエス様がゴルゴタで十字架につけられたのが午前9時だと書いてあるので、裁判はほとんど夜を徹して行われたことになります。イエス様を十字架につけようとする人々に休む時間があったのかと思うほどです。おそらくは、イエス様を殺すためなら睡眠をとることなんかどうでも良いということだったのでしょう。

 イエス・キリストが人々の熱狂的な歓迎の中、子ろばに乗ってエルサレムに入城されたのが日曜日です。それから数日の間、神殿の境内で説教なさっていたのですが、木曜日に最後の晩餐、そのあと逮捕、裁判、十字架刑とめまぐるしい展開になります。

 この時代、ユダヤの人々の精神的なよりどころであった大祭司、長老、サドカイ派やファリサイ派の人々、律法学者などはずっと前からイエス様を危険視していたので、この時を逃すまいと襲いかかったのは誰もがわかることですが、つい数日前までイエス様を崇拝し、喜んでその話を聞いていた人々が、いざここに来てイエス様と敵対することになった理由は何なのか、聖書ははっきりとは説明していません。そこには人々がイエス様を陥れようとする勢力の扇動に乗ってしまったことがありますが、それと共に、人々がイエス様にかけていた望みが裏切られたことがあったと考えられます。イエス様は軍隊をひきいて強大なローマ帝国に立ち向かうような指導者ではなかったのです。

 イエス様は最高法院サンヘドリンで裁判を受け、ご自分が神の子であることを認めたために神を冒涜したという判決が下されますが、ローマ帝国の支配下にあるユダヤの法廷では人を死刑にする権限がないので、イエス様は次に総督ピラトのもとに連れて行かれました。ピラトはイエス様の命を助けたかったのですが群衆の「十字架につけろ、十字架につけろ」という声に押され、ついに死刑執行に同意してしまいます。

実際にその職務にあたったのが兵士たちです。彼らはイエス様に紫の服を着せ、茨の冠をかぶせ、「ユダヤ人の王、万歳」と叫んだかと思うと、棒で頭をたたいて出血させ、つばを吐きかけるなど侮辱の限りを尽くしました。そうして外に引き出し、十字架を背負わせました。

十字架の縦の棒は現地にすでに立てられており、横木を背負わせたはずです。ところがイエス様は悲しみの道の途中でかつげなくなったようで、兵士たちはちょうど通りかかったキレネ人シモンにこれをかつがせました。ゴルゴタに着くと、すでに立ててあったものに横木をつけた上でイエス様を釘付けしたのです。兵士たちはイエス様を十字架につけたあと、その服を取り合っています。目の前で死の苦しみにある人がいるというのに、これに無関心で服の取り合いをする、この兵士たちイエス様には同情する気持ちなど、ほとんど持ち合わせていないのです。

 百人隊長の役目はこの兵士たちを監督することでした。見たところ、乱暴の限りをつくす兵士たちをしずめるようなことは何もしていないので、兵士たちと同罪です。上から出された命令を粛々と実行していたということかもしれません。兵士たちと一緒に悪さをしたことも十分考えられます。百人隊長にとって、イエス様が神の子であるということは、少なくとも十字架につけるという職務を実行している最中にはとても考えられないことだったのです。

 

 主イエスは逮捕されてから十字架上で亡くなるまで、とても考えられない仕打ちを受けています。大祭司を初めとする宗教指導者や兵士たちは言うに及ばず、心を傾けて育てあげた男の弟子たちは自分の先生がいちばん大変な時にみんな逃げてしまいました。群衆は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びます。十字架のそばを通りがかった人々は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と。ここで神殿とはご自分の体を意味しています。イエス様はご自分が死んで三日目に復活することを予告されたのですが、そのことを理解されないまま嘲笑されているのです。一緒に十字架につけられた強盗二人もイエス様をののしりました。もっともその内のひとりはまもなく回心するのですが。

ところで祭司長たちや律法学者の言葉、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」、これがイエス様を侮辱した言葉であるのは明らかですが、しかし彼らの意図しないところでイエス様の本質が見えてくるように思われます。

この人たちもイエス様が他人を救ったことは認めていたんですね。イエス様は重い皮膚病で苦しんでいる人にみ手をさしのべて、浄められました(1:41)。悪霊につかれ精神に異常をきたして墓場に住んでいる人に本来の心と生活を取り戻して下さいました(5110)。死んだと言われた幼い娘の命を取り戻されました(54142)。イエス様は罪に苦しむ者を解き放ち、悲しむ者に喜びを与え、生きる意味を知らない者にその意味を教えられました。体であれ心であれ病んでいる者にいやしをお与えになりました。イエス様が他人を救ったというのはその通りです。私たちもイエス様によって救われました。

しかしこの日、イエス様が神の子であるというしるしは現れません。茨の冠をかぶらされ、裸にされ、二人の強盗と一緒に十字架につけられ、侮辱する言葉を山ほど浴びせられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶望の叫びの果てに息を引き取られたのです。ここには神の子としての力も偉大さも見えません。この時から現在に至るまで、イエス様のこのご最期を知って、あざ笑う人がいるのは当然といえば当然なのです。かりに私たちがこの場にいたとしても、イエス様をののしる側に入っていたのではないでしょうか。

けれどもイエス様がこのようにして息を引き取られた時、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。この人にとってイエス様がどのような意味で神の子だったのかということは当然、問題にされなければなりません。

これは、百人隊長の中で起こったことを心理学的に分析したところで答えは出てこないように思います。これは、この人自身も意識しない心の深いところで起こったことです。啓示です。それは天から、父なる神から示され、与えられた言葉でありましょう。

イエス様はご降誕の時から神の子でありましたが、私たちがそのことを知識として知っていたとしても、それだけでは大きな意味はないのです、イエス様は世界に、「神の愛を与える」ことによって名実ともに神の子となられた、こちらの方が重要なのです。 

1528節、十字マークがついています。聖書の写本の中にこれがないのがあってマルコが本当にこれを書いたのか疑問視されていますが、そこに書かれていることは真実です。マルコ福音書の巻末にその言葉があります。「こうして、『この人は犯罪人の一人に数えられた』という聖書の言葉が実現した。」

人間が神に逆らうことで起こる、すべての思い、言葉、行い、それを罪と言いますが、罪からあらゆる悩み、苦しみが起こります。それは私たちがふだん体験することからこの世界、宇宙にまで及んでいます。災いを見つめていくと押しつぶされそうになりますが、すべて罪に対する神の裁きと言って過言はありません。人は誰もが神に逆らうことで罪にまみれ、苦しみ、ついには死に至るのです。

イエス様は極悪の犯罪人として十字架につけられました。しかし、十字架刑に値するような罪を犯してはいません。教会はイエス様には罪が全くなかったと教えますが、百人隊長は少なくとも、イエス様が冤罪であり、無実の罪で十字架につけられたことがわかったはずです。無実の人間が十字架という最も残酷な刑を受けたことをこの人は見ました。それも助けてくれ助けてくれと命乞いしながら死んでいくのではなく、自分から引き受けられ、自分を苦しめている人間のためにも祈る、それは他の人が受けるべき罰をかわりに引き受けているということです。そこに現れていることを見ながら、父なる神から示されたことが「本当に、この人は神の子だった」という言葉だったのです。

主イエスは十字架につけられる直前のことですが、差し出された「没薬を混ぜたぶどう酒」をお受けになりませんでした。痛みをおさえる効果がある没薬と意識をもうろうとさせる酒を飲まなかったのです。

このことからもわかるように、イエス様は、人間たちが神の永遠の裁きを受ける時の苦しみをはっきりした意識で、一つももらさず受けとめようとされたのです。こうして、イエス様が十字架というご自分に与えられた務め、杯を完全に飲み干された時、全地は闇でおおわれ、人類の救いは完成したのです。「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。神殿の幕は神と人との間を隔てていました。その時まで、人がその中に入ることは死を意味していたのですが、しかし今や神様との和解が成立しました。父なる神がイエス様の十字架の死を認め、受け入れて下さったことで、どんな人でもイエス様を信じる者は永遠に神と共に生きる者にされたのです。

私たちは今その恵みの中に生きています。こうして百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」は私たちの信仰告白になったのです。

 

(祈り)

 天の父なる神様。今日のこの礼拝によって与えられた言い尽くせない恵みに感謝いたします。この礼拝を受けて、私たちの信仰がさらに強められますように。

 神様、私たちの罪のために十字架にかかり、犯罪人の一人に数えられ、神様に向かって「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶほかないところにまで降りて下さったイエス様をたたえます。イエス様の思いと、断腸の思いでイエス様を十字架へと導かれた父なる神様の思いに、私たちがもっと近づいていくことが出来ますように。そのようにして十字架をもっとはっきり見せて下さい。

神様、イエス様を十字架にかけるしかなかった自分自身の責任、罪の重さを思います。私たちがみな神様の愛に甘えるだけの信仰から一歩前に進んで、神様の愛に応えることの出来る信仰へと進んでゆけるよう、常に聖霊によって私たちを作り変えて下さい。お導きをお願いいたします。

 

とうとき主イエス・キリストのみ名によってこの祈りをお捧げいたします。アーメン。