自分の十字架を背負って

自分の十字架を背負って  イザヤ55613、マルコ83138  2023.3.19

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1305、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:10、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:250、説教、祈り、讃美歌:290、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

今日は受難節第四主日礼拝で、ご受難を覚悟されたイエス・キリストのお言葉についてお話しようと思いますが、その少し前から始めるのが良いでしょう。 

イエスとはいったい何者なのか、これは誰もが自分の頭で考えて、答えを出さなければならない事がらで、あいまいにすることは許されません。…イエス様から「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれたとき、ペトロは弟子たちを代表して「あなたは、メシアです」と答えました。正しい信仰の告白があるところ、そこに教会が建つのです。メシアとはキリストのことで、ペトロはイエス様がキリスト、すなわち油注がれた者、救い主であられることを言い表しましたが、これこそイエス様に向かってなされた歴史上初めての信仰の告白でありました。

では、イエス様はどのような意味で救い主なのかというのが今日のお話の主題となります。31節に書いてあるのはペトロによる信仰告白の直後に起きたことです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに教え始められました。それもはっきりと…。これを聞いたペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めました。するとイエス様は振り返って、弟子たちを見ながら、なんと「サタン、引き下がれ」と言われたのです。つい今しがた、みごとな信仰の告白をしたばかりのペトロが今度は悪魔にされてしまいました。ペトロが悪意を持ってイエス様をいさめたのでないことは皆さんもよくおわかりのことだと思います。ペトロにとっては、尊敬する自分の先生が悲惨な目にあってほしくないという思いだけだったのですが、これに対して「サタン、引き下がれ」とは。ペトロの善意から出た言葉に対するこの手厳しさは、いったい何としたことでしょうか。

 

 あるおばあさんが「お釈迦様は穏やかに死なれたのに、キリスト様はなんであんなむごい死に方をなさったのかね」と言ったことがありました。確かにイエス様の悲惨な死に方は、どんな人にとってもなかなか直視出来ないものです。

 主イエスと弟子たちの一行は、この時ユダヤでは北の方にいましたが、このあとエルサレムに向かうことになります。この時もイエス様を殺そうとしている人があちこちにいたのですが、それなのにエルサレムに行くのは、イエス様を殺そうとしている敵の根拠地に乗り込むことにほかなりません。…エルサレムにいた長老、祭司長、律法学者など当時、ユダヤの宗教界を指導していた人たちも救い主キリストが現われることを信じていましたが、イエス様がキリストだと信じることはありません。この人たちにとってイエス様は神を冒涜する者で、殺すしかなかったのです。それなのにイエス様のお言葉は、ご自分が長老、祭司長、律法学者の手にかかって殺されることを受け入れていることを示します。これは、弟子であっても理解できることではなかったのです。

ペトロは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのですが、神のことを思わず、人間のことを思っている言葉はほかにいくらもあります。…1988年のこと、「最後の誘惑」という映画が公開されました。欧米ではいくつもの国でイエス様を冒涜しているということで上映禁止になった作品です。私には箸にも棒にもかからない作品にしか思えなかったのですが、その映画では、十字架にかかったイエス様が十字架から降りてしまうシーンがあります。そして結婚し、子どもも出来て、静かな平和な人生を過ごすのですが、最後の最後で思い直して再び十字架に上るのです。…聖書に書いてあることからかけ離れたストーリーであるのはもちろんですが、私はこの映画のチラシか何かにこんなことが書いてあったのを記憶しています。「十字架から降りて、それで良いじゃないですか。キリストさんは何も全人類の罪を背負って死ぬことはないんです」と。

その人も決して悪意でこう言っているのではありません。しかし、そのような善意から出た言葉でもイエス様を十字架から引きずりおろす点ではペトロと同罪です。「神のことを思わず、人間のことを思っている」というのは、ペトロばかりでなく誰にもあるのでしょう。…「イエス様が殺されませんように」と思うのは人情としては当然です。しかしそれは、あくまでも「人間のこと」です。「神のこと」ではないのです。神のみこころはあくまでも、イエス様がエルサレムで苦しみを受けて殺され、三日の後に復活することでありまして、イエス様はそのみこころに従ったのです。

ついに現れた救い主キリストが十字架刑を引き受けて死ぬというのは想像を絶することです。イエス様ご自身、決してそのことを望んではおられなかったのですが、ついにこのことを引き受けて、十字架への道を歩まれました。それは、父なる神のみこころがご自分の思いを圧倒し、征服したからだと言えましょう。イエス様は最後まで父なる神に忠実でありました。それゆえ父なる神はイエス様を高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになるのですが、この時、ご自分の真の姿を弟子たちに示し、それでもご自分に従っていくかどうか覚悟を問われているのです。

 

弟子たちにとって、この時の主イエスの言葉は衝撃であると同時に、ちんぷんかんぷんではなかったかと思いますが、それは私たちも同じです。今の私自身も本当にこの時のイエス様の思いがわかっているのかと問われることを思うと忸怩たるものがありますが、聖霊の助けをいただきつつお話ししたいと思います。

イエス様はご受難と復活の予告に続いて、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。自分が背負うべき十字架とは何なのか、これがよくわからないのです。十字架を背負うというのは皆さん、よく耳にする言葉かもしれませんが、いざ考えてみようとするとなかなかの難問で、すっきりした説明が出来ないのですが、確実なところだけ申し上げます。

まず、これは、実際に十字架をかついで歩くということではありません。弟子たちもそのようにはしていません。…これまでの歴史の中で、本当に十字架をかついで歩く人がいて、そのかっこうで日本中を歩いてまわった人もいたようです。それはそれで意味のあることかもしれませんが、ここで言われていることではありません。

では、主イエスはここで、弟子たちや私たちに向かって、ご自分のように十字架にはりつけになることを求めておられるのでしょうか。しかし、これも違います。十字架は、イエス様だけが引き受けられたことなのです。

自分が背負うべき十字架とは何かということで、多くの人が考えるのが、自分が陥っている苦しみです。苦しみの中にいる人が、これこそ自分が背負っている十字架なのだと考えることがあると思います。苦しみの種というのは尽きないものですから、そういうことすべてが背負うべき十字架になってしまい、自分はこの苦しみに耐えてキリストのもとに行かなければならないと考える人がいるかと思います。そういう場合があることを否定しません。しかし人生でぶつかる困難をすべて自分が背負うべき十字架と言えるかどうか、ここは慎重に考えなければなりません。…というのは、こういう例があるからです。自分はあの人には我慢が出来ない、あの人の存在が自分にとっての十字架だ…、と考える場合です。もちろんそれは重大なことですが、実は相手の人も自分についてそう思っているかもしれません。もしも相手が自分を苦しめている以上に自分が相手を苦しめていたとしたら。つまり自分が十字架を背負っているつもりでも、実は他の人にもっと大変な十字架を背負わせてしまっているとしたら、それは論理矛盾となるでしょう。自分の十字架を背負っているつもりで、実はそうではなかったということがあるのです。

そうしますと、自分の十字架を背負うということで残るのは何でしょう。それはイエス様を信じることによって起こる苦しみだと考えられます。…イエス様は「わたしの後に従いたい者は」と言われました。イエス様は父なる神に従うことで苦しみを受けられました。これに対応するのは、イエス様を信じることで信者が受ける苦しみです。それはイエス様を信じることで世の人々から笑われたり、誤解されたり、憎まれたり、最悪の場合迫害を受けたり、ということを指しています。そうした苦しみがない人というのは信者としては考えにくく、私たちもこれに耐えていかなくてはなりません。

このことをさらに深めるのが次の言葉です。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。

この世界には、どれほどたくさんのお金があっても手に入れることの出来ないものがあります。たとえ全世界を手に入れても手に入らないのが自分の命です。それほど大きな価値のあるものを私たちは持っています。ただこの命には深い、広い意味があって、ここでは肉体の命と共に魂の命が考えられています。私たちはそのことを知ることによって、命を救いたいと思う者がそれを失い、命を失う者がそれを救うという逆説を理解することが出来るでしょう。

むかし、旧約聖書に出て来るキュロスという王が超大国バビロンを攻めようとした時、そんなことが出来るのかと思って動揺する兵士たちに向かって演説したことがありました。その一部です。「諸君、戦いにおいて何としてでも生き永らえようと望むような者は、たいていは見苦しく悲惨な最期を遂げるものである。それに反して、ひたすらみごとな最期を遂げんことを志す者は、なぜかむしろ長寿に恵まれ、幸せな生活を送るのを私は見てきた。だから諸君、勇気を奮い起こせ」と。

これは聖書からの引用ではありません。聖書の中にはもっとふさわしい例があるかもしれませんが、これが一つのヒントです。人間、生きていくことは本当に難しく、まさにたたかいの連続です。その中で、自分の身の安全ばかり考えてかえって命を危うくする人がいます。一方、身の安全にこだわらないことでかえってうまく行く人があるのです。例えば、世間からどんな目で見られるかということばかり恐れて、キリスト者であることを周囲に隠している人には心の安らぎがありません。それより自分は信仰者だということを堂々と表明する人の方が、かえって安全に生きていけるのです。

もっともこれは猪突猛進の勧めではありません。イエス様は、「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救うのである」とおっしゃいます。誰のために、何のためにたたかうのかが大事です。自分の小さな幸せのためにということではなく、イエス様のため、福音のために、ということがなければなりません。たしかに世の中は厳しいのですが、保身のために汲々とするのではなく、イエス様のために命を失うことまで志す人の方が、かえって身を安全に守ることが出来、そのことこそ父なる神のみこころに従ったイエス様に従う、私たちの生き方として教えられているのです。

イエス様を信仰することによって苦しみにあうことがあっても、「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救うのである」という言葉で、イエス様はその苦しみから救われる道を示して下さいました。

主イエスの弟子たちにとっても、また私たちにとっても、全世界をもってしても換えることの出来ない命を取り戻すには、イエス様の命が差し出されなければなりませんでした。そのイエス様が言われるのです。私はまもなく十字架の上で死のうとしている。それは父なる神のみこころに従ったから。それは大切なお前たちの命を取り戻すためなのだ。だからお前たちが自分の十字架を背負うというのは、この私に従って来ることなのだ。確かにこの道には苦しみが伴うが、そこに向かっていくことでこそ命が全うされるのだ、と。

誰も心と言葉と行いでイエス様を十字架から引きずりおろそうとしてはなりません。私たちは父なる神のみこころに最後まで従ったこの方のあとに従っていく時、苦しみを超えた驚くべき恵みが与えられます。だから、この道に入った人は満足して、もはや後悔しないのです。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。私たちはいま主のご受難をしのぶ日々を過ごしていますが、そのために心がつらくなってしまうのではなく、かえって大きな恵みが与えられことを感謝申し上げます。

いま学んできたように、ペトロと弟子たちはイエス様から自分の間違いを厳しく指摘されました。ただ弟子たちはその時には十字架と復活についてよくわからず、彼らの心の目が開いたのは、まさにペンテコステで聖霊を受けてからでした。神様、どうか聖霊の働きによって、私たちの心の目を開かせて下さい。主の十字架から目をそむけがちな心を正して下さい。イエス様に従う思いを新たにし、イエス様が求められる自分の十字架が何であるかを見極め、これを喜んで背負うことが出来るようにして下さい。そうしてこそ、死に打ち勝ったイエス様の喜びにあずかることが出来るのです。

 

神様、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」というのは、私たちにとってもきつい言葉ですが、これは非人間的になれということではないと信じます。イエス様がまことに苦しいたたかいの中から勝利を勝ち取った、そこに現れた喜びの一部であっても、私たちの中にあって、その喜びをもってこの長束教会を建てあげて行きますように。この祈りをとうとき主イエスの御名によってお聞きあげ下さい。アーメン。