信仰があなたを救った

信仰があなたを救った 詩編57212、マルコ104652 2023.3.26

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1306、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:23、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:68、説教、祈り、讃美歌:286、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 先週の礼拝で私たちは、イエス・キリストが、ご自分が殺され三日目に復活すると予告されたところを学びました。その時、「そんなことがあってはなりません」とイエス様を止めようとしたペトロは、逆に「サタン、引き下がれ」と言われてしまいます。そのことがあった後、主イエスと弟子たちは南に向かいますが、ガリラヤに来た時、主イエスは再びご自分の死と復活を予告されました。弟子たちはその言葉がわからなかったのですが、怖くて質問することが出来ません。その後、一行はさらに南下し、エルサレムへと上って行く途中で、主イエスは重ねて自分の死と復活を予告されました。主イエスはこのように、揺るぎない決意をもって十字架への道を進んでいかれますが、そんな時に起こった出来事が今日のお話の主題です。

 

 主イエスと弟子たちの一行は、エリコの町に着きました。エリコはエルサレムからわずか24キロのところにある町です。ルカ福音書によれば、イエス様はこの町で嫌われ者だったザアカイと出会い、感激したザアカイが人間として生まれ変わるという有名な出来事が起こりました。その次の日だったと思います。ザアカイも見送ったのでしょう。主イエスはエリコを出発しようとされましたが、その時、弟子たちだけでなく大勢の群衆もついていきました。…その日はユダヤの最大の祭りである過越の祭りの日を間近にひかえ、国中から大勢の人が群れをなしてエルサレムを目指して歩いていた時にあたっていました。祭りに参加するために集まってきた大勢の人がエリコまで来た時、イエス様がいるのを聞きつけ、イエス様が歩きながら語られる言葉に耳を傾けている人がおれば、またイエス様をひとめ見たいという人もいたので、人数がふくれあがっていたのです。

 主イエスと弟子たちはたぶんこの日の夕方にはオリブ山のふもとのべタニア村に入ります。そして日曜日になると子ろばに乗ってエルサレムに入城、数日の間、神殿の境内で教えを述べられたあと金曜日に十字架につけられる、ということになります。ですから、エリコで起こったことは、イエス様ご受難の直前の出来事ということになるのです。

 道端に盲人がいて物乞いをしていました。ものの本によれば、この地は乾燥した空気やいてつく暑さ、砂ぼこりが原因で目をいためる人が多いのだそうです。この盲人はティマイの子でバルティマイといいます。この人が生まれつき目が見えなかったのか、それとも中途失明なのかはわかりませんが、どちらにしても、彼がそれまでたどってきた人生の道のりは、私たち目明きにとっては想像も出来ないほど苦しいことだったに違いありません。

 この人は自分の力で生計を立てることが出来ません。今の時代なら、目が見えなくても各分野に進出して優秀な成績をおさめておられる方が大勢おられますが、歴史上、目の見えない人が職を得て自活出来るようになるまでにはたいへんな年月を要したのでありまして、この時代は目が見えなくては何も出来ないと誰もが思っていたのです。バルティマイは恥をさらして物乞いしなくては生きていけませんでした。

 今ここにいる私たちはみんな目は開いているし、物乞いなどしなくても生きていけるわけですから、この人に比べてはるかにゆとりある暮らしをしています。ですからバルティマイの話を聞いて、哀れなあの人を救って下さったイエス様はなんと素晴らしい、と思っているかもしれません。……確かにイエス様は素晴らしいです。でも聖書が教えているのはそれだけではありません。こんなことを言うと、そんなばかなという人がおられるかもしれませんが、自分は幸せでバルティマイは不幸せとは言えないのです。神様の前では目が見えても見えなくても、大金持ちでも物乞いでも大して違いはありません。それどころか目が見えず、物乞いしている人の方が目が見えて普通の人生を送っている人より良いという場合だってあるのです、もしもイエス様に会えるならば。…バルティマイは盲人の物乞いであったにもかかわらず、いや、そうであったからこそ主イエスと出会うことが出来ました。ここでイエス様のそばにいた、目の開いている大勢の群衆は、彼の引き立て役としての意味しか持っていません。

 

 いつものように道端で物乞いをしていたバルティマイにとって、その日はふだんとは違う、ただならぬ気配が感じられたことと思います。大勢の群衆が集まるのはこれまでもあったのですが、何かが起こっています。自分の目で確かめることは出来ませんが、鋭敏な耳がイエス様がお通りだということをとらえました。その瞬間、彼は一切を理解して「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めたのです。

 ダビデの子とは救い主の称号です。ダビデは古代イスラエルに生きた偉大な王で、サムエル記下7章で預言者ナタンはダビデに「主があなたのために家を興す。…あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」と伝えています。クリスマスでよく読まれるイザヤ書9章でも「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」と歌われた救い主について「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない」と言われています。ダビデ王の子孫である新しい王をダビデの子と言うのです。そしてダビデの子は救い主を意味します。バルティマイはイエス様を救い主と言っているのです。私が調べたところ、それまでイエス様をダビデの子と言った人はなく、バルティマイが最初です。次がエルサレム入城の際にイエス様を歓迎した群衆、その次がパウロで、このようにバルティマイの口から出た声が広がって行くことになるのです。

バルティマイはイエス様のもとにかけよりたかったでしょうが、さすがにそれは出来ないので、その場で力の限り叫び続けます。群衆は叱りつけて黙らせようとしました。まわりの人たちにとって、物乞いがイエス様に呼びかけるのは自分の身のほどをわきまえない行為だったに違いありません。しかし、そんなことにかまってはいられないのです。

 私たちがイエス・キリストに祈りと願いをささげようとするとき、叱られて「お前なんか、ここに来る資格はない」と言われることはないと思いますが、歴史上いつもそうだったのではありません。一昔前、ある国では白人教会というのがあって黒人は締め出されましたし、お金持ちだけが集まって、貧乏人は入れない教会というのは今もあるかもしれません。けれども教会からも締め出されるような人こそ、実はイエス様が一番大切に思っている人かもしれないのです。

 信仰には大胆さが必要になる時があります。心で思ってはいても口にしないという奥ゆかしさが大切なときもありますが、神様から与えられたその時には勇気をふるい起こさなければなりません。バルティマイはここぞという時、イエス様が救い主であるという、人々がまだ口にしていなかった言葉を敢然と言い放ちます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。誰に止められようがイエス様に食いついて離れないという情熱が、私たちの教会にも満ちることを願わずにはおれません。

 さてバルティマイの声を聞いて、イエス様は立ち止まりました。「あの男を呼んで来なさい」と言われると、人々はバルティマイに「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と伝えました。それまでバルティマイを叱って、黙らせようとした人たちが「安心しなさい。立ちなさい。…」と、まるでイエス様そっくりの言い方をしているのが不思議ですが、そこにもイエス様の感化が現れているようです。…バルティマイは躍り上がりました。目が見えない人が躍り上がるのはよほどのことです。イエス様にまだまみえているのではなく、まだ何もしてもらえていないのに、「お呼びだ」のひとことで喜びがきわまりました。彼は上着を脱ぎ捨ててイエス様のもとにかけよります。

 主イエスはバルティマイに「何をしてほしいのか」と尋ねられました。つきまとってくる物乞いに「何をしてほしいのか」と尋ねる人がイエス様以外にいるとは思えません。普通、わずかのお金をあげるか、それとも全く相手にしないかのどちらかだからです。私も、物乞いに対して話しかけたことすらなく、反省させられています。主イエスは、その人が見たところどんな人であっても、心の底からの願いに耳を傾けられます。

 バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。ここに、彼がその人生の中で体験した涙の一切がこもっています。マタイ福音書は、主イエスは盲人の言葉を聞いたあと「深く憐れまれた」と書いています。この「深く憐れむ」という言葉は、「腹わたが揺り動かされる」ほどの非常に強い同情の気持ちを表しており、イエス様の場合、上から見下ろしながら可哀想だという態度ではなく、苦しみ悩んでいる人と同じ目の高さに、つまり同じ所に立っていることがわかるのです。主イエスは苦しんでいる人と同じ目の高さになったがゆえに、最後に十字架にかけられることまで受け入れられたのです。

 

 主イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。するとバルティマイはすぐ見えるようになりました。ここでイエス様の言葉の意味を考えてみましょう。「あなたの信仰があなたを救った」、これはバルティマイの信仰が立派だから、神が彼を救ったということを意味するのでしょうか。確かにバルティマイのイエス様への思いは真剣なものがあり、彼は立派な信仰を持っていたと言って間違いありません。しかし、ここから、立派な信仰でないとイエス様は大事にしてくれないとか、そうでない人については邪険に扱うというふうに思ってしまってはなりません。もしもそれが本当なら、みんな神様からいただくご褒美をめあてに信仰に励むことになるでしょう。その結果、神様から頂くものが良くなければ、じゃあ信仰しても無駄だいうことにとなりかねないので、そういう信仰をすべて認めることは出来ません。…そうではなく、十字架刑をさえ引き受けようとなさるイエス様の愛が、バルティマイの心にわき起こった、天から見た時、まだまだ小さな信仰を信仰として認めて下さったということなのです

 バルティマイの信仰の生涯はここから始まります。彼は「なお道を歩まれるイエスに従った」と書いてあります。主イエスが「行きなさい」と言われたからにはどこに行っても良いはずなのに、普通に職業人として自活する道もありましたが、あえてイエス様に従ったのです。

 その後、バルティマイがどうなったか、聖書には何も書いてないのですが、推察することは出来ます。46節は「ティマイの子バルティマイ」と書いています。このようにはっきり名前が書いてあるということから、この福音書を書いたマルコや初代教会の人たちの間で、バルティマイがよく知られた人であった可能性が考えられるのです。お父さんのティマイの方も知っている人が多かったのではないでしょうか。

 そこから考えると、目をあけてもらってイエス様に従ったバルティマイは、イエス様が十字架につけられた時、他の弟子たちと同じく衝撃を受けてイエス様のもとから逃げていったかもしれませんが、やがてよみがえったイエス様のもとに参集し、初代教会の中でその発展に尽くし、よく知られた人物になったのでしょう。

 

 目の見えない人がイエス様によって目が見えるようになった、そこにはこの事実をはるかに超える深い意味があります。

 主イエスは目が見えるようにというバルティマイの願いをかなえて下さったのですが、これはそれ以上のこと、彼の心の目を開くためです。それだから、彼はイエス様に従っていったのです。

 そこから私たち自身のことを振り返ってみましょう。私たちは本当にものが見えているのでしょうか。なるほどここにいる私たちの中に盲人はおりません。しかし、心の目が開いているかと問われたら、この私を含め、たいへん心もとないのです。少なくともバルティマイは、私たちと比べものにならないつらい人生を過ごしてきましたが、イエス様に出会い、心の目を開けて下さったことで私たち以上に幸せになりました。生涯、教会から離れず、主と共に生きた、これにまさる恵みと幸せはありません。

 主イエスに出会うことで、すべての苦しみが喜びに変わる、バルティマイが体験したことを今度は私たちも願おうではありませんか。

 

(祈り)

天の父なる神様。物乞いしていた盲人の、憐れみを願い、叫び続ける声に耳を傾け、「何をしてほしいのか」と尋ねてくださった主イエス・キリストが私たちをここに呼び寄せ、礼拝の恵みにあずからせて下さったことを心から感謝いたします。ふだん神様を怒らせることの多い私たちでも、主に向かって叫び続けるとき、主が立ち止まって下さり、私たちにみ顔を向けて下さることを信じます。主イエスが私たちをかえりみて下さることを信じて、お願いいたします。何よりも私たちの心の目を開けて下さい。自分の身の上に起こっていること、自分のまわりや社会の中で起こっていることを、たいへん力不足ではありますが、イエス様が見るように見て、イエス様が行われるように行うことを願い求めてゆきたいと思います。私たちの不信仰や偽善、醜い心を清めて、イエス様に従ってゆく喜びを心に満たして下さい。

 

 主イエス・キリストの勝利を信じて、願います。この祈りを主のみ名によっておささげします。アーメン。