岩の上に建てた家

岩の上に建てた家  詩編6227、マタイ72429  2023.3.12                                                  

 

(順序)

前奏、招詞:詩編13034、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:304、説教、祈り、讃美歌:312、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

私たちは今日で「山上の説教」を読み終えることになりました。主イエスの「山上の説教」は「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉に始まり、さまざまなことが語られていますが、その最後の部分に来ました。28節に「イエスがこれらの言葉を語り終えられると」と書いてありますが、この「語り終える」という言葉は、原文では話が終わったというようなことではなくて、むしろ完成したことを意味しています。そこには主イエスがその偉大な教えを完成されたという意味があるのです。

 主イエスはこの「山上の説教」を終えるに当たって、岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人の話をなさいました。なぜ、説教の最後にこの話を持ってきたかと言いますと、24節を見て下さい。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は」と書いてありますね。それまで、たくさんのことが教えられましたが、それらが聞きっぱなしであってはならないのです。聞いたからには、さあ、あなたはどうしますかということが問われています。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は」という部分を、読み飛ばしてはなりません。……キリスト教信者の中には、主イエスの言葉を聞いて、神様を信仰する思いにはなっても、それをあくまでも心の中の出来事だけに押しこめてしまおうとする人がいます。やはり主イエスの言葉を聞いたなら、それを行おうとする心がまえを持っていたいものです。

もっとも、ここから、人は信仰によって救われるのか、それとも良い行いをしなければだめなのかという古くて新しい問題の答えを見出すのはちょっと無理のようです。というのは、すぐ前の22節に、イエス様に向かって、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と訴えている人々が出ているからです。この人たちはイエス様の名によって、素晴らしい働きをしたと言っており、事実、目覚ましい働きをしたのでしょうが、しかしイエス様から「不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われてしまうのです。

 

信仰することと行い、それが神様から頂く救いとどう関係するかという問題は一筋縄ではいかないことをちょっと頭に置いた上で、主イエスのなさったお話そのものを見てゆきましょう。これはたとえ話です。ここに登場する二人はもちろん違っていますが、共通点も多いのです。まず、共通点の方から見てみましょう。

 その第一は、二人とも建てたのが「家」であったということです。一方が立

派なお屋敷で、もう一方が掘っ立て小屋だったということではありません。両

方とも同じ程度の家であったと考えましょう。 

第二に、家が建てられた場所と環境も共通しています。この時代のユダヤで

は、今日のように水道が完備していたわけではありませんから、人は水が得られる所に住もうとするのが普通です。つまり湖とか川とか井戸のある所に住もうとするのです。この二人について、一つの家が「岩の上」、もう一つが「砂の上」と書いてあるので、土地柄がずいぶん違っているように見えるのですが、そういうことではありません。ここと同じところを記録したルカ福音書6章48節では、イエス様の言葉を聞いて行う人のことが「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いた」と説明されています。ユダヤの地は一般に、砂で覆われた部分が多いものと思われます。つまり、二人の内のひとりは砂地をずっと掘り進み、岩が出て来たことを確かめ、岩の上に家の土台を築いたのです。しかし、もうひとりの方は岩が出て来るまで待つことが出来ません。これ以上掘っても砂ばっかりだと思ったのでしょう。そのため岩の上に土台をすえることなく、砂の上に家を建ててしまったのです。

 第三が、二人とも生活の場はほぼ同じで、襲ってきた災難もほぼ同じだったということです。雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってくる…、二軒とも同じ程度の試みに遭ったのです。災難の程度が一方は軽くて、一方は重いということでは絶対にありません。

 これだけの共通点があったことを理解した上で、では二人の違いを見てゆき

ましょう。すぐわかるように、一方が「賢い人」と言われているのに対して、

もう一方は「愚かな人」と言われています。その理由は、一方の家が岩の上に

土台を置いたのに対して、もう一方の家は砂の上にあって、土台がなかったと

いうことにあります。その結果はどうなったか、雨が降り、川があふれ、風が

吹いて襲いかかった時、それは決定的な違いとなってあらわれました。二つの

家が遭遇したのはほぼ同じ試練であったのですが、一方は倒れません。嵐にも

持ちこたえたのです。しかし、もう一方は「倒れて、その倒れ方がひどかった」、

中にいた人は無事だったのでしょうか。もう二度と住めないくらいになってし

まったのです。

 主イエスはガリラヤ湖のほとりでこの説教をされました。そのあたりは岩石の層の上に砂や土の層がかぶさっているので、慎重な人はその土砂の層を時には10メートル近くも掘り下げて土台となる岩を探すのだそうです。……もちろん主イエスは、ここで建築について講演しているのでなく、建築作業を通して知ることが出来た真理を人生に当てはめているのです。科学者、技術者、労働者は、自然のしくみを謙虚に学ぶことによって、どうすれば嵐に襲われても倒れない家を作れるか研究します。神が造られた自然を研究することで、これを自分の生活に役立たせるように努めます。…同じように、人間がこの世界に生きていることそのものが、神の働きを前提とし、よりどころとして初めて可能なのですから、私たち人生も砂の上に建てた家のようなものであってはならないのでありまして、土台となるべき岩を探そうと努めるべきです。

 

 「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても」という言葉で、2014年に広島を襲った土砂災害を連想した人がおられたかもしれません。あの時はひどかったですね。宅地造成を急ぐあまり、切るべきでない木を切ってしまったことが大惨事を招いた原因だと言われていますが、人生の中で出会うさまざまな危機の中にもこれに似たことがあると思います。  

 人生何が起こるかわかりません。人間の本当の姿は、幸せな時や平穏な時にはおおいかくされて見えませんが、試練のときに明らかになります。その人が本当に強い人かどうかは、そういう危機的な状況にならないとわかりません。自分にとって本当の友人が誰かわかるのも、そのような時です。

人間一人ひとりにとって想定される危機的状況にはさまざまなことがありますが、しかしそのうちで最大のものは死ということでしょう。……世界にこれだけだくさんの人がいて、中には順風満帆、危機らしきものは何一つ経験しなかったという幸せな人ももしかしたらいるかもしれませんが、そういう人であっても死はひとしく襲ってきます。死そのものが恐怖であるという人は多いですし、キリスト者にとっては、死んだあと神様の前に立たなくてはならないことに恐れを持つ人も多いはずです。これはたいへんな危機です。

さらに、そこから考えてみますと、私たちがいまその上を歩いている人生の道も一刻一刻が死に向かっての歩みですから、それもやはり危機的状況の中での歩みでありまして、その中で私たちはたくさんの危険に取り巻かれています。一つひとつあげるまでもないでしょう。一つの危機を乗り越えたと思ったら、別の危機が襲ってくることがあります。またすべてがうまく行っている時に落とし穴に落ちてしまうこともあります。自分はこんなに苦労しているけど、あの人は順調そうでいいなあと思うことがありますが、外からは順調そうに見える人が実は崖っぷちに立っているということもあります。

このように、さまざまな危険に取り囲まれ、その中を生きる私たちの人生にしっかりした土台がなく、砂のようなものの上に乗っかっているだけしかなかったとしたら、いったいどうなるでしょうか。

ある年配の女性がいました。体の調子が悪いので病院で見てもらったら、ガンかもしれないと言われました。するとその人は絶望のあまり、自殺してしまったということです。……この人はたしかに危機的状況にはありましたが、どこに自殺する必然性があったでしょう。ガン患者でこれを克服した人はいくらもいるのです。この人の人生は確かな土台の上には立っていなかったのです。自分が危機的状況にあると理解することと、不安にさいなまれ、早まった行動を取ってしまうこととは全く別です。

人は危機一髪という状況に陥った時のことを考え、自分の人生が確かな土台の上に立っているのかどうか、確かめることが必要です。…この世の中には確かな土台を持たずに生きている人が大勢います。また、確かな土台を探し求めている人も大勢います。…それでは私たちはどうかというと、幸いにも目の前に土台となる岩が示されています。だから教会の外に出て、違う土台を探し求める必要はありません。自分がどんな状況にあっても、人生の岩は少しもゆらいではいないのです。ですから、そこには何ら危険はありません。問題は、私たちがその岩のことを知らされまがら、その上にかたく立っていないところにあります。

永久に変わらない、私たちのよって立つべき岩、……それこそ世界のすべてを創造され、私たちもお造りになり、また救いへと導かれる神に違いありません。聖書には、神様を岩として、呼び求める声が満ちています。しばらく聞いていて下さい。「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」これはイザヤ264です。…「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔」これは詩篇183。…詩篇62:2は「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔」、詩編951にも「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう」という言葉があります。そしてこの岩とイエス・キリストは一つなのです。なぜかと言うと、イエス・キリストは神のところから来られ、ご自身が神だからです。ですから第一コリント書10章4節は、「この岩こそキリストだったのです」と述べ、岩がキリストご自身であることを示しているのです。

 

イエス・キリストが山上の説教を語り終えられたとき、群衆はその教えに非情に驚いたと書いてあります。それは主が権威ある者として、教えられたからです。この時代、律法学者として知られていた人たちは、旧約聖書の権威に頼って、その一言一言を忠実に解釈して説教していました。現代の教会の牧師にしても、聖書という権威ある神の言葉から一歩も脱線すまいと気を配りながら、決められた範囲の中で説教しているにすぎません。「私はこう言いたい」と語るのではなくて、「聖書はこう言う」としか語ることが出来ません。ところが主イエスの説教は違いました。……「あなたがたも聞いているとおり、このように命じられている。しかし、わたしは言っておく」、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」、「わたしの言葉を聞いて行う者は」……これらは普通の人間が口に出来る言葉ではありません。主イエスはここでご自分を旧約聖書以上の権威ある者としてお語りになったのです。イエス・キリストにとって、ご自分の言葉はすなわち神の言葉なのです。これは大変なことでありまして、その場にいた人々が驚いたのも当然です。

主イエスは宗教家としては何の肩書きも持っておられません。どこの学校も出ているわけではありませんし、誰か偉い人の弟子でもありません。ですから、当時の宗教家たちから「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と聞かれたのですが(マタイ2123)、それももっともな話です。しかし、主はそういうものを必要とする方ではありません。父なる神によって、直接世界の救い主に任じられたのです。人々は、肩書きではなく、直接天から来る真実の権威にふれて驚いたのです。そして、そうだとすると、その言葉を聞く人間の側からみますと、イエスという方は本当にその言葉通りの方なのかが問われることになるでしょう。教会が教えているように、イエス様は本当に神と等しい方なのか、それとも歴史上最大のペテン師なのか、あるいは気が狂っておられたのか、…あいまいな態度は許されません。すべての人がその問いに答えなければなりません。

 

主イエスはこの3年後、すべての人のためにその命を捨てられました。山上の説教を語られたとき、すでに十字架につけられることを覚悟し、ご自分の全存在をかけて語っておられます。主イエスを信じ、この方に自分の人生を基礎づけるということは、またそのお言葉を聞いて行うことでもあります。それは他の何にもまして確実な人生の土台の上に立つことなのです。

 

 

(祈り)

 

主イエス・キリストの父なる神様。今日、これまで数限りない人々を励まし、歴史を動かしてきた山上の説教のみ言葉を、私たちに示して下さったことを心から感謝いたします。どうか私たちがここで示されたことを深い思いをもって受け入れてゆくものでありますように。私たちの中に強い信仰を持つ者は多くはなく、もしも嵐に襲われたら、神様を裏切ることもあるのではないかというおそれを持ちます。どうかすでに主が示して下さる、確かな岩の上にそれぞれが自分の人生の土台を築くことが出来ますように。また私たちだけでなく、隣人である今だまことの神様を知らない人たちも、また私たちの国も、イエス様という土台がなければ、このまま立ち続けることは出来ません。どうか、私たちが神様の前に心を一つにして、この岩の上に家を建てる仲間を増やしてゆくことが出来るよう、知恵と力、勇気、そして健康をお与え下さい。…こうして、私たちが最後まで人生の嵐に立ち向かい、死を迎えるときもなお確かないのちの望みに生きるものとして下さい。とうとき主のみ名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。