にせ者にご注意

 にせ者にご注意  エレミヤ28117、マタイ71523  2023.3.5

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1301b2、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:10、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:161、説教、祈り、讃美歌:492、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式、204)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

 礼拝でこれまで学んできたイエス・キリストの山上の説教が、ようやく終わりの結論部分に近づいてきました。

山上の説教はマタイ福音書の中では全部で3章というそれほど多いとは言えない分量ですが、ここを長束教会で説教を始めてから今日が34回目になります。主イエスの教えがいかに広く、深い内容を持つかということを思わされます。前回は「狭い門から入りなさい」というところを見ました。そして今日は「偽預言者を警戒しなさい」というところです。まず、この前後のつながりぐあいから見てゆきましょう。

 主イエスは狭い門のたとえをお話しされました。たくさんの人が深く考えることもなしに、大きな門から広い道に入ってゆきます。そこは華やかで、楽しいことが待っている場合が多いです。しかし、そのまま何も考えずに進んで行くのは危険です、もしもそれが、滅びに通じる門であったとしたら……。

 現実には、私たちが他の人に向かって「あなたが歩いている道は滅びに通じています」なんて言うことは慎重でなければなりません。むしろ、いま自分がどんな道を歩いているのか判断することが大事です。自分は狭い門を通って細い道を歩いているつもりでいて、永遠の命が約束されていることを信じていたとしても、それが錯覚であったということが時おり起こるからです。

 私たちは、本当の神に出会い、教会に通って信仰生活を送っている人であっても、狭い門と細い道を見つけるのは簡単ではないことを知っておく必要があります。なぜ、そんな不安を起こさせるようなことを言うかと言いますと、それが今日の主題になります。…偽預言者がいるからです。

 

偽預言者と言われる人たちは、私たちが命に通じる道はこの道かな、それともあの道かなと思って探しているときに現れて、ここにその道があります、私のあとをついて来なさいと言って間違った道を教えるのです。命の道のかわりに、滅びにいたる道に導くのです。

 いま日本では、こうした人たちのことがクローズアップされ、社会問題になっています。そのため正しい教えも含め、宗教そのものが危ないと思われかねない残念な状況になっています。皆さんご存じのように、統一協会の文鮮明は、自分は世の終わりに現れた再臨のキリストだと称し、これに多くの人がだまされてしまいました。…エホバの証人は、自分たちはキリスト教だと言って、私たちをにせもの扱いしています。4日前の3月2日に亡くなった幸福の科学の大川隆法氏は自分のことを神だと言って、多くの信者を集めました。この人はだれだれの霊言という本を多数出していますが、その中に「イエス・キリストの霊言」というものまでありました。…皆さんのところにもしもおかしなグループが来たら、正しい教えでもって相手を説得できるなら良いのですが、そうでなければ取り合わないことです。相手の土俵に乗っかってしまうくらいなら、その方がよほどましです。いよいよ危なくなったら、牧師を呼んで下さい。

 主イエスは、偽預言者は「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」と言われます。……「主は羊飼い、わたしには何も欠けるものがない」という有名な歌がありますね。主イエスは羊飼いに例えられますが、しかしこの羊飼いのもとに羊の皮を身にまとった狼が来るのです。信仰者をよそおい、キリストを信じている者のような顔をして来るのです。見るからに狼とわかるような顔をして出て来るのではありません。そのために、彼らの正体を見破るのはたいへん難しいのです。

 少し前、日本で、教会を乗っとってしまう人たちのことが問題になりました。

異端グループがまともな教会に人員を送り込みます。その人たちは教会員となり、教会のために一生懸命奉仕し、みんなの信頼を集めるのですが、気がついた時、教会はその人たちの意向を無視したらやっていけないようになってしまうのです。

 それでも邪悪な目的をもって教会を乗っとろうとする人たちは、まだ御しやすいと言えます。難しいのは、自分自身、心から神様に仕える思いでいる人たちで、主イエスはそういう人たちのことをも想定して説教なさっておられます。

22節を見ましょう。「かの日には、大勢の者が……これは偽預言者のことです……わたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう」。世の終わりの日にイエス・キリストの前に立った時、自分たちは御名、つまりイエス様の名によって神の言葉を語ってまいりました、悪霊を追い出しました、奇跡を行いました、と言うのです。

ここに書いてあるところから察すると、この人たちは自分が間違ったことをしたとも、人をだましたとも思っていないようです。むしろ、これこそイエス様の御名のために、と思いこんで一生懸命励んできたのです。ここが恐ろしいところで、この人たちは、自分ではこれがイエス様に一番喜ばれる道だと信じてやってきたことが、終わりの日になってイエスご自身によって否定されてしまうのです。

このようなことが当てはまるのは、まず異端とされるグループに属している人たちで、これは人生をかけて行ってきたことが何にもならなかったという悲劇です。しかし、この人たちだけが問題なのか、そうとも言えないでしょう。考えたくないことですが、教会でこれと同じような危険に陥りやすいのはまず牧師です。牧師は自分が偽預言者としての道を歩いていないか点検を怠らないことが必要ですが、牧師でなくても自分が偽預言者の仲間になっていないか、警戒を怠らないことが必要です。

 

 神の言葉を告げると称する人が何人もいて、言うことがそれぞれ違っている場合、誰を信じれば良いのでしょうか。

 旧約聖書に預言者エレミヤが出て来ます。彼は一生を通じて、偽預言者とのたたかいを強いられました。エレミヤは「神はこう言われる」と言って、神から受け取った言葉をそのまま人々に告げました。しかし、偽預言者も「神はこう言われる」と言って、エレミヤと反対のことを告げるのです。いま私たちはどちらが本物でどちらが偽者かわかりますが、当時の人々にとってはこれを見分けるのは至難のわざでありました。

 エレミヤは紀元前7世紀から6世紀にかけて、ユダ王国の中で活動した預言者です。彼は、人々の不信仰のゆえに神の怒りがこの国に降り、そのためこの国は外国の侵略を受けて滅びると預言しました。しかし、もう一人の預言者は「神は言われた。私がこの国を滅ぼすはずはない。私はこの国の敵を打ち砕く。だから安心しなさい」と言うのです。当時の人々にとって、どちらが好ましい預言者だったかは明らかです。人は自分の聞きたいことを語ってくれる人を喜ぶものですから、偽預言者が歓迎される一方、自国の滅亡を預言するエレミヤは行くさきざきで人々から嘲りの的となり、生涯を苦しみと恥の中で過ごさなければなりませんでした。……しかし神はエレミヤと共にあり、偽預言者は斥けられたのです。その後の歴史はエレミヤが預言した通りでありました。

 

主イエスは言われます。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」。

本当の預言者か偽預言者かを見分けるのは、その実であると主は言われます。

しかし、実というのは何でしょう。普通、多くの人は、これをその人の外に現れた部分、その人の立ち居振る舞いから生活実践に至るまで、つまり行いを考えます。確かに、人々から尊敬されていた教会の指導者が実は贅沢三昧な生活をして、悪事にも手を染めていたことがばれ、偽者だと暴露されることはあります。…しかし、これだけでは問題は解決しません。

 私たちはふつう、いくら良いことを言っていても実践が伴わなければだめだと考えがちです。でも22節をもう一度見て下さい。彼らはイエス・キリストの名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇跡すら行ったというのです。ここらへん解釈がたいへん難しいのですが、彼らがうそをついていない限り、つまりその言葉通りのことをしたのだとすれば、これは立派なことをしたということになりませんか。

 キリスト教史に登場する幾多の異端者の中には、その人柄や行いが立派で称賛された人も多いです。たとえば2世紀から3世紀にかけて生きたアリウスという人は高邁な人格で知られた人でしたが三位一体を否定、イエス様が神であることを否定し、その教えはエホバの証人に受け継がれました。見るからに尊敬すべき人がとんでもないことを教えていたのです。

 その人の行いによって「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」ことを判定することが難しいとすれば、その人の言葉によって見るべきなのでしょうか。その場合、木というのが心を表わし、実は言葉を指すとなります。良い心から良い言葉が出て、悪い心から悪い言葉が出て来るはずです。従って悪い心から、偽の預言、偽の説教が出てくると考えるべきでしょう。もしも私たちの目の前に正しくみ言葉を語る人と偽預言者がいる場合、どちらの言葉を受け取るか、それは説教によって識別できるはずです。

ヨハネの手紙一4:2と3節は言います。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です」。イエス・キリストへの信仰を言い表さないものは、正統な信仰とは見なされません。この点から判断しますと、イエス様の価値を少しでも引き下げようとする統一協会やエホバの証人はキリスト教とは言えなくなります。

しかし、それでも問題がクリアになったとは言えません。21節で偽預言者は「主よ、主よ」と告白していたのです。イエス様を主と告白する――他のどんな神様でも、どんな人間でもなく、イエス・キリストこそ主であることを告白するのは正統的な信仰です。つまり、彼らの信仰の告白が正統的なものであっても主イエスは斥けてしまわれるのです。

 

このように考えて来ると、何が何だかわからなくなってしまいそうです。偽預言者を見分ける方法は彼らの行いから判断することが出来ない場合があります、彼らの口から出る言葉で判断することも重要ですが、それも完全ではありません。そうなると、もう答えはないように思えてくるのですが、もう一度主イエスの言葉を見てみましょう。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけでない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。本物と偽預言者とを見分ける鍵は「天の父なる神様の御心を行っているかどうか」にあるようです。

いま私たちは「山上の説教」の最後の部分を読んでいますが、これまでに語られ、教えられてきたことの中に「天の父なる神」がいくつも出ています。たとえば「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言う言葉があって、これに続けて教えられたのが「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ』」、つまり主の祈りでした。

山上の説教の中で主イエスは、イエス様の父であられる神様が、あなたがたの天の父でもあるのだ。あなたがたを子として愛し、養い、はぐくんで下さるのだ。だから天の父の愛を信じ、その養いと導きに身を委ねて生きなさい、と教えて下さいました。 

天の父が下さる愛の下で生きること、それが「天の父の御心を行う」ことにつながっています。「わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言う人々は、確かに正しいことを語り、立派な行いをしてきました。しかし、それでも何かが足りなかったのです。その何かとは、難しいのですが、おそらくこの人たちは本当の意味での父なる神との結びつきが欠けていたのです。それはすなわち、父なる神が遣わされたイエス・キリストとの結びつきにも欠けていたものがあるということです。

この人たちは正しい行いをし、正しい言葉を口にしていました。しかし、それでも主イエスに斥けられてしまったとしたら、私たちはいったいどうすれば良いのかと思ってしまいますが、それほどに信仰の道は細く、けわしく、そこを進むことは困難だと言わざるをえません。神は人の行いや言葉をもちろん重視しますがですが、さらに心を見ておられるということでしょう。私たちの信仰が外に現れた行いだけになっていないか、言葉は立派だけど心の中はどうなっているか、神はすべてお見通しです。ですから私たちは自分の心の中まで清くされなくてはなりません。イエス・キリストが自分の罪を身代わりとなって背負って下さった、このことは事実ですが、これに甘えることなく、さらに信仰の道を深めて行くことが求められています。

 

(祈り)                  

イエス・キリストの父なる神様。あなたは、あなたのみわざを伝える礼拝を欠け多いこの牧師にゆだねられました。またここに集う一人一人によって、イエス・キリストのメッセージをこの広島の地に伝える者となさいました。神様、あなたが顧みて下さるとは、私たちはいったい何者なのでしょう。思いにまさる恵みを感謝いたします。どうか広島長束教会が礼拝ごとに正しくみことばを伝え、またそのみことばが私たちを通して生きて働くところを見せて下さいますように。

神様、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」。まことに厳しい言葉です。神様は人間の少しの罪も、偽善も見逃されません。私たちの内の誰もが偽預言者とならず、偽預言者にだまされる者にもなりませんように。神様の裁きはまず牧師から、そして教会の信徒から始まると思いますが、どうかイエス様のお名前に免じて、地獄から救い出して下さい。

このあと、主の恵みの食卓にあずかります。すでに信仰を告白した者の心に神様の愛を呼び覚まして下さい。さらに、まだこの食卓にあずかる資格を持たないものの、あなたの恵みに生きたいと願っている者たちの魂の飢え渇きをいやして下さい。

 

主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。