神の公正な裁き

神の公正な裁き  サムエル下1217b、ロマ215   2023.2.26

 

(順序)

前奏、招詞:詩編12956、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:7、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:85、説教、祈り、讃美歌:257、(執事任職式)、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白))、(献金)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 パウロがローマ教会の人々にこの手紙を書き送る少し前、ギリシャのアテネの都に滞在したことがあります。聖書にはその時の様子を「広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論した」と書いてあります(使徒171718)。

 いまの時代ではなかなか考えられないことですが、その当時、あちこちの町を巡りながら、広場でそこに居合わせた人と討論したり、街角では説教を語るという、日本流に言うと辻説法師のような人がたくさんいたということです。…考えてみれば、その時スマホに没頭している人はいませんし、テレビはなく、印刷術が発明されていない時代で新聞だって存在しないわけですから、人と人とが直接会って語り合うことの重要性ははかりしれません。対話することで情報が伝達されるし、何より議論することで考えが深められていくのです。

当時、このように各地を巡回している人たちの中には論客がいたり哲学者がいたりで、全体的に知的レベルは高かったようです。その人たちは「あなたは」とか、「なになにしている者よ」などと言って、直接呼びかける方法を取ったということですが、パウロもそうした議論の仕方を学んでいるらしく、今日の箇所にもそれが反映されていて、それが「すべて人を裁く者よ」とか「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ」という呼びかけになっています。呼びかけをした時、そこにいる人が「自分には関わりのないことです」とならないよう工夫したのかもしれません。よく考えてみると、パウロが厳しい言葉で呼びかけた人間の類型のどこにも当てはまらないという人はほとんどいないのです。ひるがえって皆さんも、パウロが自分たちとは全く関係ないところで議論しているのでないことを知って下さい。パウロの言葉は直接、私たち一人ひとりにも向けられたと言うべきです。

 

前回までに学んだロマ書の1章では、異邦人の罪が論証されていました。異邦人とはユダヤ人以外のあらゆる人たちですから、それまで本当の神のことをほとんど教えられていません。だからこの神を礼拝したり、聖書の言葉を聞いたりすることはなかったし、かりにあったとしてもそれはとても限られた経験でしかなかったのです。ただ、そうは言っても、神のみ前で、「自分は本当の神様のことを知らなかったし、教えられてもいなかった。だから、罪を犯したとしてもいたしかたないでしょう」とは言いわけすることは出来ないのです。本当の神様のことを教えられてなかったとしても、知られざる神様が宇宙と世界と自分たちすべてを造られたことはわかるはずです。それなのに鳥とか獣とか人間とかの、やがては朽ち果ててしまう像を造ってそれらを神として拝んでいる、その行きつくところが恥ずべき情欲やあらゆる不義、むさぼりなど罪というもののオンパレードになるわけです。このような人たちには「弁解の余地がない」とパウロは言っています。

しかし、それで終わることはありません。ロマ書1章で異邦人がやりこめられている時、「ざまあみろ、異邦人め」と思っている人がいたかもしれないのですが、パウロはこれに対し、「じゃあ、あなたはどうなのか」と批判のほこ先を向けた、それがロマ書2章にかいてあるのです。

それでは、「だから、すべて人を裁く者よ」と名指しされた人たちとは、どういう人なのでしょうか。ロマ書をこの先読んでいくと、17節で「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし…」と書いてありますね。1章で異邦人のことが書かれているのに対し、2章でユダヤ人が想定されていることは確かです。世界に存在する数え切れない民族の中から、神はただ一つユダヤ人を選ばれたことを聖書は告げています。この時代、ユダヤ人はユダヤだけではなく各地に散らばり、ローマにも住み、教会の主要なメンバーになっていたのですが、彼らはどこにいたとしてもプライドがたいへんに高いのです。自分たちは神の民である、世界に冠たるわが民族、という感じで、…日本人もプライドが高い方の民族だと思いますがそれ以上、異邦人から見たら鼻持ちならないくらいだったと思うのです。なにしろ自分たちは神に選ばれ、救われているけど、他の民族はみんな滅びに定められているということですから。

ローマ教会で信者だった誇り高いユダヤ人が、パウロの手紙が読まれ、異邦人について「彼らには弁解の余地がない」と言われていた時、わが意を得たりという思いだったことは間違いないでしょう。しかしパウロはここに来て、「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」と言います。これはユダヤ人に冷水をあびせるに等しいことでした。

もっとも異邦人とユダヤ人という分類は単純化のしすぎかもしれません。この時代、異邦人の中にもすぐれた人がいました。ストア派の哲学者セネカとか皇帝であり、かつ哲学者であったマルクス・アウレリウスといった人は歴史にその名を刻んでおり、高校の世界史の教科書にも出てきます。私、勉強不足でその人たちの本を読んでいないのですが、本当に優れた人たちがいて、たとえばセネカは神々を信じているという限界の中ではありますが、グロテスクな偶像崇拝を批判、罪をしりぞけ善を勧め、カルヴァンにも影響を与えているくらいなのです。パウロがこのような尊敬すべき異邦人と討論を重ねたことは十分にありうることで、パウロがここでユダヤ人だけでなくこうした人たちをも想定して、熱い思いが届けるようにしたものと思われます。

さて「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」、こうした例は私たちも、いくつも思い浮かべることが出来るでしょう。ほとんど誰もが、他人が犯した間違いについては厳しく断罪するのに熱心ですが、自分の間違いについてはほとんど目をつぶっているからです。

その顕著な例をバト・シェバ事件を起こしたダビデ王で見ることにしましょう。イスラエルの王ダビデはバト・シェバというたいへん美しい女性を見染めました。そこで彼女の夫で自分の忠実な家来であったウリヤを激しい戦いの最前線に送りこんで戦死させました。こうしてバト・シェバをまんまと手に入れたのです。ダビデは一国の王ですから、そのことで彼を批判したり、いさめる人はいませんでした。

しかし、それから一年くらいたった時、神は預言者ナタンをダビデのもとに遣わして、このように言わせました。「ある町に金持ちの男と貧乏な男が住んでいました。貧乏な男は雌の小羊を飼っていて、これを自分の娘のように可愛がっていたのです。ところが金持ちの男は自分のところに来た旅人をもてなす時、自分の羊や牛を殺すのは惜しいので、貧乏な男の小羊を取り上げて料理に出したのです」。これを聞いてダビデ王は激怒し、ただちに判決を下しました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから」。その時、ナタンはすかさず答えました、「その男はあなただ」。…この結果、ダビデ王はついに自分が恐ろしい罪を犯したことを認めざるをえなくなったのです。

私たちは悪事を行ったのが自分でない時は、そうだ、そうだ、そんなやつは牢屋に放り込んでやれ、などと正義感をふりかざして怒るものですが、自分自身がその中にいることはなかなか分からないものです。

これはある牧師が言っていたことなのですが、ある日の礼拝説教を聞いた人が、「先生、今日のお話にはとても恵まれました。○○さんにぜひとも聞いてほしかったですね。来られなくて残念です」と言ったそうです。この方にとってその日のみ言葉は、自分ではなく他の人に当てはまるものだったのです。

また、「妻は夫に従い、夫は妻を愛しなさい」と説教したら、ある家で妻が、「ねえ、あなた聞いた? 今日牧師さんが、夫は妻を愛しなさいと言ったでしょ。なのにあなたは一体何よ」と食ってかかる。すると夫も夫で、「お前こそ、妻は夫に従えとあっただろう。なのに俺を尻にひいているじゃないか」と言い返す。…み言葉が夫婦喧嘩の種になってしまった例です。み言葉を自分はスルーして他の人に適用してしまうから、こんなことになるのです。

 パウロはコリント教会に宛てた手紙の中で、「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と教えています(Ⅰコリント1012)。自分ではしっかり立っているつもりの人でも、実は倒れそうになっていた、これは誰にでも起こることです。英邁な国王で信仰においても比類なき指導者であったダビデでさえ、あの事件を起こしました。恐るべき罪の誘惑に対し自分は大丈夫だと思っている人が失敗することがあります。かえって、自分は危ないと思っている人の方が気をつけるものです。私たちがどうしなければいけないかは明白です。

 

 今日ここで、改めて確認したいと思います。み言葉すなわち神様から頂く言葉というのは、他の人を裁く前にまず自分に向け、自分を変えるものとしなければなりません。…教会でよく神の祝福がありますように、などと言いますが、これを神様がその人に誰もが羨むような幸せを与えて下さるように思ってしまうのは間違いです。祝福とは本来、み言葉を聞く時、それによって悔い改めの心が生じることでありましょう。心が刺されるような思いをすることなのです。

ダビデは預言者ナタンの言葉を聞いて「わたしは主に罪を犯しました」と言いました。こんな場合、自分は悪いことはしてないと言い張るケースが多いのですが、それをせずに神様の前で罪を認めたことは、ダビデの人間としての復活につながっていきます。

 ペンテコステの日にはペトロが説教して言いました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」するとどうなったか、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいのですか』と言った」と書いてあります(使徒23637)。

人々は、悪いのはあの連中なのだとは言いませんでした。そうではなく大いに心を打たれ、イエス様を十字架につけてしまった自分の罪を認めて「どうしたらよいのですか」と尋ねたのです。その時、ペテロは答えました、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきない」(使徒238)。それゆえ彼らは悔い改めて、イエス・キリストを信じた、そうして救われたのです。まさにパウロが言っている「神の憐みがあなたを悔い改めに導く」ということが起こったのです。

皆さんご存じのように、このことはしかし、簡単に起こることではありません。パウロの言葉を聞いた誇り高いユダヤ人や、異邦人の中にもいたすぐれた人たちが自分自身の意識を変えていくのは大変なことだったでしょうが、しかしそれは私にも、また皆さんにも言えることなのです。神様は今この時も、がんこな私たちを大変な思いで導いておられるはずです。子どもが親の身になって考えるように、私たちも時には、畏れ多いことですが、神様の身になって考えることも必要でしょう。どんなに立派な人であっても、むしろそれゆえに大きな罪を犯してしまうことがあるのです。このことを認識するのは決して自虐ではありません。そこのところから、道が新しく開けて来るのです。

 

(祈り)

 天の父なる神様。ユダヤ人を初めとしてプライドの高い人たちは、自分とは違う人たちこそ悔い改めるべきだとし、自分には何の落ち度もないと思いこむことによって、人を裁いていました。

 今日、イエス・キリストによって世に現わされた神様の絶大な恵みにあずかっている私たち信仰者ですが、どうかそのことで慢心したり、妙なプライドをもって他の人を見下したりすることがありませんように。キリスト教2000年の歴史の中では、キリスト者のそのようなプライドが、発展途上で弱い立場にある諸民族を苦しめ、犠牲を強いたということも起こりました。神様、どうかパウロの言葉が正しく理解され、語られることによって、世界の教会を今、この困難な時代の中にしっかりと立たせて下さい。

 マルティン・ルターが言っていますが、私たちキリスト者の全生涯は悔い改めの連続です。「神の憐みがあなたを悔い改めに導く」ことをどうか私たちに深く思わせ、そして、そこから祝福された人生がもたらされますように。

 

とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。