主のみ名を重んじる

主のみ名を重んじる  出エジプト20:7、マタイ69  2023.2.19

 

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1294、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:19、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:187、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ-163、(長老任職式、信仰告白(日本基督教会信仰の告白)、(献金)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 今日はモーセを通して与えられた十戒の中から、第三の戒めを学びましょう。

十戒は、神から与えられた律法として古代イスラエルの人々の信仰と生活を導く大切な基準でありました。律法主義という言葉があります。律法を過度に重んじる考え方でイエス・キリストはこれと闘われました。聖書には主イエスが「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(エフェソ2:15)という言葉も入っています。しかし、これはイエス様があらゆる戒めを廃棄してしまったということではありません。かりにそんなことをしたら、世界はばらばらで無秩序な状態になってしまうでしょう。そうではなく、律法がイエス様によって新しい解釈と意味づけがなされたと見るべきです。プロテスタント教会はこの立場を受け継いで、律法主義には反対しますが、イエス様が言われた意味において律法を尊重し、なかんずく十戒を高く掲げてきました。

十戒は、第一の戒めによって神が絶対であることを示し、第二の戒めによって、自分で神を造ったり、それを拝んではいけないことを教えています。第三の戒めはこうです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」。

主なる神の名をみだりに唱えるということが、なぜいけないのでしょう。そんなことをしたからといって、今の日本で法律違反に問われることも刑務所に入っておれとなってしまうこともありません。しかもこれは、神様のお名前を意図的に冒涜しているのとは違うのです。神様を信じているからこそ何度もお名前を唱えるということがあるのですが、それがなぜ、いかんと言われるのでしょう。…実はこれは神のみ名が本当にとうとばれることを求める戒めなのです。

 

まず「主の名をみだりに唱えてはならない」というときの、「みだりに」という言葉ですが、これを原語から調べてゆきますと、「いたずらに」とか「空しく」という意味があります。

名は体(たい)を表わすと言われるように、名前とは昔からものごとの本質や存在そのものを表わすしるしでした。人はほとんど、親から与えられたとうとい名前を持っていて、それが尊重されなければならないことは誰でも知っていますから、人の名前を間違いたりしないよう注意するわけです。

もしも、ある人が有名になったとします。例えばその人が芸能人とかスポーツ選手でおおいに活躍したり、優秀な成績をあげたりすればスターになって、やがて誰ひとりその名を知らない者はないくらいになるでしょう。その人はどこへ行っても引っ張りだこで、歓迎され、…その名前が燦然と輝くことになります。……ところがです。そのあと、その名前が急に色あせてしまうということがよくありますね。スキャンダルを起こしてしまうのがその典型です。成功する人のまわりには誘惑が多く、しっとする人も多いですから、かつての偶像が落ちぶれてしまうのを見て拍手する人も出て来ます。得意の絶頂から失意のどん底へ、こうして名前に泥を塗る結果になってしまうのです。有名になるということは、名前がとうとばれているようで、実はそうでないのかもしれません。

もちろん、これはすべての有名人にあてはまることではありません。ただ、人間に対して起こることが神様に対して起こることがあります。神様のお名前は一方でこれ以上ないほど崇められています。しかし一方で、踏みつけにされているのです。神様を信じる者たちの間でも、その名が軽んじられていることがあります。…私たちを振り返っても、ふだんの生活の中で神様のことが口に全然出て来ないのでは困ります。けれどもこれとは逆に、口を開けば神様、神様とばかりなることも慎重に考えたいものです。みんながそうなった場合、神様の名前が安っぽくなってしまうからです。

主イエスの言葉に「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」(マタイ7:21)というのがあります。イエス様、イエス様と言っていても口だけ、言っていることとやっていることがまるで逆という人もいるのです。……欧米はキリスト教世界とされていますが、クリスチャンの比率が圧倒的に多い国で、実は神様の名前が乱用されているということがあるのです。「しまった」とか「こん畜生」とった意味で「オー・マイ・ゴッド(Oh my God!)」ということがあります。何か困ったときに「ジーザス・クライスト、ジーザス・クライスト(Jesus ChristJesus Christ)」と言う人がいます。つまり、神様やイエス様のお名前がまるで呪文のように唱えられることがあるのです。いくらとうといお名前でも、のべつまもなく唱えていると、ありがたさがだんだん薄れてゆくものです。ちょうど仏教で、南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏など、それ自体は深遠な意味をもった言葉が、いつもいつも繰り返してゆくうちに本来の意味がどこにあるのかわからなくなってしまうのとよく似ています。

 

神様のお名前は神様を表わすものですから、人間は当然、これをとうとぶべきです。いや、神様の名前をどんなにとうとんでも足りないのです。

神様の名前は人間がつけたのではありません。そもそも人間に名前をつけられるようなのは、とても神とは言えません。神ご自身がご自分で名前をつけ、人間に示して下さいました。神がモーセに教えて下さったお名前は、出エジプト記314節に書いてあります。モーセが神様にその名を問うと、「わたしはある。わたしはあるという者だ」という答えが示されました。現代の英語の聖書では“I am who I am”となっています。“I am who I am”、この名は、神がたしかに存在される方であることを示しています。もっとも原語のヘブライ語ではもっと深い意味があるとされています。「わたしはある」だけですと動詞は現在形ですが、もともとの言葉では、神様が昔も今も将来も、全宇宙と世界の歴史を導いてご自身を表わされる方であることを示しているはずです。「わたしはある」、ヘブライ語の文字をアルファベットに直すとYHWHの4文字になります。

昔のイスラエルの人々は、神の名をみだりに唱えてはならないと言われているところから、神の名を口にすることをはばかり、おそれおおくてとても口に出せないということが何百年もたつうちに、とうとう何と発音するかもわからなくなってしまったそうです。それではYHWHをどう読むのでしょう、ひと昔前の学者はエホバだと考えましたが、研究の結果、現在ではヤーウェというのが正しい読み方だと考えられております。…ちなみにイスラム教でアッラーというのはアラビア語で神を表す普通名詞です。

昔のイスラエル人が神様の名前を恐れて口にしなかったのは、絶え間なく神様の名前を唱えているより良いことは確かです。それほどに神様をとうとんでいるのですから。しかし、そこに表れているのは神様に対する恐怖です。…神様が十戒を下さったのは、人間を恐怖でもってがんじがらめにしようとするためではありません。これをしてはいけない、あれもしてはいけないと言って、人間を縛ってしまおうというのではありません。神の名を口にすることすらやめるという消極的なことではなく、むしろ反対に神の名が人間によって正しく、その尊厳にふさわしく呼ばれることが求められているのです。つまり、神がそのみ名にふさわしく崇められることこそ、第三の戒めの根本精神であると言わなければなりません。

 

さて今日はここで、神様のみ子、主イエス・キリストとそのお名前についてお話ししたいと思います。キリストとはメシア、救い主ということですから、イエス・キリストとは救い主イエスということです。この方は人となられた神でありますから、その名前はもちろん人間がつけたのではなく、神様から示されました。イエス様がお生まれになるとき、主の天使がヨセフに現れて、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と告げたのです。クリスマスでいつも読むところですね。「イエス」の意味は「主は救いたもう」となります。はたしてその名は、この方を表わすものとなりました。イエス・キリストのご生涯、十字架と復活、そしてその後の世界の歴史は、明らかにその名前が間違っていなかったことを証明するものです。主は救いたもう、…イエスという名前に現れていることが実現したのです。

 

それではイエス様のお名前を正しく唱えるにはどうしたら良いのでしょう。まずは失敗例から見てみましょう。

使徒言行録にはイエス様の力あるみ名の働きがいくつも書いてあります。1911節から見てみましょう。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身につけている手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」。しかし、これを見てまねしてやろうという人が出てきたのです。ユダヤ人の祈祷師たちがそうで、悪霊に取りつかれている人々に向かって主イエスの名を唱えました。スケワという人の7人の息子たちですが、この人たちはイエス様を信じてもいないのに、イエス様の名前を語って、悪霊にとりつかれている人から悪霊を追い出そうとしたのです。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」、そんなことを言うと、悪霊が言い返しました。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」。そして悪霊に取りつかれている男が7人に襲いかかったので、彼らはさんざんな目にあわされて、逃げ出したということです。この結果、17節に書いてありますように、「人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」となったのです。

いささかこっけいなお話です。皆さんおわかりになったことと思います。イエス様のお名前は呪文ではないのです。「この印籠が見えないか」ということでもないのです。この人たちは、信じてもいないくせに、その名を使って奇跡を起こそうとしたことで失敗したのです。

 これに類したことはキリスト教の歴史の中にたくさんあるように思います。

それは大して信仰心のない人がよからぬ目的のためにイエス様の名前を語って自分を正当化することです。むかし中世の教会が、いろいろ議論があることではありますが、イエス様の名前を使って、十字軍という戦争を行ったのはその一つの例です。現代でもイエス様の名前を使って戦争を正当化する人がいないとも限りません。私たちはイエス様の名前に泥を塗るようなことを目にしたとき、真実を見抜く目と誤りを正す勇気を持たなければなりません。

 

私たちはふまじめな心からでなく、心からの思いを持って主イエスのみ名を唱えなければなりません。これにはどうしたらよいでしょう。

主イエスはヨハネ福音書17章、最後の晩餐でのお祈りの中で、父なる神にこう祈っておられます。11節:「わたしは、もはや世にはいません。彼ら(イエス様を信じる人たち)は世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。

父なる神とイエス様が一つであるように、イエス様を信じる人たちも一つにして下さい。そのためにイエスの名によって彼らを守って下さい、……ということが主イエスご自身によってお祈りされています。…そこでもう一つ紹介したいのがマタイ福音書1820節です。ここには主イエスがご自分を信じる者に与えて下さった永遠に変わらない約束の言葉があります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。

主イエスのご臨在が確かなものとなるのは、集まる人の人数ではありません。教会堂が立派かどうかでもありません。ただ、主イエスの名によって集まっているかどうかということです。主イエスは父なる神のみ名を、その全生涯を通して証して下さいました。神がある、ということは主イエスによって証しされたのです。

主イエスはまた、私たちが神の名を正しく唱えることが出来るようにして下さいました。イエス様が来られるまで、父なる神は人間とはまったく隔絶したところにおられて、人間はふるえながらでしかみ名を唱えることが出来なかったのです。けれども主イエスが現れ、神が人間となって、人間のために命をささげて下さって以来、神のみ名は人間にとってぐっと身近なものとなりました。恐怖のためにふるえる必要はなくなりました。私たちのような者もイエス様の名によって守られているのです。だからこそ、これ以上、神の名を間違って唱えることは許されないと知るべきです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」、神の名は今日、その名にふさわしく崇められているでしょうか。願わくはみ名を崇めさせたまえ。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様。あなたが与えて下さる光に導かれて、新しい一週の歩みが始まりました。礼拝によって始まるこの週が、主にあって喜びに満ちたものとなってゆきますように。神様は今日この礼拝によって神様のみ名のとうとさを示して下さいました。私たちは神様、神様と言いながらも、困ったときだけの神頼みのような、たいへん浅い信仰に陥っているかもしれません。どうか。まずこの教会で、神様のお名前が神様にふさわしい形で賛美され続けますように。そして、私たちをどうかイエス様のみ名によって守り続け、クリスチャンの名に恥じない者として下さい。そうしてイエス様から目を背けている世間の中で、神様のメッセージを伝え続け、神様がたしかにおられることを現わして行く者として下さい。

 

 み名を賛美いたします。これらの祈りをとうとき主のみ名によって、み前にお捧げします。アーメン。