狭い門と広い門

狭い門と広い門  申命記301520、マタイ71314  2023.2.12

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1285a、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:312、説教、祈り、讃美歌:298、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 皆さんの誰もがご存じのことですが、人生にはいくつも分かれ道があります。ここぞという決断の時があります。それは今日何をして過ごそうか、どういう仕事を選ぶか、誰とパートナーを組むか、といった個人的なことから、時にはその決断が一国の運命を決めてしまうことまであります。悪いことをしようか、それとも思いとどまるべきか、という決断もあります。どちらにしようか、何を選ぼうか、こういうことは私たちがこの世の旅路を終えるときまでずっと続くのです。

 人生は決断の連続です。人は正しい決断を重ねてゆくことで、あとで後悔しない正しい人生を生きることが出来るのですが、これが難しいのです。誰もが、あの時自分は間違った決断をしてしまったということがあるでしょう。イエス・キリストがおっしゃった狭い門から入るか、広い門から入るかの決断も、そのような視点から見て行くことが出来るのです。

 

 「狭い門から入れ」という言葉は、聖書の中でも有名な言葉です。教会の外でも聞く言葉です。例えば、ある大学の入学試験に定員の30倍の志願者が押し寄せたとき、新聞などで「競争率30倍の狭き門」などと書くことがあります。こういう言い方は日本語として定着してしまったようですが、聖書本来の意味からは離れてしまっています。…聖書で言う狭い門は、それを見いだす者は少ないと書いてあり、たくさんの人がそこを通ろうとすることはありません。競争率は低いのです。

 主イエスは、5章の初めから続けてきた山上の説教をもう少しで終わろうという段階になって、どうして「狭い門から入れ」と言われたのでしょう。…主イエスはそれまで、この説教の中でずいぶん多くのことを教えられました。先週、礼拝で学んだ箇所は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということでした。これは黄金律と呼ばれますが、ただ、これを結論として説教を終えるわけにはいきません。その教えをもってしても人はまだ、主イエスに従って生きていけるとは言えないからです。この教えがさらに深められて、イエス様を信じる人たちの現実とならなければなりません。それは「狭い門から入る」という決断をすることによってです。

 

 イエス・キリストが地上におられた時代、ユダヤの国の町のまわりには外敵を防ぐための城壁がめぐらしてあり、そこには必ず門があって、出はいりするようになっていました。主イエスはそれを例に出して、狭い門と広い門の話をされたのです。

 ヨーロッパの教会の中には、狭い門と広い門を絵に描いて、わかりやすく説明しているところがあるそうです。そのうちの一つでは、広い門から始まる広々とした道と狭い門から始まる細い道を描いています。広い門には「歓迎」という文字が書いてあり、広々とした道にはにぎやかな歓楽街が立ち並び、着飾った大勢の人が楽しそうに歩いてゆきます。…これに対し、小さなみすぼらしい門は見つけるのもたいへんで、そこに入ってゆこうとする人は少ないのです。そこから始まる細い道のかたわらには教会が建っています。そこを歩く人も、どことなく質素な身なりをしています。 

皆さんは、どちらの道を歩いてゆきたいと思うでしょうか。ここで注意しなければならないのは、それぞれの道がどこにつながっているかということです。この絵からそれぞれの道をたどってゆくと、広々とした道は初めの内は快適なのですが、しかし炎の燃えさかる恐ろしい地獄に続いています。そして細い道は、天国へと向かっているのです。

 この絵が伝えようとしたメッセージは明白です。主イエスが教えられたのは、人生には二つの門、二つの道があるということです。狭い門から入る細い道は命に通じ、広い門から入る広々とした道は滅びに通じています。誰もがこの中から、どちらかの道を選ばなければなりません。

 そういう決断が迫られた時、たいていの人は大勢の人たちと同じ道を歩いて行こうとするものです。教会員もそれにひっぱられます。やはり世の中の動きについていかなければ、生きていくのは困難だと思うからです。世の中の多くの人が歩いている道をあえて避けて、少数の人たちだけが歩く道を選ぶのは勇気がいります。「そんな道を選んだら、苦労するばかりだよ」と言われて、それで気持ちがなえてしまう人も多いことでしょう。

 目の前にある二つの道のうち一つは楽な安易な道、もう一つは厳しく、つらい道です。多くの人は楽な安易な道を進んでゆこうとしますが、その行く手に待ちかまえているものを、イエス様はそれは滅びだと言うのです。しかしその道ではなく、なかなか見出すことの出来ない道を見出して、そこを歩いていく人の先には命が待っています。これこそ本当の人生です。狭い門を通って細い道を歩いていく時、それは厳しい人生だったとしても本当の人生で、その先に永遠の命が待っている、ということなのです。

 これは狭い門と広い門についての、これまで広く信じられてきた受け取り方です。そこには、たいへん大きな教育的効果があったと言えましょう。たとえば、若い人にこう教えるのです。「お前は悪い連中と一緒に、いつまで遊びほうけているのか。そんなことでどうするつもりだ」。そして呼びかけます。「信仰から離れてはいけない。教会に行こう。聖書で教えられたことを守って、勤勉で質素で道徳的な暮らしをしよう。この世の楽しみに心を奪われてはならない」と。

 主イエスの教えをこういう風に受け取ることは、間違いとは言えないし、とても有益なことでもあります。実際、広い門から続く広々とした道にひっぱられていく人はまだまだ多いのです。しかし、私はいま日曜学校の説教をしているのではありません。ここでとどまるのではなく、さらに先に進んでゆくことにしましょう。

 

私は、狭い門と広い門について、今申し上げたこのような受けとめ方ではまだまだ不十分だと思っています。それはなぜかと言うと、主イエスがもしもいま申し上げた意味で説教されたのであれば、当時の社会の中で波風を立てることはなく、ひいては十字架につけられることもなかっただろうと思われるからです。

主イエスはこの山上の説教の全体を通して、律法学者やファリサイ派の人々、つまり当時の宗教家を痛烈に批判されました。このところが大きなポイントです。

律法学者やファリサイ派の人々は、当時、たいへん立派で信仰深い人々のように見えたはずです。しかし、彼らの本当の姿は、神様の喜ばれる信仰者ではなかった、そのことはこれまでもたびたびお話ししてきました。

もしも主イエスが「狭い門から入りなさい」と教えられた時に、ただこの世の楽しみに心を奪われず、質素で道徳的な生活だけを教えられたのだとしたら、律法学者やファリサイ派の人々はその基準にすでに合格していました。彼ら自身、自分たちは狭い門を通って、厳しく、つらい道を歩んでいると思っていたではないでしょうか。この人たちはそれこそ厳しい修行を積み、一生懸命勉強し、戒律を一つ残らず守ってゆこうとしていました。それは当時の、普通の一般の人たちにはとてもまね出来ないことでした。そのため、この人たちは当時の社会の中で人の上に立つ者と見なされていましたし、自分でもそう信じて、うぬぼれてもいたでしょう。…そこで私は言いたいのです。この人たちであっても、狭い門と広い門の説教をすることが出来たはずです。「狭い門から入って細い道を歩きなさい。そのお手本になるのは私たちなのです」と言うように。皆さんはこういう考えを認めることが出来ますか。

主イエスはのちにファリサイ派の人々にこう言っています。「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ941。口語訳)。「自分たちには狭い門、細い道が見える、そこを歩いていると思っている。でもあなたがたは、むしろそのことによって罪を犯している」と言われたのです。…これまでのことをまとめると、楽な、安易な道を歩んで悪の道に引きずりこまれる人ばかりでなく、自分は厳しい、つらい道を歩んでいると思っている人でも、やはり滅びに至る広い道を歩んでいるということがあるということ

です。

「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とのみ言葉を真剣に受けとめなければならないのは、まず流されるまま生きることの多い人たちです。みんながやっているから自分も、ということを繰り返していると、みんなが悪いことをしたときに同じことをしてしまうでしょう。…しかしながら注意したいのは、悪いことは少しもしていない、常に高い目標をめざして刻苦奮闘しているという人であっても、いつのまにか滅びに通じる道を歩いているということがあるということです。

マルティン・ルターは、狭い門を通って救いに通じる道を見出すために、修道院に入りました。しかし、修道院でいくら厳しい修行を積んでも、そこにまでサタンは容赦なく侵入し、たとえ修道僧であっても世俗の人と変わらない罪深い生活に陥ることを知って、悩みぬきました。厳しい修行に耐えても、滅びに通じる道を抜け出すことは出来なかったのです。…しかし、彼はその場所からついに命に通じる道に方向転換することが出来ました。そのことが、彼の始めた宗教改革につながっていきます。この方向転換のきっかけになったのは、ひとことで言うと神の愛に目覚めたことではないかと思います。

滅びに至る道と命に至る道を区別するのはふまじめかそれともまじめかといったことではありません。安易な道かそれともつらい、苦しい道であるかということも決定的な決め手にはなりません。…この二つの道の分岐点は、…そこに愛があるかどうかによるのです。…その愛とは、神の愛から来て、神の愛に応える私たちの愛です。使徒パウロの言葉を真似するなら、たとえ、どんなにたくさんの知識を蓄えても、戒律を守り通しても、全財産を貧しい人たちのために施しても、また教会の発展のために持てる力をすべて捧げたとしても、もしも愛がなければ無に等しいということなのです。

イザヤ書3020節の3行目からの言葉を聞きましょう。「あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け』と」。このような神のみ声は、私たちには、たえざる祈りの生活の中で示されます。私たちはみな祈りにおいて神様と対話しながら、進むべき道を求めてゆかなくてはなりません。

私たちは、自分には命に通じる道が見えるなどとうぬぼれてはなりません。その道は見えたと思ったとたんに消えてしまうかもしれません。しかしながら、この道に至るおおよその道すじは与えられているのです。それが、狭い門と細い道のことを教えられたばかりでなく、狭い門と細い道そのものであられるイエス・キリストその方なのです。イエス様は「わたしは門である」(ヨハネ109)、また「わたしは道である」(ヨハネ146)と宣言されました。誰もがイエス・キリストを通って、天にいます父なる神のみもとにゆくべきです。命に通じる道は、私たちのために十字架を引き受けられたイエス・キリストその方なのです。

皆さんも命に通じる門と細い道を見出そうとしたからこそ、こうして教会の礼拝に出席しておられるわけです。…ただ信仰者の中には、その道を歩いてゆく時、常に厳しい、つらい試練が待ちかまえていることを思って、戦々恐々になっておられる方がいるかもしれません。しかし主イエスは何と言われたか、マタイ1130節に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と。くびきと言うのは牛馬の首に当てる横木です。主イエスから与えられた荷物は軽い、なぜなら主イエスが共にいて、働いておられるから。……狭い門は探しづらいのですが、その中に入ると案外楽なものです。自分一人で荷物を担いでいったら重くてかないませんが、主イエスが共におられ、重い荷物を一緒にかついで労して下さるから軽くなるのです。そこには、苦しみを喜びへと変える信仰があります。私たちの長束教会が、狭い門から続く命に通じる道を歩み続ける決心を新たにいたし、さらに多くの人をここに招いてゆくことが出来るようになることを、あきらめずに追い求めて行きましょう。

 

(祈り)

 

主イエス・キリストの父なる神様。狭い門から常にみことばを聞かせて下さい。そして私たちの誰もがその門を見つけて、細い道を歩いていくことが出来ますように。いま、この世の大きな力が社会を一つの方向に引っ張っていっているように見えるのですが、もしもそれが滅びに至る道であったら、どうかその正体を見破る智慧を与えて下さい。神様、私たちが主の道を見出せないでいる時、くりかえし、新しく、道を示して下さい。人生において正しい、悔い泣き決断をしていくことが出来ますように。とうとき主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。