黄金のように尊い教え

黄金のように尊い教え  箴言32729、マタイ712  2023.2.5

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1282、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:55、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:228、説教、祈り、讃美歌:448、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)(聖餐式、讃美歌207)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 マタイ福音書7章12節の「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」、これはとても有名な言葉で、欧米のキリスト教世界では黄金律と呼ばれてきたのだそうです。律は法律の律です。黄金律を英語で言うとゴールデン・ルールとなります。黄金のように尊い教えだと考えられてきたからでしょう。これを「永久不変の道徳原則」と書いてある辞書もありました。

……たしかに、これは永久不変の道徳原則と言われるだけあって、立派な言葉であることは間違いありません。しかし、もちろん、これがどんなに立派な言葉であっても、ああこんな言葉があったなと思っているだけでは何にもなりません。この言葉を実践していって初めて、これが生きていることになるのです。ただ、それはたいへん難しいことでもあるでしょう。早い話、私がこれを語る資格があるのかどうかも心もとないのですが、まずはイエス・キリストが言われた意味を探るところから、始めたいと思います。

 

 主イエスの「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という言葉は、なぜ黄金律と言われるほど、尊ばれているのでしょう。

この言葉を聞いて、イエス様でなくても言える言葉ではないか、なんて思った人がいませんか。…実際、これによく似た言葉を教えた人は、イエス様の他にも昔からいたのです。そのうちの一人が古代中国の偉大な思想家・孔子で、論語の中で「おのれの欲せざるところは、これを人にほどこすなかれ」という言葉を残しています。自分がしてほしくないことを、人にしてはならないという意味です。…同様の言葉は旧約聖書の外典やユダヤ教の指導者、ギリシアの哲学者の言葉にもあります。仏教の経典の中にも「人に迷惑をかけないように」というのがあって、似ていると言えなくもありません。

まあ考えてみますと、何もイエス様や孔子様やお釈迦様を引き合いに出さなくても、誰もが知っている言葉ではないでしょうか。たとえば、子どもを叱る時に「自分がそんなことをされたらどう思う。人の身になって考えなさい」と言うことがあると思うのです。自分がしてほしくないことは、人にするものではないということは、誰もが知っていることです。

 ただ、ここで注意しなくてはいけないことがあります。孔子にしても釈迦にしても、私たちが大事にしている社会常識にしても、そこで言われているのは、つまるところ他人に迷惑をかけるなということです。…他人に迷惑をかけさえしなければそれで良いのです。……しかしイエス様の言われることは、それらと形は似ていますが、実際の内容は違っています。…自分がしてほしくないことを他の人にするなということではなく、自分がこうしてほしいと思うことを、自分の方から人のためにしなさいというのです。とても積極的な生き方の勧めです。人に迷惑をかけることをしないということにとどまるのではなく、進んで良いことをしなさいということなのです。

 主イエスが教えて下さったこの生き方は、誰も考えつかないようなことではないかもしれませんが、しかし、これが言うは易く行うに難きことは言うまでもありません。

 

 「人にしてもらいたいことは何でも人にしなさい」ということを人が本当に実行しようとするとどうなるでしょう。ここで誰もが思いつきそうなことは、これを文字通り実行したらとんでもないことになりそうだ、ということです。

 もしも、この教えをそのまま実行する人がいるとしたら、その人はまわりの人からお人好しだと見られる可能性が十分にあります。それでも本人が幸せなら良いのかもしれませんが、問題は人の好さがあだとなって、人に騙されやすくなることです。

 人に親切にすることが、いわば「余計なお世話」になってしまうこともあります。人のためにと思ってしたことが、悪い結果を産むということだってあるのです。…そういうことがあるためか、最近は他の人に干渉せず、他の人も自分に干渉してほしくない、という人が多くなっているような気がします。ただその場合、お互いに迷惑をかけあうことはないとしても、みんなが砂粒のように孤独でばらばらになってしまいます。それでいいんですか、と私は言いたいです。

 また、人の喜ぶことをしたのに相手は感謝するどころか、さらに要求をエスカレートしてくるということがあります。世の中には、「人にしてもらいたいことをするのがクリスチャンじゃないか。だったら、俺を助けて犠牲になるべきだ」と要求してくる人がいないとも限りません。

このように、人生のいろいろな局面において、人にしてもらいたいことを人にする時、しっかり考えておかないと良くない結果を産んでしまうことがあるのです。

しかし、主イエスの口から出された神聖な言葉を初めから、こんなことは実行不可能だからと決めつけ、水で薄めてしまうのも神様の喜ばれる態度とは申せません。信仰生活には、神様の言葉を聞いてそれを実行出来ない自分に悩みながらも、祈りつつ、少しずつでもそれに近づいていこうとすることが必要です。   

イエス様のこの教えを、たとえ人生でどんな不利益を蒙ってもそのまま実行するべきなのか、それとも、初めから実行不可能と見なしてしまうのか、二つの道の間でゆれ動く私たちですが、ここで別な角度から見ることにしましょう。

 

私たちの生活の中で、人に何かしてほしいと思うのはどういう時が多いでしょう。それはつらい時や悲しい時、苦しみが続いている時でしょう。そういう時こそ、誰かに助けてもらえるとありがたいのだがなあという気持ちが起きてくるものです。なかなか思い通りにはゆきません。……けれどもそんな時、思いがけなくも助けてくれる人が来たとします。その人は自分の悩みをすべて知っているかのように、最も必要なところに手を差し伸べ、献身的につくしてくれます。そんなことがあったら、本当にありがたいです。

ただ、こういうことがひんぱんに続くとしたら、それは必ずしも良いことだとは言えません。今度は、人が自分を助けてくれることを期待するようになるからです。人がいつも自分を助けてくれることばかり要求する人がいるのです。私たちはどうでしょうか。主イエスはそうなりがちな人に向かって、「あなたは自分の要求を貫くことだけにこだわっていて良いのか、相手もそうやってほしいと思っていることを思いやれないのか」と問いかけておられるのです。

あの人にこうしてほしい、しかしあの人は私の願いに少しも答えてくれない、思いやりがない、そう言って嘆くことがないでしょうか。主イエスはしかしそこで、思いやりというのは自分から相手に要求して、それがないからと嘆いたり相手を非難するようなものではなくて、自分から相手を思いやってゆくことではないかと言われるのです。

主イエスは「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」と教えて下さいました。もしも私たちが自分の人生を振り返って、これまでずいぶんつらい目にあったなあと思うようならば、その人は祝福されています。この牧師、何を言うのかと思われるかもしれませんが、それは悲しいこと、つらいことにあうことが多かった人ほど、人の情けの素晴らしさをよく知っているからです。自分がしてほしいと思うことがわかっているから、今度は自分がそのことを人にしてあげることが出来るのです。…自分が受けたつらい仕打ちを、今度は別の人に体験させようという人がいますが、これは駄目です。…主イエスは悲しみに打ち勝つ道を教えておられるのです。

世界ではこれまで多くの愛の事業が営まれてきましたが、それらの事業の発端は、実にしばしば、悲しみから始まっていて、その例は枚挙にいとまがありません。何一つ不自由のない生活をしていた人が不幸な人に目を留め、愛のわざを始まるということもあります。しかし、つらい、不幸な目にあった人が、人にしてもらったこと、してもらいたかったことを今度は人にしてゆくようになることも多いのです。

こういうことをよく考えてみるとき、主イエスがなぜ、人にしてもらいたいことは何でも人にしなさいと語られたかということの核心に、近づくことが出来るでしょう。主イエスが、このすぐ前に言われた言葉は、「求めなさい。そうすれば、与えられる」でした。これは祈りの勧めです。主イエスは失望しないで、祈り続けることを教えて下さいました。自分が神様の前にどんなに欠点の多い、罪深い者であるかをよく知っている者こそ、他の人々のためにも心を配ることで神のみこころに従った人間になろうとするのです。だから自分のことばかり祈るのではなく、他の人のためにも祈りましょう。その人にとって、祈ってもらうことが何より必要だからです。主イエスはここで、ただ愛のわざを行えば良いと言うような実践的な指針ばかりでなく、信仰に根差した愛の心と愛の言葉を、祈ることを通して他の人に注ぐことをも命じておられるのです。                          

 

さて、主イエスは7章12節の最後で「これこそ律法と預言者である」と言われました。これはいったい何でしょうか。

律法というのは旧訳聖書の最初の5巻に集中して出ております。ここでは旧約聖書の初めの5巻をさして律法と言っているのです。旧約聖書の残りの書物を普通は預言者と諸書(もろもろの書)と言うのですが、ここではその2つを一緒にして「預言者」と呼んでいます。だから「律法と預言者」とは旧訳聖書全体を指しています。当時、新約聖書はなかったので、主イエスは聖書全体が、人にしてもらいたいことは何でも人にしなさいという言葉に要約出来ると言われたのです。

主イエスがなぜ、こんな断り書きをつけ加えたのかと言うと、5章17節以下の主イエスの説教を見ればわかります。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われてから、主は当時の人々が抱いていた聖書理解に対する新しい聖書理解を「昔の人は……と命じられている。しかし、わたしは言っておく」とおっしゃって、一つ一つ正してゆかれましたが、ここもその流れの中にあります。当時の人々の、律法の条文を守ってさえいればいいという、いわば消極的な信仰に対し、人にしてもらいたいことを人にすることこそ聖書の中心であると積極的な信仰を言っておられるのです。

主イエスはこのあと2236節から40節の間で、「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられたとき、二つの掟を示されました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、と「隣人を自分のように愛しなさい」です。そして「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と教えられました。これは、今日の7章12節の教えにつながっています。7章12節では神への愛についての言及はありませんが、もちろんそれはいらないということではなく、神への愛が、神が愛される隣人への愛に及ぶ時、当然、人にしてもらいたいことを人にするということになっていくのです。

私たちは、聖書の中でたくさんの戒めや律法を見かけます。しかし、ともすると、これらを守らなければならない理由や動機について考えることなく、ただ聖書で言われていることだから守らなければならないと考えることがあります。それが律法主義と言われていることの根っこにあります。自分は掟を守っているから絶対正しい、しかしあの人は、ということで一方的に人を批判してゆけば人間関係も信仰生活も損なわれてしまいます。

人にしてもらいたいことを人にしなさいと説かれた主イエスは不正に対して黙っている方ではありません。その人を注意したら傷つくからと、何も言わないようなことはありませんでした。しかし主イエスはこの教えの中で、他の人の間違いを正すことにおいても、自分の行いが隣り人への愛に促されて行うのでなければならないとおっしゃっておられます。すべてが正しい愛の動機から行われなければなりません。

人にしてもらいたいことを人にすることが余計なお節介になってしまうこともあるのですが、そのような失敗を一つひとつ克服しながら、神様の前で隣人と良い関係を築くことが出来ますように。黄金律が教会の中でとうとばれ、実践されたら、それはやがて教会の外にも波及し、社会を動かすことにもなるのです。

 

(祈り)

 

主イエス・キリストの父なる神様。私たちの日ごとの肉のかてと心のかてを、あなたが下さっておられることを感謝いたします。今日はたいへんな言葉を与えられました。あなたのみ言葉を行うことの重さに、ときに耐えることが出来ず、み前で立ちつくしてしまう私たちですが、どうかこの弱さをかえりみて下さい。私たちの中に疲れきった信仰があれば、これを強め、いのちあふれるものとして下さい。こうして、長束教会に集まる者を、黄金のように尊い教えに生きる者として下さいますように。主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。