復活を求める祈り

復活を求める祈り イザヤ26119、ローマ83539 2023.1.29

   

 今日与えられたイザヤ書26章は、25章に続いているところです。前回学んだ25章の6節に「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」と書いてありました。それは、この世の終わりに起こることを予告しているのです。この世の終わりというと雲をつかむような話に思えてしまうかもしれませんが、聞いて下さい。生きているうちにその時に立ちあう人もいるでしょうが、大部分の人はその時すでに死んで眠ったままになっています。でも復活するのです。神は、ご自分への信仰を貫いて生きた人たちを集めて祝宴を開き、その労をねぎらうことを約束されました。長束教会で行っている聖餐式の式辞の中に「これは、…終りの日にあずかる主の祝宴をあらかじめ告げるものであります」との言葉がありますが、そこで語られている「終りの日にあずかる主の祝宴」こそイザヤ書が告げていることなのです。神はこの喜びの祝宴を通して、出席者にこの上ない恵みを与えて下さいます。そこにはいくつものことがあるのですが、特に重要なことが25章7節に書いてあります、「死を永久に滅ぼしてくださる」、にわかには信じられないことですが。

私は旧約聖書を調べてみましたが、イザヤがこのみ言葉を告げるまで、死に対する勝利をこれほどはっきりと告げた言葉というのは見当たらないようで、これを聞いた人たちはたいそう驚いたことと思います。それまで死というと、誰もがいつかは経験しなければならないこととはいえ、二度と戻っては来られない旅でそこに何が待っているかわかりません。神様から耐えられないほどの苦しみを与えられたヨブは、死後の世界には、神に逆らう者もそうでない者も、奴隷も主人も、疲れた者も葬り去られた流産の子も一緒にいて、休んでいるところのように思っていました(ヨブ31619)。天国とか地獄について教えらえることもなかったようで、誰もが死をよくわからないまま怖れていたようですが、その人たちにとって「死を永久に滅ぼしてくださる」という言葉は驚くべきものだったはずです。

その後、新約聖書の時代に入ると、イエス様が天国と地獄と最後の審判について語られ、パウロもしっかり説明しましたから、それ以後の人たちは、私たちも含めて、旧約聖書の時代の人々より多くの知識を持っているはずです。しかし知識があることが、そのまま信仰につながっているわけではありません。

 

それがいつのことになるかわかりませんし、私たちが生きている間に起こるのかそれとも死んだあとに起こるのかもわかりませんが、聖書は、神が直接統治なさる全く新しい世界が出現することを教えています。その世界は、かつてアダムとエバが罪を犯してしまったために失われてしまったエデンの園の再現と言って良いでしょう。そこにはもはや戦争はなく、人と人がいがみあうこともありません、それまで地上の生涯で流した涙はぬぐわれ、喜びと感謝にあふれた世界です。人間が考えたどんなユートピアでもありえない、死という最大の敵が克服された世界なのですから、その世界を思って、そこに憧れる人がいるでしょう。

 しかし、その世界が素晴らしければ素晴らしいだけ、今の現実がみじめに見えてしまうということが起こります。全員が全員すべてというわけではありませんが、私を含め多くの人が生きているのは喜びや感謝にあふれているところではありません。誰もがそれぞれの生きる場で、いやなこと、みにくいこと、心が折れる体験もしなければなりませんから、そのために聖書が語る終りの日の素晴らしい情景があまりに空想的なことに見えてしまうということが起こらないでしょうか。

 その点では預言者イザヤを通して神の言葉を聞いた人々も同じです。というか、彼らは私たちよりさらに切羽詰まった状況の中で生きていたからです。みんな夢ばかり見ているわけにはいきません。実際に彼らが直面していたのは、自分たちの国が超大国によって滅ぼされるかもしれないという、まことに重大な事態です。このまま進行していったなら、自分や家族も戦死したり、敵軍によって殺されたり、奴隷にされたりするかもしれないのです。そんな厳しい現実の中で生きる人々にとって、歴史を支配する神から与えられた言葉にどういう意味があったのでしょうか。

 

 イザヤ書26章1節、「その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。」その日とは、イザヤ書のキーワードの内の一つで、世の終わりの時を指しています。「我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた」と書いてありますが、これはこの時代なればこその表現でしょう。当時の中近東において外敵を防ぐための城壁はきわめて重要でした。城壁があるところは町、ないところは村と呼ばれていました。だからここでは、世の終わりによみがえった私たちは外敵から安全に守られた平和な都に住んでいる、ということを言っているのです。

 そこに入ることが出来るのは神に従う正しい人に違いありません。7節から11節までの間で、イザヤはまず「神に従う者の行く道は平です」と告げます。人生の道はでこぼこしているかもしれません、曲がりくねっているかもしれません。しかし神はこれをまっすぐにされます。そのことは、正しい人が進む道に何の障害も困難もないということではありません。そうではなく、そうした障害や困難があっても、神がその道をまっすぐにして下さるので、つまずいたり倒れたりすることがないということです。

 星野富弘さんの詩の中に「鈴の鳴る道」という作品があります。星野さんは車椅子ででこぼこ道を通るのが大変でうんざりしていましたが、ある時、車椅子に鈴をぶらさげたら、でこぼこ道で揺れるたびにチリン、チリンと鳴って、それが心を和ませました。そうしたら、それまで嫌気がさしていたでこぼこ道が楽しくなったのだと言います。「神に従う者の行く道は平です」というのは、そのようなことではないでしょうか。

 初めからきれいに整えられた道というのは案外危ないかもしれません。多くの人がその道を通ってゆきます。しかしその道は、ある地点からなくなってしまうかもしれません。その反対に、いっけんでこぼこしているかのように見える道でも、神が導いて下さる限り、途中で歩けなくなることはなく、それは希望へと続いているのです。

ところで「神に従う者」とはどういう人のことを言うのでしょう。8節と9節は次のように書いています。「主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることはわたしたちの魂の願いです。」

神に従う者ということで、何一つ悪いことをしたことのない正しい人のように思う人がいるかもしれませんが、聖書が言っているのはそういう人のことではありません。それはイエス・キリストを呼び求め、信じて救われる人のことです。なぜなら、義人はいない。ひとりもいないからです。ロマ書3章23節は告げています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

イザヤ書に戻って、9節は「わたしの魂は夜あなたを捜し」とあります。昔の夜は今よりずっと暗く、闇に包まれた時でありました。そんな時間でも神を捜しというのは、どれほど真剣に神を慕い求めていたかということでなくてなんでありましょう。

しかし、神に逆らう者はそうではありません。そこには「憐れみを受けても正しさをまなぶことがありません」とあります。彼らは罪を犯すから神に逆らう者と言われているのではありません。神の憐みを受けても、正しさを示されても義を学ばないから、神に逆らう者、そのような人には神の怒りが注がれるのです。

 

先に申し上げた通り、世の終わりに神が祝宴を開き、全く新しい世界が現れます。その日に神に従う人は、城壁にたとえられる神の守りの中にいます。しかし、その日がいつ訪れるかはわからず、人はまことに厳しい現実の中を生きて行かなければなりません。

12節はイザヤが神に従う人を代表して祈った言葉でしょう。「主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです。」そこには、平和を妨げるいっさいの力から私たちを守って下さい、という願いがあります。13節に書いてある通り、「あなた以外の支配者が私たちを支配しています」という現実がありました。「しかしわたしたちはあなたの御名だけを唱えます。」このことは言うことは簡単ですが、しかしこれを貫き通すのは容易ではありません。私たちもまことの神以外を拝むよう求める誘惑に囲まれている中、「あなたの御名だけを唱えます」と告白し、それを自分の生き方を通して世に示してゆきたいものです。

 それでは14節の「死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはありません」とはどういうことでしょうか。いろいろな解釈があるところですが、おそらく、13節で言及された「あなた以外の支配者」、まことの神以外のこの世で力をふるっている者たちが、神に滅ぼされて全く再起不能にされるということでしょう。だから、これに続けて「それゆえ、あなたは逆らう者たちを罰し、滅ぼし…」とか「主よ、あなたはその民を増やされました」と書かれているのです。この預言が与えられた時、そうした大きな変化はまだ起こっていませんし、その気配もなかったと思いますが、神こそが歴史を支配しておられますから、これを信じる人に力を与えることが出来たのです。…このことはのちの時代に生きる私たちも同じで、めまぐるしく移り変わる世界の中にあっても、そこに神のみこころこそ貫徹されるということが慰めとなり力となりますように、と願います。

 もっとも、誰もがすぐにこのような境地に達することは出来ません。繰り返しお話ししている通り、イザヤが語ったのは神の民にとって苦難の時代のただ中でした。16節、「主よ、苦難に襲われると人々はあなたを求めます」。その苦難について、そのあと「あなたの懲らしめが彼らに臨むと」と書いてありますから、苦難はなんと神から与えられていたのです。

 神様は愛する民に苦しみを与えました。それは、この時代の歴史を知っている人ならおわかりのように、人々がその不信仰に対して神のお怒りを受けたためでした。この時、人々はまっすぐ神様のもとに来るべきでした。しかし、「あなたの苦しみが彼らに臨むと、彼らはまじないを唱えます」、この人たちの神への信仰とはその程度に過ぎなかったのです。そのため、神様の怒りが解けることはありませんでした。「わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした」とあります。「風を産む」と書いてあります。ここで風というのは空しいとか何もないことを表しています。つまりたいへん苦しんだのに、何も生み出すことができなかった、結果を出せなかった、ということなのです。そこにはもはや何の希望もないように見えてきます。

けれども、そのあと19節を見て下さい。「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。」

「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように」と「塵の中に住まう者よ、目を覚ませ」というのは、イザヤの切なる祈りでしょう。神に背いて苦難にあえぐイスラエルの民はもはや立ち上がることは出来ません、死んでしまったのです。しかし神は死にまさるお方、死を永久に滅ぼして下さることの出来るお方です。イザヤは全能の神を信じ、神に全幅の信頼を置いているので、神がイスラエルの上に下さる恵みを露に例えました、それは光の露、命をもたらす露で、死者を生き返らせることの出来る露であることを確信し、神がこれを下さるがゆえに、人々は再び神のみ前で生きることが出来る、と宣言しているのです。

 

イザヤの言葉を直接聞いた人たちの多くがここから慰めと励ましを得ただとうことは間違いありません。この時、人々の前にあった現実は、「終わりの日にあずかる主の祝宴」とは似ても似つかない悲惨なものでした。人々は一度は主なる神を求めましたが、まじないに走ったりと信仰が不徹底で、そのためよけい苦しみを増し加えることになっていたのです。しかし神が光の露を死霊の地に降らせる時、人々はよみがえります。死者を復活させる力を持って、神が人々を、苦しみばかり多い時代の中で破局から救い、支えてくれる、人々はそのことを信じて力強く生きることが出来たのだと思います。

ひるがえって私たちはと見れば、そこにあるのも、程度は違いますが不信仰ばかり目につく現実ではないでしょうか。主なる神が主催して下さる喜びの祝宴など、いつ実際に体験することができるのか見当もつきません。しかし、いつかその日が来ることを楽しみにしつつ、今のこの時を、この厳しい現実の中で、希望をもって生きて行こうではありませんか。滅びと死しか見えないような世界であっても、神はそこに光の露を降らせて下さるのですから。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様。今日、神様は私たちに、人間のどうしようもない不信仰と、これに打ち勝って貫徹される神様の偉大なみこころを示して下さいました。私たちは時おり、聖書が語っていることが空想的に思えてしまうことがあります。私たちのふだんの日常生活とはあまりにかけ離れているように見えるからです。しかし、神様が聖書を通して語っていることを知らなければ私たちに祝福された人生はないこと、そこに現れた真理が私たちの平凡な日常生活に切り込んでくることを今日改めて知ることとなりました。

 神様、終わりの日が私たちの生きている間に起こるかどうかもわかりませんが、どうかここにいる者たちすべてが、終わりの日の神様の全世界に対する勝利を楽しみにしながら、今のこの時、みこころに従った歩みが出来ますように。礼拝を重んじ、信仰生活に励むことで、命に通じる道を見出すことが出来るようにして下さい。

今日、このあと行われる定期総会の上に、どうか確かなお導きをお願いいたします。

 

この願いと祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によってお捧げします。アーメン。