弁明できない人間の罪

弁明できない人間の罪  エレミヤ21113、ロマ12432   2023.1.22

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1273、讃詠:545a、交読文:詩編85914、讃美歌:68、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:245、説教、祈り、讃美歌:249、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

 ロマ書の説教は昨年11月以来となるので、まず前回お話ししたことを思い出すことから始めましょう。1章18節、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」、これが大切な言葉で、そのあとの文章に対していわばタイトルになっています。神はお怒りになっているのです、人間のあらゆる不信心と不義に対して。

この世界のすべては神が創造されたのです。地球という星も、そこで活動しているすべての命も、私たちも。誰も何もしていないのにこれらが自然に出来上がってくることはありません。神が造り主、それ以外は被造物、だから人間が拝むべきなのは、造り主であるまことの神様にほかなりません。それ以外のものを拝むのはありえないことなのですが、25節をご覧下さい。人間は「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。」これが偶像礼拝です。

 皆さんは、誰かが粘土をこねて動物か何かの像を造り、それを拝んでいたらばかばかしく思うでしょう。「これは神様だから、一緒に拝みましょう」と言われても、その誘いに乗ることはないでしょう。でも、これに類したことは古今東西たくさんあるのです。粘土の像では引っかからなくても、金属製の巨大な像だったら、また生身の人間だったら……。こうした偶像を拝みたくなる誘惑をはねのけなくてはなりません。…また、単に目に見えるものだけが問題ではないのです。お金、権力、名声、何でも良いのですが、まことの神様以外のものに魂を預けてしまうことも、広い意味の偶像礼拝にほかなりません。

 天地のすべてを造られた造り主である神と、被造物である人間の間には越えることのできない隔たりがあって、このことを認めるなら、人はまことの神をおそれをもって礼拝するので、偶像礼拝に陥るはずはないのですが。しかしこれが大変なのです。

 

 出エジプト記の中に、イスラエル民族が行った偶像礼拝についての有名な話があります。それはシナイ山のふもとで起こりました。指導者のモーセが山に行ったままなかなか下りて来ないので、しびれを切らした人々が、モーセの兄アロンに「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください」と頼みます。そこでアロンは金の子牛の像を造り、その前に祭壇を築き、「主の祭り」と称するものを行いました。出エジプト記32章6節には「彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた」と、まことの神に対するのと同じような礼拝をしたのですが、その結果はどうなったか、「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」と書いてあります(出32:6)。乱痴気騒ぎという表現ではとても足りない、乱れに乱れた状況、気が狂ったような騒ぎが繰り広げられたのです。

そこで起こったことは、まさにロマ書に書いてあることでもあります。ロマ書では、神は不信心と不義に対して、すなわち偶像を礼拝する罪に対し、天から怒りを現されると言うのですが、それがどのように起こったか、24節を見て下さい。「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」。…26節の「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました」も同じことです。そうして27節の最後、「その迷った行いの当然の報いを身に受けています」ということになるのです。

神様にとって、おかしなことが始まった時、すぐにストップさせるという方法もあるのですが、ここではそうなさりません。人が神を見捨てた結果、人は神によって見捨てられたのです。だから人間が欲望のままに生きるに任せるのは、神のお怒りの現れです。罪の中に引き渡し、罪の結果をとことん体験させようとさせたのです。

 ただ皆さんは、このあたりを読んだ時、どう考えたら良いのか、判断の難しい問題があることに気がつかれたでしょう。パウロは26節で、「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました」に続けて、「女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との 自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い…」と語ります。これは明らかに同性愛のことを指しています。

 いま世界では、同性愛を認めるか認めないかで多くの教会が分裂に至っています。日本ではまだ表面化していないかもしれませんが。私がもしもアメリカの教会で礼拝説教をして「神は同性愛を許さない」と発言したら、同性愛を認める人から「井上は同性愛者を差別している」と非難されるでしょう。逆に「神は同性愛を認めている」と発言したら、今度は同性愛に反対する人から「井上は神に背いている」と非難されるでしょう。牧師がどちらの立場を取ったとしても、反対派から批判されて、教会員が大量に他の教会に移ってしまうとか、牧師が教会から追放されてしまう可能性があるのです。

 この問題はたいへんに複雑でいろいろなことを考えなくてはなりませんが、まず、パウロが言っているように、まことの神から離れ、情欲のままに生きる人が行き着くところまで行ってしまうということがあるのです。たとえばローマ皇帝ヘリオガバルスという人は、男として生まれましたが自分を女だと宣言、しかも娼婦に扮して多数の男性と関係を持ったといいます。…またフランスではサディズムの語源となったマルキ・ド・サドという人が小説を書いて神への反逆を呼びかけました。その内容は、同性愛はもちろん快楽殺人まで勧めるもので、ありとあらゆるタブーを破ってしまおうとする、とんでもないものです。…そういったことがありますから、これまで普通とはみなされなかった人間の性生活のあり方をすべて認めてしまおうとするのはたいへん危険なのです。

 一方、同性愛を異常とし、男女間の愛だけを正常とする見方も変更を迫られています。同性愛者であれ異性愛者であれ、愛の対象に対して誠実な人も、その反対の人もいるのです。…現代は、パウロの時代にはわからなかったことがわかるようになってきました。同性愛者を含む性的マイノリティーは一定の割合でいます。それも、多くは生まれつきなのです。先天的にそういう傾向があったからといって、それを罪に定めることが出来るでしょうか。

 近年、LGBTQの問題が広く取り上げられるようになってから、聖書の読み方も変化してきました。皆さんは旧約聖書のサムエル記にダビデとヨナタンについて書いてあるのを読んだことがあるでしょうか。ダビデはヨナタンについて「女の愛にまさる驚くべきあなたの愛」と歌っています(サムエル記下1:20)。ダビデとヨナタンのことは古来、友情の模範として尊ばれてきたのですが、最近、この二人は同性愛の関係だったのではないかと言う人が出て来ました。二人とも深い信仰を持った人です。では、これを神の前での男性同士の愛ということが出来るかどうか、皆さんも聖書を読んで判断して頂きたいと思います。

 広島長束教会の小会では、礼拝に明らかに性的マイノリティーだとわかる人が来た場合、他の人々と同様あたたかく迎え入れることを決議しています。出席者の名前を男女別に書くところは、本人の自由に任せます。ただ同性愛者同士の結婚式をあげてほしいという依頼が来た場合、今の段階ではそれを認めることが出来ません。ただ永久にということではありません。まず神様がそうした結婚を祝福されるのか、されないのかということが神学的にはっきりされなくてはなりません。そのための聖書のさらなる学びが求められています。

 パウロは偶像礼拝がどういう結果を引き起こしてしまうかということについて、一つの例として、情欲に身を任せてしまうことを述べたのです。その内容についてはいま申した通りたいへん複雑ですから、ここだけを取り上げて、同性愛をいいとか悪いとか決めつけることは出来ないでしょう。むしろ聖書全体に注意を払いながら、イエス・キリストなら情欲のためにどん底でもがいている人々や性的マイノリティーの人々に何を語りかけただろう、ということを考えなければいけないという時に来ています。

 

 偶像を礼拝する人間が陥った先は情欲に身を任せてしまうことだけではありません。その他のことが29節以下にあげられたリストです。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です」と。

 ここに並んでいるのは、ほとんどが人間と人間の間に起こる罪です。一つだけ「神を憎み」というのがありますが、それ以外のほとんどが隣人に対する罪だと言えます。まことの神を神とせず、「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた」結果、人は隣人とのあるべき関係を破壊してしまうのです。

 ここにある項目を一つひとつ取り上げるのは無理なので、まとめて考えますが、これらを一挙に良い方向に持って行く方策があるでしょうか。…ある人は「食べものがなかったり貧しかったりすると心がすさんでしまう。みんなが経済的に豊かになって満足すれば、人間の心も良い方向に向かう」と考えるかもしれません。なるほど国の中から貧しい人をなくし、誰もが経済的に豊かな生活をするよう努力するのはたいへん尊いことです。しかし、それで人間が質的にも良くなるというのはあまりにも人間を買いかぶった考え方です。みんなが経済的に豊かになったとしても、それで人間の質が良くなるとはとても考えられません。

 やはりパウロが言っている通り、人は天地の創造者である神の前で、自分が造られた者、被造物であることを悟って、神を神としてあがめることから始めなくてはなりません。偽りの神ではなく、まことの神を礼拝するということ以外に出口はないのです。

 このリストに書かれている罪は社会の中にあふれています。礼拝をせず、本当の神の導きが見えない人は、自分の力に頼るしかなく、自分と他の人を比べることによってしか自分の価値を見出せないのではないでしょうか。その結果、

優越感から人を侮ったり、逆に劣等感のあまりねたみを覚えて人を憎んだり、悪口を言ったりすることが起ります。優越感もねたみも、これが昂じると他の人々に対する殺意を生み出す可能性があります

 もっとも私たちがこうした罪のすべてから守られているかというと、そうとは言えません。私たち自身、このリストの中で自分にあてはまるものを見つけることが出来るのではないでしょうか。クリスチャンでない人は全然だめだなどと言うことは出来ないのです。それは私たちがこうして礼拝に出ているとはいっても、神のみ言葉に自分をすべて投げ出すことが出来ないから、教会に来ているとはいっても何かの偶像に心がとらわれているからなのです。もしも皆さんの中に、礼拝に出ることは重荷だと思う心があれば、また日曜日に教会に行かないで遊んでいたらどんなにいいだろうという思いがあれば、そこには私の責任もあるのですが、やはりまことの神以外に心を引かれる部分があるからなのです。

私たちの中には、ここに並んでいる罪をむしろ自然なことで、人間としての本来の姿だと思う心があるかもしれません。このような罪を犯しつつ生きていることが人間らしいあり方で、罪を犯さないで生きるのは堅苦しいと思ってはいませんか 。そこには自分の罪を真剣に問題にして、悔い改めることは出来ません。むしろ32節にあるように「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています」ということになっているのです。

神は偶像礼拝を行う人を、心の欲望によって不潔なことをするにまかせられました。しかし、それは偶像礼拝者の全部が全部ということではなく、たとえそういうドン底の状態にあっても何かのきっかけでまことの神の導きを見出し、絶望からはいあがる人がおり、これは本当に喜ばしいことです。そして私たちはと見れば、神は私たちを愛しておられるので、私たちを罪の中に放任なさりません。むしろイエス・キリストに免じて、私たちを罪から救い出そうとされます、訓練をされます。ですから、今日の礼拝説教を、ここに関連するへブライ人への手紙の12章7節から11節まで、少し長いのですが、これを読むことで結ぶことにいたします。

「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、あとになるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」

 

(祈り)

 天の父なる神様。私たちのまわりには、目もあてられないような罪が満ち満ちています。聖書の中で神様は、偶像礼拝にこれでもかこれでもかと言うほど反対されています。私たちはこれまでそのことの意味がよくわかりませんでした。多少の罪なら自分の中に取り込んでいた方がいいくらいに考えたこともあったのですが、今は神様の前に申し開きが出来ないことを実感しています。私たちを憐み、主イエスの血によって清めて下さい。

 神様、今の時代、私たちはこれまで見えて来なかった問題が見えて来るということを経験しています。LGBTQの問題がクローズアップされていますが、神様はこうしたことをすべて罪として断罪なさるのか、それともこうした人々とそれ以外の人々が共に生きることを教えておられるのか、わからないことがたくさんあります。どうか今、分裂の危機にさらされている世界の教会に確かな道しるべを見せて下さい。神様、私たちが神様を神様として拝むことによって、自分の中にあるあらゆる偶像を追い出して下さい。

 

広島長束教会は来週、大切な総会を迎えます。どうかキリストの体である教会の、小さくてもなくてはならない一部分として、私たちをこの地に立たせて下さい。主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。