求めよ、そうすれば与えられる

求めよ、そうすれば与えられる アモス54、マタイ7711  2023.1.15 

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1271cd、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:1、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:87b、説教、祈り、讃美歌:273b、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

マタイによる福音書7章7節の「求めなさい。そうすれば、与えられる」、これはイエス・キリストから与えられたたいへん有名な言葉です。文語訳では「求めよ、さらば与えられん」となっていて、この訳で覚えている人も多いでしょう。キリスト者でない人でも、どこかで耳にしたことがあるはずの言葉で、何かをしようとする人を励ますためのスローガンとして使われることがあります。「何にもしなければ、ものごとが動き出すことはない。まず行動することだ」、と理解している人も多いのではないかと思いますが、そのように単純化することが良いことでしょうか。

同じように、「探しなさい。そうすれば、見つかる」も、積極的に生きることを勧める教えとして理解されていると思います。

……私が小学生だったときのことです。「お母さん。聖書の言葉って本当だったよ」と言うと、母は、ああ何と出来の良い子かと目を細めて私を振り返りました。「あのね、お母さん。ぼくのノートがなくなっちゃった。だけど聖書に『探せ、そうすれば、見いだすであろう』って書いてあるから、一生けんめい探したよ。そうしたら、本当にノートが出てきたんだよ」。母は期待がはずれたという顔をしていました。もちろん、主イエスはここで探しものをするときの心得を説いたのではありません。

そして「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という言葉も、イエス様がわざわざ、よその家を訪ねるときの心得を説いたものではありません。求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、この3つを具体的な行動の指針としてしまうと、イエス様が言われたところからずれてしまいます。                                                

 

では、主イエスはここで何を教えたのかということですが、ここでは、私たちがいったい誰に対して求め、探し、門をたたくのか、というところから考えなければなりません。…その答は11節にあります。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と書いてありますね。だから、誰に対してと言うと、その対象となるのは、あなたがたの天の父なのです。

私たちは神様を天の父と呼ぶことが出来ます。そのことを許されています、イエス様が主の祈りで、「天にましますわれらの父よ」と呼びかけることを教えて下さいました。私たちは神の子であり、神は私たちの父です。だから、「求めなさい」というのは何より神様に向かって祈り求めることであって、ここでは人に向かってお願いしたり、要求したり、あるいはねだったりということは想定されていません。「探しなさい」、「門をたたきなさい」も同様です。

もっとも皆さんのうちの多くは、すでにマタイ福音書のこれまで学んできたところで、祈りの心得を教えられています。それなのに、ここでまたお祈りのことが出て来るとは、…もう、十分なんじゃないかと思っている人がいるかもしれません。

実を言うと、マタイ福音書でこれまで教えられたことと、今日の箇所で教えられていることは、同じく祈りについて取り上げられているといっても、その中身が微妙に違っているのです。…例えば6章のところで主イエスは、人に見せびらかすような祈りを批判されました。自分が信心深いことを人に見せつけようとする偽善者の祈りを斥けて、もっと慎ましい、隠れた祈りをするようにと言っておられ、このことは皆さんの心にも刻まれていると思います。これは大切な教えです。ただそうしたことが行き過ぎてしまうと、それも問題なのです。

直接、祈りに関係したところではありませんが、マタイ福音書7章は「人を裁くな」という言葉から始まっています。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」とか、また「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない」といった言葉を聞きますと、皆さんは神様って厳しいお方だなあと認識を新たにするでしょう。そして、ひるがえって自分は、と目を転じると、自分はなんだか神の子にはふさわしくないように見えてくるものです。自分を見つめれば見つめるほど、自分こそ神聖なものを踏みつけているのではないか、イエス様が犬や豚にたとえたのは自分ではないかという問いに直面します。そうなると、人は容易に自信を失ってしまいます。もちろん、全員が全員すべてがということではありませんが。

謙遜ということはキリスト者にとって大切なことです。私たちはごうまんな心をしりぞけ、神様に対しても人に対しても謙遜な態度をもって接しなければなりません。…しかしながら、謙遜も度を越すと困ったことになります。たとえば、神様の前に自分は罪人(つみびと)ですと言い表わすのは良いことです。実際、イエス様を除いて、どんな人にも罪がありますから、誰もが罪人なのです。しかしそのことが行き過ぎて、ああ自分はだめなんだといつもくよくよしていたとしたら、悪意をもって来る人に対し強く出ることをせず、自分が当然主張すべきことをしなかったとしたら、それは考えものです。…もしも、世間の人が宗教を信じるのは弱い人だと思っていて、そこにキリスト教が入っているとしたら、そういうところに原因があるのではないでしょうか。

しかしキリスト者がそんな有様では、神様も喜ばれません。神様はもっと強くなれと言われるでしょう。そういう信者に対し、主イエスが与えて下さるのが「求めなさい」、「探しなさい」、「門をたたきなさい」というじつに明快な解決策です。卑屈にならないで、まず神様に向かって積極的になりなさいという呼びかけがこれなのです。

 

私たちが何かしようとするとき、二つの相反する思いが心の中で争うことがあります。その一つは「よし、やってみよう」という積極的な思いです。そしてもう一つは「やったってどうせだめだ」というあきらめの思いです。一般に若い時ほど「やってみよう」という思いが強くて、年を取ってゆくほど「どうせだめだよ」という思いが強くなるよう思われていますが、最近は若い人でも気持ちは老人に近い人が多いようです。私のまわりにも「四十を過ぎると、何かをやろうという意欲がなくなってくる」と言っていた人がいました。これはいまの時代の風潮とも関係があるでしょう。…ただ私が日本キリスト教会の各地の教会をまわって気がついたことは、こういう社会の風潮とは関係なく、年齢の上からはたしかに老人なのにかくしゃくとして、若々しく見える人をよく見かけるということです。こういう人は気持ちが若いんですね。喜びをもって信仰生活を送っているので、「どうせだめだよ」なんてことは言いません。これまで神様と共に一生けんめい生きてきたという自信と、人生最後まで、悔いなくやり通そうという気持ちが、その人を若くさせているのです。

信仰生活において、前向きに生きるかそうでないかがいかに重要か、おわかりだと思います。キリスト者にとって神様の前に自分が罪人(つみびと)であることは重大なことですし、自分を苦しめている悩みを取り上げたら切りがありません。教会に来る人が少ないことにも悩みます。…しかし、そんな自分を神様が見ていておられ、救って下さるということを決して忘れないで下さい。

パウロは言っています。「なすべきことはただ一つ、うしろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:14)。……ここに信仰生活の中でともすれば陥りやすい袋小路から抜け出す道が示されています。主イエスは、ご自分を信じる者が喜びのない信仰生活をおくらないですむよう心がけておられ、そこから神様に向かって「求めなさい」、「探しなさい」、「門をたたきなさい」と、積極的な指針を示されたのです。そのように神様に向かって肉薄すること、熱心に、うまずたゆまず祈ることが勧められているのです。

 

このような人に対して「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という約束が与えられています。神は私たちの祈りを軽んじられません。神は人間の祈りを聞かれます。かなえて下さいます。なぜなら、その祈りを聞いているのが神、あなたがたの天の父、であるからです。天の父は人間たちをみ子イエス様の命と引き換えにするほど愛しておられるのです。

9節から読んでみます。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。

ここでは、人間の親の姿から天の父のお姿が、類推されて語られています。親は必ず自分の子に良いものを与えようとする、だから神様も、という論理の展開はだいたいの人は納得してくれるでしょう。…ただ、中には疑問を持つ人がいるかもしれません。というのは、親が子どもを虐待することがあるからです、時々ニュースになりますね。そのために子どもが死んでしまうという悲惨な事件がいくつもありました。これを特殊な出来事だとして片づけてしまうことは出来ません。今ここには親として子どもを育てた経験を持っている方が多いのですが、自分の子どもに本当に良いものを与えてきたかと尋ねられると、自信をもってそうですと答えられる人がどれほどいるでしょう。人間の親は不完全で、自分の子に石や蛇を与えないまでも、ひどいことをしてしまうことがあります。しかし天の父は完全なお方で、子供である私たちに本当に良いものを与えたいと願っており、実際に与えて下さるのです。このことを心に刻んで下さい。

もっともそのことは、私たちが願ったら、神様がその願いをすべて聞き届けて下さるということではありません。神様は私たちのために良しとされることを、良しとされる時に行われるのです。むしろイエ ス様がここで教えて下さろうとしておられるのは、父なる神様との交わりです。それは私たちの祈りを通して、その中で与えられます。神様はすでに、あなたがたが必要なことはご存じであると言われています(6:32など)。私たちが祈る前から、私たちが必要なものをご存じなのです。だったら、何も祈って、お願いしなくても良いではないかという人がいるでしょうが、そうではありません。

神様と私たちは、父と子の関係にあります。現実の父と子の関係は今申した通り、理想通りにならないことがしばしばですが、それでもその関係から神と人間の関係を類推することが出来ます。親は、子が自分に何も要求しなくても、子を愛していますから、住む場所、食べるものなど必要なものを用意して与えます。子どもにとって良いもの を与えようとします。…しかし、その親子の間で会話がなければ、どうでしょうか。その関係は冷えきっているとしか思えません。

そこから見えてくることがあります。祈りは神様との会話です。祈りがないのは会話のない家庭のようなものです。私たちが父なる神様に祈らないというのは、子が親に何も話しかけないということと同じです。それは、親が自分を家に住まわせ、いろいろなものを整え与えてくれているの に、子は親を無視して何もしゃべらないような状況と同じなのです。

お祈りしても、神様から直接言葉をいただくわけではありません。しかし、私たちが信じている神様は偶像ではないのです。人間が考え出して、木や石や金属などで作った偶像だったら、耳があっても聞こえず、口があってもしゃべれないので、これに対する祈りは結局独り言で終わってしまいます。しかしキリスト教信者がしていることはこれとは全く違います。私たちが祈る時、そこで神様との間に対話が起こります。私たちの求めに対し、直接的ではなくても何かのかたちでその答えが与えられます。そうして神様との交わりが生まれます。天の父は私たちとそのような関係を持つことを願っておられるのです。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」という教えは神様がそのことを願って、イエス様を通して教えられたことなのです。お祈りすることによって父なる神様との交わりに生きなさいと言われているのです。

神を信じて生きようとする人が、心をこめて祈ることをしないということは本来ありえないはずです。しかし、現実には祈りはおろそかにされています。それは私たちの心の中に「お祈りしたって何になる」とか「どうせ時間のむだだ」というような気持ちがあるからではないでしょうか。こうして「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」というところからははるかに遠い、力のない祈りになってしまうのです。

私たちが一生懸命お祈りしてもその願いがかなわず、神様は私の祈りを聞いて下さらなかったと思うことがあります。しかし、必ず何かを受け取っているのです。それが神様から来たものであるかぎり、良い物であることには変わりありません。…その確信に立てるかどうかが、人生を喜びをもって生きるか、それとも屈折した思いをかかえたまま生きるかを決定するのです。だから、私たちもたとえ自分の祈りがきかれないように思えたとしても、そこで祈りをやめてしまってはなりません。神様を求め、探し、門をたたくのです。神様は祈り求める者に最善のことをして下さいます。神様に対し積極的になることは、同時に人生に対し積極的であることでもあるのです。

 

(祈り)

 

主イエス・キリストの父なる神様。あなたが、まことに良い贈り物をして下さる、私たちの天の父であられることを感謝いたします。私たちは今後主イエスの勧めに従って求め、探し、門をたたき続けたいと思います。祈ることが何になるかという人がいますが、私たちは祈ることをやめません。神様に祈ることによって何かが変わります。神様に解決を求めていた問題について、何かの答えが与えられるのです。ですから祈ることによって、思いもよらぬあなたの恵みにあずかり、そうしてますます深くあなたと結びつく者として下さい。こうして、あなたが共にいる生活こそ喜びであると、心から思えるようになりますように。私を含め信仰うすい者たちをどうかあなたの忍耐をもって導いて下さい。とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。