豚に真珠とは

         豚に真珠とは   箴言112023、マタイ7:6  2023.1.8

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1266、讃詠:546、交読文:イザヤ58:9~11、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:312、説教、祈り、讃美歌:298、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 マタイ福音書を少しずつ読んでいますが、今日取り上げた言葉は、主イエスの言葉の中でも理解しにくい言葉だと言われています。そうだと思いませんか。これまで多くの人が、イエス様の言葉にしてはずいぶん厳しい言葉だと感じてきた言葉です。前後の言葉とのつながりも明瞭ではなく、唐突にこの言葉が出てきたように思った人もいたでしょう。ここで、いったい何が言われているのでしょうか。

 

「神聖なものを犬に与えてはならず、真珠を豚に投げてはならない」と言われます。神聖なものを犬に与えたり、真珠を豚にあげる人など、私は見たことがありません。そんなもったいないことをする人はいないのです。…これは事実そのままを言っているのではなく、たとえであると、たいていの人は気がつくでしょう。

この言葉から、イエス様の時代なら多くの人が思い起こしただろう旧約聖書の言葉があります。箴言の1122節、「豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている」。箴言の中でも、よく知られている言葉だそうです。本来なら耳に美しく飾るべき金の輪が鼻に、しかも豚の鼻にぶらさがっている……。豚には失礼ですが、こんなこっけいなことはありません。美しい女性に知性が欠けているのも、これと似たようなものだと言うのです。

金の輪であれ、美貌であれ、それ自体、人々からどれほど尊ばれているものであっても、本来あるべきところになければちぐはぐでこっけいなものになってしまう、これを思わせるようなことがあるのです。

「神聖なものを犬に与えてはならず、真珠を豚に投げてはならない」、ここで神聖なものというのは、神のみ前にささげた供え物とか献金でしょう。…真珠については、日本ではかつて御木本幸吉という立志伝中の人物が世界で初めて養殖真珠を造ることに成功して以来、あまり珍しくなくなったかもしれませんが、それまでは今のダイヤモンドほどに輝いていたのだと思います。ここでは神様の教えや神様の恵みといったことにたとえられているのです。神様からいただいた大切なものを投げすててはならないということです。

それでは、犬とか豚は何でしょう。これらが動物そのもののことではなく、ある種の人間の比喩であることはだいたい想像出来ます。

犬が好きで好きで何匹も飼っている人がいますね。日本人はことのほか犬が大好きで、東京の渋谷には忠犬ハチ公の像が立っているし、南極の基地に観測隊員が行くと、二匹の犬がかけてきた、…タロ、ジロは生きていたという話も語り継がれています。あるいは、豚の写真やポスター、ぬいぐるみや置き物で家の中がいっぱい、それほど豚が好きだという人もどこかにいるかもしれません。……犬も豚も私たちにとって身近な動物で、こういう私たちの感覚からすると意外ですが、ユダヤ人にとって犬は、汚らわしい、野蛮な動物でした。それは当時の人々にとって、犬というのはおおむね、山犬とか狼を指すものだったからです。

豚も汚れた動物とされています。旧約聖書のレビ記11章7節で、イノシシが汚れたものとされており、(イノシシを家畜化したのが豚ですから)そのため現在でもユダヤ教徒とイスラム教徒は豚を食べません。…皆さんご存じの放蕩息子のお話では、財産を使い果たした放蕩息子は豚飼いになっています。今の日本で豚を飼うのは立派な仕事ですが、このお話の中では、それほどまでに落ちぶれてしまったということなんです。念のため申しておきますが、使徒言行録10章で食べ物のタブーが神様によって廃止されたことが書いてあり、それ以来クリスチャンは豚を食べて良いことになりました。

犬や豚という言葉で、どんな人間がたとえられているのでしょう。聖書には、「あの犬どもに注意しなさい」など、教会にとっての敵を「犬ども」と言ってののしる場面があります(ピリピ32、黙226など)。

またペトロの手紙二の2章20節以下にはこう書いてあります。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりもずっと悪くなります。」…この人たちについて、さらにこう書かれています。「ことわざに、『犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る』、また『豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る』と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです」。たいへんに厳しい言い方です。いずれにしても、神様を軽んじる人たちが、犬や豚にたとえられているのです。

 

しかし、そこまでわかっても7章6節の言葉の謎が解けたわけではありません。それどころか、ますますわからなくなりはしませんか。

これまで述べたことをまとめると、神様を軽んじる人に対し神聖なものであり、また真珠にたとえられるもの、そこには神様から頂いた尊い教えを初めとするたくさんの恵みがあるのですが、それを与えることはするな、そんなことをしても、意味がない、と言うことになりそうです。…これが正しいとするとです、神様を軽んじる人というのは教会の外にたくさんいるわけですね、教会の中にもいるかもしれません。その人たちは犬であり豚なのだから関わるな、神様の尊い教えを語る必要はない、となります。そうなると、教会は外に向かっては何もせず、閉じられた閉鎖的な集団の中で礼拝してゆけば良い、ということになりはしないでしょうか。

しかし、イエス・キリストはマタイ福音書の一番最後のところ(マタイ2819)で、11人の弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言っておられます。全世界への宣教命令です。イエス様が地の果てまで福音を宣べ伝えなさいと言われたからこそ、私たちの信仰の先輩ははるばる広島まで来たのです。…こうしてみると、イエス様はみ言葉を伝えなさいと言われながら、一方で犬や豚にたとえられる人にはその必要はない、と全く矛盾したことを言われているように思えてきます。

さらに前回学んだ7章1節から5節までの教えを思い出してみましょう。そこでは人を裁くなということを学びました。自分の目の中の丸太、すなわち自分の中に住みついている罪を認め、それを取り除いて下さる神の恵みを経験した者がはじめて、兄弟の罪を取り除くことが出来る、ということを教えられました。…しかし、こう言われた口がまだかわかないうちに、人を犬や豚にたとえるというのは、いったい何事かということになるでしょう。

 

今ここに来ている皆さんの多くは、この広島長束教会の礼拝にたくさんの人が来ることを願っているでしょう。もっとたくさんの人が神様への賛美の声を高らかに響かせる、そんな教会になってほしいという望みがあるのです。しかし、現状はこの通りです。……そこで、何とかしたいと思って、自分の家族や親しい人に、教会に来るよう誘うことがあると思います。しかし、それがうまくいくとは限りません。

教会で聞いた話を家族や友人に聞かせたいと思っても、聞かされた方は無関心だったり、そっぽを向かれてしまう、こうなると本当に悲しいです。……どうして、そういうことになるのかというと、それは私たちが教会から持ち帰って提供しようとするものが、その人たちが欲しいと願っているものとまったく違うからです。

実はこのことは旧約聖書に出て来る預言者たちもみな経験したことです。たとえば、預言者エレミヤは自分に委ねられた神の言葉をいくら語っても人々に理解してもらえない悲しみを味わいました。関心のある人は、家に帰ってからエレミヤ書20章にある彼の告白を読んでみて下さい。エレミヤは自分に与えられた真珠を人々の前に持ってきて、さあ、どうぞと言って差し出した、しかし、人々はそれを足で踏みにじってしまいました。…これは今もなお起こることです。それが人間の現実です。伝道とは、神様のことを伝えることは、このように神様から頂いた宝物が踏みにじられる悲しみを経験することでもあるのです。

そのことはなによりイエス様の経験でもありました。……そうかな、たくさんの人がイエス様の教えを聞いて、信じたではないですかという人がいるかもしれません。たしかにイエス様が説教したとき、大勢の人が聞きにきました。

しかし、イエス様が自ら出向いても、耳を背けてしまった町があったのです。イエス様はそうした町を叱りつけておられます(マタイ112024)。しかも、喜んでイエス様の話を聞いていた人たちも、最後にはイエス様を十字架につけてしまうのです。

かりにイエス様が、「私を信じたらこんなご利益があります」などと言って伝道したら、また不思議なみわざ、奇跡を見せびらかしたら、イエス様のことですから、すごい、この方についていけば幸せを授かると、評判が評判を呼んで、その教えはどんどん広がっていったでしょう。その場合、イエス様が十字架にかかることもなかったかもしれません。しかし、イエス様はそのようなことを決してされませんでした。イエス様が実際に行ったことはこうです。…すなわち7章6節の言葉とは全く違って、神聖なものを犬に与え、真珠を豚に与えたのです。十字架の出来事とは、イエス様が、神聖で、真珠にもたとえられる、その尊いお命を捧げて下さったことにほかなりません。

ということは、私たちの誰もが、かつては犬であり豚だったということです。この自分のような不信仰な者のために、イエス様は尊い命を捧げて下さったということを知ってかろうじて神様の下に来ることが出来たのですが、…いったい何というもったいないことをなさったのかということなのです。

ただイエス様ご自身が神聖なものを犬に与え、真珠を豚に与えたとはいっても、イエス様はそれを弟子たちや、弟子たちのあとに続く教会に要求されはしませんでした。同じことをする必要はありません。だから「神聖なものを犬に与えてはならない。また、真珠を豚に投げてはならない」と言われているのです。

イエス様の十字架はただ一回きりで十分で、再び繰り返す必要は全くありません。また古来、伝道する時には苦難や迫害がつきもので、今この時代でも、神様のことを家族や友人に語って教会に連れて来ようとする時に冷たい反応を示されるのはよくあることですが、しかし、だからと言って、神様から頂く、尊い教えを初めとするたくさんの恵みを安売りしてはなりません。また、それが侮辱されてもはなりません。もしそんなことがあったら、私たちは毅然として対応するべきです。

私たちが、自分の信じている神様のことを語って、その人と一緒に礼拝することを願ったとしてもそれがうまくゆかず、その人が全然聞いてくれない時、無理をしてその人との関係をこじらせることはありません。その人が真珠を真珠として受け取ってくれないときは黙って、静かに時を待つことです。究極的に説得力を持つ議論は、口が立つかどうかではなく、その人の生き方自身です。私たちのまわりに神を信じる人が少ないのは、私たち自身が真にクリスチャンとして生きることが少ないために、その言葉に説得力がないからではないでしょうか。私たちが光の子として歩むことを、自戒をこめて心に刻みたいと思います。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。私たちの鈍い心、愚かな行いをあなたが主の恵みをもって打ち砕いて下さいますように。こうして、あなたの聖なる教えを、犬や豚ではない者としていただくことが出来ますようにと願います。そうして、その場所から私たちを家庭に、職場に、地域社会にキリストのメッセージを伝える者として遣わして下さい。一人より二人、二人より三人、ひとりでも多くの人たちがイエス様と出会って教会に集められ、救われることが私たちの望みです。

私たちの愛する家族や友人を、私たちよりもさらに深く、愛して下さる神様、どうか彼らの心に、自分の魂をあずける究極の場所を求める思いを与えて下さい。自分はどこから来て、今どこにいて、これからどこへ行くのかという人生の問いを投げかけ、永遠を思う思いを授けて下さい。

主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。