主を喜び祝うことこそ

主を喜び祝うことこそ ネヘミヤ772b12、使徒24447  2023.1.1

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1265、讃詠:546、交読文:イザヤ58911、讃美歌:30、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:75、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ-133、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式、讃美歌207)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 新年あけましておめでとうございます。コロナウィルスに戦争などたいへんな問題に翻弄された2022年が終り、神様が2023年という新しい年の扉を開いて下さいました。今年がどんな年になるかわかりません。ただそれは、言ってみれば私たち次第とも言えるのです。世界全体の中では無きに等しい存在だとはいえ、私たち自身が2023年をどのように生きるかということが、この年を素晴らしい年にするかみじめな年にしてしまうかに関係するのです。だから神様の確かなお導きとお支えのもと、この年を皆さんとご一緒に喜びと希望をもって歩んでいきたいと願っているところです。

 広島長束教会では毎年、今年の主題聖句というものを定めています。2023年の主題聖句はネヘミヤ記8章10節の言葉です。「主を喜び祝うことこそ、わたしたちの力の源である」。これが選ばれたのは、私たちにはまだ力がない、主を喜び祝うことでもっと力強くなりたいという思いがあったのかもしれません。皆が心から主を喜び祝っている時、教会は無敵だと思うのですが、実際はなかなかそうはなりません。気持ちが晴れないことはいくらでもあり、また心配なことは次々に起こりますが、それでもいっときの気休めではなく、心から喜び祝うことを求めていきたいと思います。

 

 ネヘミヤ記は、その前に入っているエズラ記と共に、皆さんにとって、どちらかと言うと、あまりなじみのない書物かもしれません。

 ダビデ王とソロモン王の時、栄華をきわめたイスラエルはその後、南北二つの国に分裂してしまいます。北の国イスラエルは先に滅びてしまい、ひとり残されたユダの国も超大国バビロニアに攻められて紀元前586年に滅亡してしまいました。エルサレムにあった神殿は破壊され、人々は異国に捕虜となって連れてゆかれました。このことをバビロン捕囚と言い、人々はたいへんに苦しい時期を過ごしたのですが、538年になってやっとお許しが出て、ふるさとに帰ることが出来るようになったのです。

 ユダヤ人は次々と先祖伝来の地に帰ってきましたが、そこで思い立ったのが破壊された神殿に代わる新しい神殿を建設して、信仰の中心とすることです。幾多の妨害をはねのけ、神殿は515年に完成しました。それから50数年たったのち、今日のお話に出て来るエズラという人がバビロンから帰ってきました。この人は祭司であり書記官であって、人々が神様から決して離れないよう、導いて行きました。これがエズラ記に書いてあることです。

 ネヘミヤ記はその続編になります。ネヘミヤはユダヤ人の総督でした。彼は、かつてエルサレムの都を囲んでいたものの、その時はガタガタ、ボロボロになっていた城壁の修復に取り組みました。それは445年に完成したのです。…神殿の建築と城壁の修復は、両方ともたいへんな仕事です。…広島長束教会でも、9年前に行った屋根とか壁の修復はたいへんな仕事でした。…エズラ記とネヘミヤ記は、ユダヤの人たちがみんなで一つになって建築工事に励むことを書いているのですが、それは単なる工事の記録ではなく、一度はくずれかかった信仰の建て直しでもあったのです。

 

 その日は第七の月の第一日。長年の懸案だった城壁の改修工事が終わったあとの喜びの日です。広場に集まっていた人々は、エズラに対し、モーセの律法の書を持ってくるようにとお願いしました。エズラはそれを持ってきて、皆の前で読み上げました。…モーセの律法の書とは、旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つの書だと思われます。5節をご覧下さい。「エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手をあげて、『アーメン、アーメン』と唱和して、ひざまずき、顔を伏せて、主を礼拝した。」

この時代のことですからマイクはありません。おそらく数万という人がいる前で、エズラはこれを夜明けから正午まで読み上げたのです。体力的にはもう限界でしょう。そのあと別の人が代わって、読み上げながら説明をしました。ちょうど今の教会で、聖書朗読と説教があるようなものです。

 すると総督ネヘミヤはエズラやレビ人と共に民全員に言いました。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と。城壁が完成したお祝いの日なんだから、嘆いたり、泣いたりしてはならないと言ったのです。でも実際はどうだったでしょう。「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた」というのです。

皆さんは聖書の言葉を聞いて泣いたことがありますか。…人々がどうして泣いていたのかというと、聖書の言葉を聞いているうちに、自分たちがいかに愚かで罪深いかということに気づかされたからです。…私たちもみ言葉をそれほどの思いでもって受け止めることが出来ますように。

 その時、その場にいる人々の先祖は、エジプトからのぼってこの地に住みつき、いっときは大きな、繁栄した国を造りあげました。しかし、まことの神を信じようとはしません。常に神様に逆らって、ほかの神々になびいてしまうのです。そのため神様の怒りを買って、国が滅ぼされてしまった、今こうしてやっとふるさとにたどり着くことが出来たのですが、そのことを思い知らせたのがその場で朗読された言葉の数々です。…たとえば、モーセの十戒には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とはっきり書いてあります。「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏してはならない」とも書いてあるのです。まことの神様を礼拝しなさいと教えられているにもかかわらず、先祖たちは石や金属などで勝手に神々を造ってそれを拝み、そればかりでなく、その前で人間としてあるまじき行いをして、神様を怒らせたのです。その結果が国の滅亡です。…先祖がやったこととはいえ、自分たちに責任がないとは言えません。もしも自分がその場にいたら、同じように罪を犯してしまったかもしれない、…先祖の罪は自分たちにも受け継がれていることを悟って、人々はみな悲しみのあまり涙を流したのです。

 

 けれども、悲しむことが良い場合があるのです。第2コリント書710節は言います。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」ると

 ネヘミヤとエズラはレビ人と共に人々にこう語りかけました。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」、さらに「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と。

 私は思います。もしも人々が悲しんで泣くことがなかったら、そのあとの喜びの時はなかったのだと。かりに人々が律法の書の朗読を聞いても、「われわれの先祖は悪いことをして神様の罰を受けたけれども、われわれには責任がない。われわれはこうしてバビロンから帰ることが出来た、神殿があるし城壁も完成した。ああ良かった、良かった、これからは良い時代だ」なんて思ったとしたら、城壁が完成した喜びも一時的で浮ついたものとなってしまったでしょう。そして、またすぐに、神様に背いた昔の乱れた時代を繰り返し、再び神様の怒りを身に受けることになってしまったでしょう。

 人々がここで行っていたことは礼拝です。礼拝の時、そこにおられる神様の前で、自分たちの先祖や自分たち自身がしてきた罪を思い起こし、悲しむこと、そこから悔い改めが生じ、それは人をして救いに至らせます。どうしてそのように言うことが出来るのか、そこには神様から頂く罪の赦しがあるのです。

 イエス様は「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」と教えて下さいました、自分たちの罪を悲しむ人がいます。しかし罪に打ち勝たれる神様がおられ、神様はその人を慰めて下さいます。神様に慰められる時、主を喜ぶということが起こります。それが力になるのです。

 初代教会の人々は、イエス様の十字架の死を見届けていますから、自分はイエス様を見殺しにしてしまったという深い苦しみがあったはずです。しかし、それでもイエス様が復活されたこととイエス様による罪の赦しを信じ、受け入れたことで、「喜びと真心をもって、一緒に食事をし、神を賛美していた」という恵みが与えられました。

 エズラとネヘミヤの時代において起こったことはその前触れです。あれだけ悲しんで泣いていた人についてどう書いてありますか。「民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った」と。どうして「いま泣いたカラスがもう笑った」ようなことになったのでしょう、それは、そこに書いてある通り、「教えられたことを理解したから」なのです。

 

 今年、皆が礼拝を重んじる年になりますように。み言葉をしっかり受け止めて下さい。神様を脇に追いやったままの楽しみは一時的には良くてもいずれは消え、苦しみに変わってしまいます。しかし、自分や自分たちの犯した罪を悲しみ、嘆く思いは、永遠の世界に通じる、消えることのない喜びにつながるのです。私たちにこの恵みをもたらして下さるイエス・キリストを主として喜び祝い、力を与えられる一年でありますように、と願います。

 

(祈り)

 恵み深い天の父なる神様。私たち一人ひとりは、この社会の中で財産も権力もなく、高い地位にあるわけでもありませんが、イエス・キリストによって滅びの穴から救い出され、おそれおおくも神の子とされています。神様の前にかけがえのない者として、この世で生きていく目的を与えられていることを心から感謝いたします。

 私たちは皆、今年が明るい年で、自分や家族が平和に楽しく生活できることを願っておりますが、そのことはお金によっても何によっても、つまり神様以外のどんな力によっても成し遂げられないことをいま聖書を通して知ることとなりました。神様、どうか一時的なものではない、悲しみと涙を突き抜けたところに与えられる本当の喜びが、あなたを礼拝する私どもの上にありますように。広島長束教会に集う私たちが礼拝において、罪と死に勝利されたイエス・キリストを主として喜び祝い、その恵みによって生きる者として下さい。

 

 とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。