あけぼのの光が訪れる

あけぼのの光が訪れる エゼキエル2921、ルカ15780  2022.12.18

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1264、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:28、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:97、説教、祈り、讃美歌:107、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 今日はザカリアとエリサベトという高齢の夫婦に子どもが誕生したところをお話しします。神の使いから、息子が誕生し、その子がイスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせると告げられたザカリアはそのことが信じられません。そのため口が利けなくされてしまいました。…ザカリアはおよそ10か月の間、沈黙の時を過ごしましたが、今日はその沈黙が打ち破られて、言葉がほとばしるところを見ることになります。

 

 ザカリアは神殿の聖所に長い間入ったまま、やっと出て来ましたが、話すことが出来ません。今日のところで人々は、ザカリアに手振りで尋ねていますから、彼は耳も聞こえなくなってしまったのです。そののち、妻エリサベトは妊娠しました。…一方、天使からイエス様を産むことを告げられたマリアは、ガリラヤからかけつけてエリサベトに会いに行きました。マリアはエリサベトのところに三か月ほど滞在したのですが、おそらく何かと不自由なザカリア夫婦のお世話をし、エリサベトが出産し、ザカリアが口を開いたところまで見届けて帰ったのではないかと思います。

この間 エリサベトが身ごもったことを知った近所の人々や親類は驚き、喜び、でも高齢出産ですから心配もしたでしょう。やがて、月が満ちて、エリサベトは男の赤ちゃんを産みました。母子共に健康です。一気に喜びが広がりました。それは「主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜びあった」と書いてある通り、主なる神に全幅の信頼を置いての喜びでした。「良かったですね」、でも出産直後に訪ねて行くのははばかられます。当時、律法の規定によって、出産後一週間はお見舞いしてはいけなかったのです(レビ1214)。八日目に、生まれた男の子に割礼を施し、神の民の一員となることを示す日が来ました。割礼は厳粛な儀式ですが、それが終わればあとはお祝いの宴です。みんなが上機嫌でお酒を飲み、料理に舌鼓を打ち、会話はおおいにはずんだに違いありません。その中で「名前をどうしようか」という話が出たのです。

この辺りのことについて、名前は親がつけるのが普通なのに、なぜそこにいた人たちがつけようとしていたのかという人がいます。また、なぜ八日目まで待ったのかという人もいます。…ただそこでは、集まってきた人たちが親を差し置いて名前をつけようとしたのではなく、わいわいがやがやきっとこういう名前だろうと話していただけなのかもしれません。また、天使はザカリアに子どもの名をヨハネとするよう命じていて、それをエリサベトは知らされていたでしょうから、すでに「ヨハネちゃん」と呼んでいたのかもしれません。

さあ赤ちゃんの名前をどうしようかと話が盛り上がった時、エリサベトはきっぱりと「名はヨハネとしなければなりません。」と言いました。そんな名前の人は親類にいないので、みんな驚いてキョトンとしてしまったことでしょう。それでは、とザカリヤに尋ねてみると、ザカリヤは板の上に「この子の名はヨハネ」と書いたので、みんなはまたまた驚いてしまいました。ザカリヤは口が利けないだけでなく耳も聞こえないのです。だから、それまで人々が話していた言葉を聞くことは出来ません。それなのに同じ名前が出て来たのです。そして、さらに驚天動地の出来事が起こりました。「すると、たちまちザカリアの口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」、その場はたちまち大騒ぎになったにちがいありません。

 

ザカリアは初め、天使から子が生まれることを告げられた時、それを信じることが出来なかったので、口と耳を封じられてしまいました。ザカリアにとって、それが苦しい体験であったのは確かです。しかしそれにもかかわらず、そこに神の憐みが注がれていました。そもそも神から与えられたヨハネという名前には「主は憐み深くあられる」という意味があります。ザカリアにとって、外界から音を遮断された10か月は、心を静め、み言葉を味わい、祈りに集中するまたとない時となったでしょう。彼は人間のこざかしい思いでは到底とらえることの出来ない神の存在に触れ、圧倒されたのです。沈黙の中でザカリアは、天使が取り次いできた神の言葉が真実であることを悟り、神は本当に憐み深くあられるという信仰が与えられたと言えます。

沈黙というと、私たちは消極的なことのようにとらえがちです。しかし神の圧倒的な力の前に沈黙するのは、それとは違います。ハバクク書2章20節に「全地よ、御前に沈黙せよ」という言葉があります。神がなさっていることを心の底から受けとめたら人間は何も言えなくなってしまうのです。そのことを考えると、たとえ意図してはいなくても、神を汚してしまう言葉を口に出すくらいなら、何もしゃべらない方が良いのです。ザカリアはそういう状況に置かれたわけですが、それは恵みでもありました。彼は沈黙の10か月を、神に自分の思いを集中し、魂を注ぎ出す時として用いたに違いありません。

それでは、ザカリアの口が開けたことはどう考えたら良いでしょうか。彼が沈黙の10か月を過ごしたことは、そのままずっと黙っていなさいということではなかったのです。何事にも時があります。10か月何もしゃべらなかったザカリアの口が開けたとたん、そこから神を賛美する言葉がほとばしり出たことから、沈黙だけが良いのでも、また逆にしゃべり続けることだけが良いのでもないことがわかります。人生には沈黙する時と語る時があるのです。ザカリアの例からわかることは、彼が終始神と向かいあい、沈黙を徹底して行ったそのところから言葉が湧き出てきたということです。神の前で沈黙させられたザカリアに、聖霊が神をたたえる言葉を満たして下さいました。こうして彼は、新しく生まれ変わったザカリアとして神と人の前に立つことが出来たのです。

 

 ここに現れたザカリアの言葉は「ほめたたえよ」から始まっています。新共同訳聖書では「ザカリアの預言」という小見出しがついていますが、これより「ザカリアの賛歌」という方が良いと思います。たしかに預言ではありますが、なにより、神への賛美が歌われているからです。

 皆さんは、ここでザカリアがヨハネの誕生を喜び歌っていると思っていたかもしれません。しかし、よく見て下さい。ここにはヨハネについての言及が意外に少ないのです。ヨハネが出て来るのは76節の「幼子よ」から、そして78節の「これは我らの神の憐れみの心による」までだけです。

そこで69節を見ると、主は「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と書いてあります。僕ダビデの家から起こされる「救いの角」とは何でしょう、中近東には角のある動物がたくさんいます。角で敵を倒しますから、角はその獣の力がいちばん集まっているところです。だからこれは力の象徴です。そこに「救い」という言葉がついて「救いの角」となるともはや鬼に金棒です。ザカリアは救いの角であるイエス・キリストが与えられる喜びを歌っているのです。だからそれは、まさにクリスマスの喜びであったのです。

「救いの角」であるイエス様が到来されることは、何より神の愛の現れにほかなりません。救い主は敵の手から自分たちを救って下さるわけですが、これは72節に書いてあるように、主なる神が自分たちユダヤ人の先祖を憐れみ、聖なる契約を覚えていて下さったことによって起こりました。かつて神は、たとえ母親が自分の産んだ子を忘れることがあっても、あなたを忘れることは決してないと宣言されましたが(イザヤ4915)、その言葉通りご自分の民を顧みて、この民に救い主を与えられた、ザカリアはそのことを悟って、賛美の歌を歌います。「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える。生涯、主の御前に清く正しく。」、ここに、救いの角を授けられた民の喜びの姿があります。ユダヤの人々はまだまだ暗闇の中を歩む民です。しかし、神は自分たちを見捨ててはおられなかった。神は契約を覚えて下さり、それを実行して下さった、だからもう恐れることなく、神に仕えることが出来るのです。

 

それでは、救い主誕生のあとにまるでおまけのようについている、ヨハネについての言葉を見ましょう。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる」。イスラエルの民には永らく預言者が与えられず、み言葉のききんとも言うべき状態が続いていましたが、ヨハネは神様から400年ぶりに遣わされる預言者になるのです。しかしヨハネはひとり独立独歩のまま、み言葉を取り次いで行く人ではありません。彼は彼のあとに現れる、いと高き方イエス・キリストの預言者なのです。

では、ヨハネのいと高き方の預言者としての務めは何なのか、それが「主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」ことにあります。皆さんご存知のように、ヨハネはそれからおよそ30年ののち、荒れ野に出現することになります。らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたという野性味あふれる人物で、彼がイエス様に先立って「悔い改めよ、天の国は近づいた」と告げると(マタイ3:2)、その声はほとんど人がいない荒れ野から発せられたにもかかわらず、ユダヤ全土に響きわたりました。人々は続々と彼のもとに集まってきて、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けるようになるのです。

77節に「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」とあるように、ヨハネは全世界が、いと高き方イエス様を救い主として受け入れるよう道備えをした預言者です。ヨハネが、イエス様のために道を切り開くことで、主の民、人々に罪の赦しによる救いがもたらされます。これは神の憐れみの心によるのです。

ザカリアはこうして最後に、神の憐れみによって昇ってゆくあけぼのの光、イエス・キリストを賛美します。「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

イエス様が地上においでになったことは上からの、天からの働きかけ、神ご自身の世界に対する圧倒的な介入であったのです。だから、これはただ偉人が誕生したということではありません。イエス様の誕生を、本当に畏れを持って迎えることによってのみ、私たちはクリスマスを祝うにふさわしい者となるのです。

救いの角であり、いと高き方であるイエス・キリストは、暗闇と死の陰に住んでいる者たちを照らすことになります。ザカリアが生きていた世界はまさに暗闇の世界でした。そして私たちの中にも、自分が暗闇の世界で生きていると思っている人がいるかもしれません。しかし、そこにイエス様が来て下さるなら、どうでしょうか。イエス様は世界を照らすことによって、そこが暗闇であることを知らせて下さっただけでなく、暗闇を追い払って下さる方、そしてイエス様のこの偉大な働きに仕えたのがヨハネなのです。

 

にぎやかな祝いの宴の雰囲気は一変しました。ザカリアの口が開いたことは、その場にいる人たちを驚嘆させ、神への恐れを抱かせました。「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」、この話はまたたく間に広がって、ユダヤの山里中で話題になりました。ちょうど古池に蛙が飛び込んだ時、水音が走り、波が生じ、その衝撃が周囲に広がってゆくように、古い世界は新しい世界に変わりつつあり、そのことなしにクリスマスの意義はありません。いつの時代であっても、クリスマスは古い世界が新しいものによってとって代わられるところから始まるのです。

皆さんは、あけぼのの光が訪れる時、どうなさいますか。間違っても、その光を避けて、暗闇に逃げて行くような選択をしないで下さい。2022年のクリスマスを迎えるにあたって、いま多くの人たちと共に、あけぼのの光の下(もと)に立つことを喜びあいたいと思います。

 

 (祈り)

天の父なる神様。あなたは、長い歴史の中でも憐れみをお忘れにならず、その憐れみをイエス・キリストというあけぼのの光によって、世界に、そして私たち一人ひとりに与えて下さいました。このことは口で言うのは簡単ですが、そこに神様のどれほどまでの思いが込められているのか、想像もつきません。いったい人間の言葉で神様がなさっていることを語ることが出来るのでしょうか。今ここにいる者たちは、牧師を筆頭にみんながしじゅう不信仰な言葉を口にしているのかもしれません。神様、どうか私たちをして、神様の前に沈黙すべき時に沈黙させて下さい。しかし語るべき時が来たら、語る勇気をお与え下さい。クリスマスの喜びを、自分たちの中だけに留め置くのではなく、多くの、今だ本当の神様を知らない人たちと分かち合うことが出来ますように。そのために私たちの口にも、主の恵みを語る言葉をお与え下さい。

 

この祈りをとうとき主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン。