お言葉どおり、この身になりますように

お言葉どおり、この身になりますように イザヤ301920、ルカ1:2638

    2022.12.11

(順序)

前奏、招詞:詩編1263、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:103、説教、祈り、讃美歌:109、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

今からおよそ2000年の昔、イエス・キリストがお生まれになった世界はいたって静かでした。ただし、そこが平和で穏やかだったということではありません。聖書には「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」(イザヤ8:22)など苦しみに打ちひしがれた多くの人々がいたことが書かれています。その中でメシア、すなわち救い主がまもなく来られると信じ、その日に備えて心の準備をしていた人など誰もいませんでした。ユダヤ人は、自分たちに救い主が与えられることは昔から教えられて知っていましたが、それがまさか自分たちの時代に起こるとは思っていませんでしたし、異邦人ならなおさら、そんなことは考えたこともなかったでしょう。 

 救い主は世界の片隅のユダヤでお生まれになりました。そこは今でこそ、ニュースの中でひんぱんに出てくる土地ですが、当時は強大なローマ帝国に軍事的に征服された国の一つに過ぎませんでした。しかもガリラヤのナザレは、ユダヤの中でも軽く見られ、誰も問題にしないような町でした。しかしその町に、神がなさることを告げられた女性がいました。マリアです。今日は、このマリアの心の動きを見て行きたいと思います。

 

 マリアはいったいどんな人だったのでしょう。…彼女はダビデ家のヨセフという人のいいなづけでありました。私たちは、マリアのことを二十歳を過ぎた女性だと思ってしまうことが多いのですが、当時の人々の結婚年齢はそうとう早く、実際には14歳前後ではないかと考えられています。14歳というと今の日本では中学生、その年齢で結婚とはちょっと信じがたいのですが、平均寿命が短い時代、人間の成熟は早かったのかもしれません。

 マリアはナザレに住んでいた名もない家の娘でした。ただ36節に「あなたの親類エリサベト」と書いてあります。1章5節にはエリサベトはアロン家の娘の一人だと書かれていて、アロン家は由緒ある家柄なので、マリアもその血を受け継いでいるのかもしれませんが、それ以上のことはわかりません。

マリアを崇拝するカトリック教会は、マリアは一生を通しておとめであったと言っています。しかし聖書には、イエス様には少なくとも6人の兄弟姉妹がいたことを書いています。カトリック教会は、それはヨセフの前の妻が生んだ子供だと言うのですが、苦しい説明です。あまり考えすぎないで、マリアはイエス様を産んだあと、さらに続けて六人の子どもを産んだと考えたらすっきりするでしょう。…カトリック教会はまた、マリアには原罪がなかったとか、死を味わうことなく昇天したと教えていますが、これもおかしいです。…聖書には、イエス様が伝道を始められた時、家族が取り押さえに来たことが書いてありますが、その中にマリアもいました(マルコ32131など)。そうしたところから見えるのは、後の世に神格化されてしまった女性というより、愛する息子のことを心配している普通の母親の姿です。

マリアは私たちと同じ普通の人間です。普通の人間の代表です。…もっとも、今この場所にいる女性に伺いたいのですが、かりに天使が現れ、あなたは神の子を宿したと告げたとします。「お言葉どおり、この身に成りますように」と言えますか。…言えないと思うのです。そのところがマリアと他の人間の違いでありましょう。

マリアが神様に特別に用いられて、神のみ子を産むという栄誉を授かったのは、神様が彼女に代表される普通の人間を目に留めて、恵みをたまわったということにほかなりません。

 

 天使ガブリエルがマリアのもとに来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げた時、マリアは戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込みました。おめでとうという言葉は、原文では喜びなさいという意味があります。また、「戸惑い」とか「考え込んだ」というのは、日本語では穏やかに聞こえますが原文ではもっと強い意味があって、ひどい胸騒ぎがするとか、不安でいてもたってもいられない状態です。そのマリアに対して、天使は言いました。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と、そしてさらにイエスの将来について、気が遠くなるようなことを告げたのです。

 天使の言葉に対するマリアの反応は、驚きと恐れが混じったものでありました。信仰心はあっても、その時代、どこにでもいるような、それも小娘と言っていいような女性が突然、考えたこともなかった、とんでもない所に立たされてしまったのです。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。ここからいくつかのことが見えてきます。一つは、マリアの身に及ぶ災いです。マリアは婚約中で当時、法的にはヨセフの妻であるけれども、まだ一緒に生活してはいません。おとめの身で妊娠するなんてありえないことです。かりに婚約中の女性が妊娠し、子供の父親が婚約者でなかったとしたら、…まずヨセフがマリアの身の潔白を信じてくれるとは思えません。結婚が解消される可能性が高いのですが、そればかりではありません。当時のナザレの人口は480人ほどだったと考えられています。そんな小さな町でマリアの妊娠が明るみになったとしたら、…申命記2223節と24節の規定によれば、ふしだらな女性と相手の男性は共に石打ちの刑に処せられなければならないというのです。マリアに責任がないこととはいえ、社会から死に値する重大な罪だと見なされることが確実な出来事でありました。

そして、もう一つのことは、生まれる子の将来についてです。天使は最大限の言葉を使います。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」。いと高き方とは神、だから神の子なのです。「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」。その子はイスラエルの王になるのです。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。その子は永遠にヤコブの家、すなわちイスラエルを治めると。私たちが今のイスラエルを見るとそんなことがと思ってしまうかもしれません。これは現実のイスラエル国ではなく教会を意味しています。つまりイエス様は永遠に教会を治め、その支配は世々限りなく続くということです。…これらのことはいま私たちにとって真実であっても、マリアにとってみたらあまりに現実ばなれしていて、まったく理解出来ないことであったでしょう。

それまで静かな生活を過ごしてきただろうマリアの上に突然神が介入されました。妊娠することでマリアは石打ちの刑に処せられるかもしれません。またいくら自分の子の立身出世を願う親でも、そこで言われているほどのことを望むことはありません。私たちがそこに見るのは、心乱され、不安にうろたえるマリアの姿です。それなのに天使は「おめでとう、恵まれた方」と言うのです。マリアは、「なぜ、ほかの人ではなくこのわたしが」と思ったにちがいありません。

 

私たちはマリアと同じことを体験したことはありませんし、その必要もありませんが、マリアほどでなくても、どうにもならないような難局に陥ってしまったということはあるのではないでしょうか。現にそのような状況にある人もいます。

そんな時に人はどういう行動をとるでしょうか。手っ取り早いのはその状況から逃げることです。重い責任は引き受けない、何か楽しいことに没頭して苦しみから逃避したり、また心に積もり積もったいらだちを自分より弱い人にぶつけるということがあります。自殺という、取り返しのつかない方法を選ぶ人さえいます。ただ、どういう方法を取るとしても、問題の根本的な解決にはなりません。困難な状況に陥ってしまった時、その状況から逃げることなく、問題を根本から解決するために必要なことは何か、それが信仰だということをマリアの例は示しています。もしも神がその状況をもたらされたのなら、神によって困難を克服することが出来るのではないでしょうか。マリアは最後まで神のおそばにとどまりました。

 

マリアは天使に対し、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えます。これはマリアが、「女が男女の営みなしに妊娠するはずはないのだから、そんなことは絶対ありえないはずだ」という意味で言ったのだ、と普通は考えると思います。…ただ、原文はこれとは違う訳し方も出来るのです。その場合、「それはどのようにして実現するのですか。わたしは男の人を知りませんのに」となります。どちらが正しいのか、何とも言えないのですが、この場合、マリアは「神様のなさることだから自分が妊娠することもあるだろうけど、それはどのようにして実現するのですか」と尋ねたように読み取れます。

天使の方でその思いに応えたのかもしれません、マリアが妊娠する理由を説明します。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生れる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。聖霊なる神が降ることによって、そのことが起こるのです。…聖霊が降る、これは私たちが想像できないほど偉大な出来事で、このあとペンテコステの日にも起こり、教会を誕生させることになるのです。

さて天使はこれに続き、マリアの親類のエリサベトが身ごもっていることを告げますが、その時、「神にできないことは何一つない」と言います。六か月前、エリサベトがもう老年になっていたのに身ごもるという出来事が起こりました。不妊の女だったのに妊娠したのです。この事実が、神が全能であられることをマリアに確信させたのですが、ここをもう少し深めてみましょう。

 「神にできないことは何一つない」で「こと」と訳されている言葉は、マリアのこのあと出て来る「お言葉どおり、この身に成りますように」の「お言葉」と同じなのです。ですから、天使の言葉を直訳すると「神にできない言葉は何一つない」と訳すことが可能です。日本語としては変なので「神の言葉で実現出来ないものは何一つない」と考えたら良いでしょう。

神の言葉とは、この時のマリアは知らなかったのですが、のちにイエス様の十字架の死、復活、教会の誕生といったことを実現させることになります。つまりマリアは、言われたことを必ず実現する神の言葉に信頼した、だから「お言葉どおり、この身になりますように」と言うことが出来たのです。

マリアが妊娠するというのは全能の神のみ言葉からなされたことです。神が決定して、行われ、宣言されたことであれば、それは人を一時的に窮地に陥れることはあっても、決して人を破滅させるものではありません。神の言葉は、マリアを必ずや目の前の困難から救い出してくれる、それどころか人間のちっぽけな常識では信じられない偉大な出来事をつくりだすのです。…だからマリアは、自分を主のはしためと見なし、自分が重荷を背負うことになろうともこの道を歩きなさいと神様が命じられるならばその道を歩きましょう、と決心したのです。神の言葉に全幅の信頼を寄せることで、ついにこの自分で良ければお用い下さいと言うことが出来たのです。

 

私たちはここでマリアの決心をたたえたいと思います。…ただ、天使のお告げに驚愕し、不安にさいなまれていたマリアが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言えるまでになったのは、不思議といえば不思議です。マリアは天使の言葉を聞くとすぐに神に従う決心をしたのでしょうか。…もしもそうだとしたら、マリアは従順な信仰者の模範的な姿をあらわすものとなるかもしれませんが、その場合、彼女は私たちから遠い存在になってしまうでしょう。なぜなら私たちはみな、簡単に「主のはしためです」とか「お言葉どおり」などとは言えない者たちだからです。

実際のマリアの心中はどうだったのでしょう。はじめ不安や恐れにさいなまれていたマリアが、天使の言葉を受けとめるとすぐに心の葛藤がなくなったとは思えません。やはり心のどこかに不安や恐れをかかえながらではなかったか、しかしその中でついに神の言葉を信頼するに至ったのです。今後起こるだろう困難にもかかわらず、これに立ち向かう勇気と希望を得ることが出来たのでしょう。

その後の経過を見ればわかる通り、マリアは神様に守られてイエス様を産むことが出来ました。そうして、天使が告げた通りの「恵まれた方」であることを証明したのです。マリアの、たいへんな葛藤を経てではありますが、神の言葉への信頼こそが救い主をこの世界に迎え入れる入り口となりました。マリアが胎内に宿した男の子の名は「イエス」、その意味は「主は救い給う」、神のみ子イエス様が、ナザレの町の娘マリアに与えられたということは、マリアに代表されるすべての人間、この世界、そして私たち一人ひとりに救い主が与えられたということにほかなりません。神様を讃美します。この自分にも救い主が与えられたという喜びを、今年のクリスマスで皆さんと共に分かち合うことが出来るよう願っております。

 

(祈り)                                                                      

 恵みをもって私たちを導き、支えて下さいます神様。私たちが待降節第三主日の礼拝の恵みにあずかれたことを心から感謝申し上げます。

 クリスマスが近づいてきますと、町のよそおいも華やかになり、なにか浮き浮きした気持ちになってきます。しかしその前に、恐れとおののきの中にあったマリアの思いを自分の思いとさせて下さい。神様は、ご自分の言葉がむなしく帰ることはなく、神様の望むことを成し遂げて下さることを示して下さいました。だからマリアは不安と怖れに押しつぶされそうになりながら、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言うことが出来たのです。神様が私たちと共におられるがゆえに、襲いかかる苦しみも恵みに変わることを信ずることが出来ます。神様が救い出すことの出来ない悩みも苦しみもないことを思って、感謝いたします。神様、どうか私たちの上に起こることすべてを益として下さいますように。

 

 この祈りを主イエスのみ名によって、み前にお捧げします。アーメン。