主は覚えておられる

主は覚えておられる   イザヤ40:1~11、ルカ1525 2022.12.4

 

(順序)

前奏、招詞:詩編12545、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:11、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:96、説教、祈り、讃美歌:97、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式)、(讃美歌Ⅱ-179)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:540、祝福と派遣、後奏

 

聖書は、旧約・新約のすべてがイエス・キリストを証しする書物で、とりわけ新約聖書に収められている4つの福音書はどれも主イエスのご生涯、すなわちみ言葉とみ業を語っています。ただし、それらはどれも、主イエスが公に活動を開始する前にバプテスマのヨハネの働きがあったことを語っています。ヨハネが先に世に現れてイエス様の到来を予告し、イエス様のために備えをしたあと、イエス様が登場したことを語っているのです。中でもルカによる福音書は、イエス様のご降誕に先立って、わざわざヨハネの誕生を語っています。クリスチャンの中にはもしかしたら、イエス様の誕生こそ大事で、ヨハネなんてどうでも良いじゃない、と思っている人がいるかもしれませんが、ヨハネが生まれてくれないとイエス様の誕生も何かが欠けていることになるのです。そこで今日は、ヨハネの誕生に込められているメッセージを受け止めたいと思います。ヨハネの誕生は神の御子イエス様ご降誕の物語の付け足しではありません。クリスマス物語の大きな枠組みの中にヨハネの誕生の話も入っているのです。

 

 この時代、ユダヤの国はローマ帝国の中にあって、ローマが任命したヘロデ王の支配下にありました。ヘロデは悪名高い人物で、猜疑心が強く、自分の権力を脅かす人間がいるとわかると、それが自分の妻であっても息子であっても殺してしまうような人だったので、ユダヤの人々は王の苛酷な支配におびえながら暮らしていたものと思われます。ヘロデ王の治世は紀元前37年から始まり、彼が死ぬ紀元前4年まで続きました。ヨハネやイエス様が誕生したのは紀元前7年前後だと考えられています。

 ザカリアはエルサレム神殿に勤めていた祭司でした。アビヤ組と書いてあります。アビヤとは昔、奴隷の民イスラエルを解放に導いたモーセの兄アロンの孫にあたる人物で(歴上2410)、その子孫は代々祭司を輩出した家系でした。妻のエリサベトもアロン家の娘ということで、二人とも由緒正しい家柄の出で、生涯を神に仕えて暮らしてきたのです。二人とも律法を守る正しい人で非のうちどころがありませんでした。ところがこの夫婦は子どもが与えられることを望みながら、それがかなえられないまま、すでに年を取っていたのです。今の日本では、初めから子どもは要らないという夫婦もたくさんいますが、この時代、夫婦に子どもがいないというのは大きな悲しみだったのです。

ザカリアはある日、神殿の主の聖所に入って香をたくことになりました。近年の研究によると祭司は7000人を超えると推定されていて、それが24組に分かれていました。7000人の祭司を24で割ると1組が約292人となります。それぞれの組が1年の内2週間、神殿に入って香をたく務めを受け持つことになっていました。その年、ザカリアが属するアビヤ組が2週間の務めを毎日1人ずつ行うためにくじを引いて14人を選んだ時、そこにザカリアが入ったのです。一つの組が292人、その中で毎年14人が選ばれ、1度選ばれた者は二度とくじに参加できないことになっていたので、ザカリアは一生の内に何度もあるとは思えない光栄ある務めについたことになるのです。

ザカリアの仕事は、神殿の中、大祭司しか入ることが出来ない至聖所の手前の部屋で香をたくことでした。彼が香をたいている間、大勢の民衆が神殿の外で祈っていました。それは祭司が民を代表して祈りつつ、すべての者の祈りが香のひとすじの煙のようになって神のみもとに届けられることを願って行われる行為でした。ザカリアの祈りと彼がたいたお香が、人々の祈りと共に天に昇って、神にささげられていたのです。

ところがその時、想像も出来なかったことが起こりました。主の天使が現れ、香壇の右に立ったので、ザカリアは不安になり、恐怖の念に襲われました。主の天使とは神の使いですが、いったいザカリアのように一生を神に捧げた人がなぜ恐れるのでしょうか。でも、それは当然のことなのです。神と人間の間には超えられない壁があります。神を神とも思わない人ならともかく、神を神とする人なら神の使いを恐れるのが当然です。救い主が誕生されたその夜、羊飼いたちも天使を見て恐れましたが、天使はその時と同様、ザカリアに「恐れることはない」と告げて下さいました。神の栄光の前に立っていられない人間に向かって、神自ら手を差し伸べて下さったのです。

主の天使はここで「あなたの願いは聞き入れられた」と言うと、エリサベトが男の子を産むことを告げ、その子をヨハネと名付けなさいと命じると共に、その子の将来のことを予告したのです。

 

ここには、よく考えてみなければならないことがいくつもあります。まず「あなたの願いは聞き入れられた」ということですが、いったいザカリアの願いとは何だったのでしょう。私たちが最初に思いつくことは夫婦の間に子どもが与えられることです。ザカリアとエリサベトが結婚以来長い間、子どもを授けて下さいと祈っていたことは間違いありません。しかし二人とも年を取ってしまってからは、そうした祈りは次第になくなっていったはずです。神様はもはや自分たちに子どもを授けては下さらない、とあきらめてしまっていたでしょう。もっとも、この時点でまだあきらめてなかったとしても、皆さんはザカリアが神殿の聖所の中でこのことを祈ったと考えることができますか。ザカリアが一生の間にもう二度とはないかもしれない大切な務めをしている時に「私たち夫婦に子どもを授けて下さい」と個人的な祈りを祈るなどということはとうてい考えられません。そうであるなら、ザカリアは別なことを祈っていたことになるでしょう。ザカリアはおそらく、イスラエルの民の救いを求めて祈っていたのです。歴史の中でたびたび神に背いて罰を受けてきたイスラエルの民は、その当時も自分の国を持つことが出来ず、ローマ帝国とヘロデ王の暴虐な支配下にあって搾取され、飼う者のない羊のように弱り果てていました。ですから同胞の救いを求める祈りには切なるものがあったはずです。神はその祈りを聞かれ、イスラエルの救いが現実のものとなることを示された、その結果がザカリアに子どもが与えられるということだったのです。

 

ザカリアはひたすら「イスラエルが救われますように」と祈っていたに違いありません。神はその祈りに応えて下さいました。ただ、それはザカリアに子どもを与えることを通してなされるのです。…そのことを理解できなかったザ

ザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と答え、天使によって口を利けなくされてしまいます。ここには重要な問題が含まれていますが、それは別の機会にお話しすることとして、私たちが今日特に注目したいのは、神は私たちを、とりわけ私たちの祈りを覚えていて下さるということです。

「ザカリア」という名前には「神は覚えておられる」という意味があり、このことは、神は私たち人間のことを覚えておられるということまで拡張して考えることが出来るのです。ザカリアただひとりだけではありません。誰であっても、神に願い、ひたすら祈り求めたことを、神はみこころの内にとどめておかれるのです。

ザカリアはこの時、神のみ前で、かつて妻エリサベトと共に真剣に祈っていたこと、つまり自分たちに子どもを授けて下さいという切なる願いがかなえられたことを聞くのです。自分では何がなんだかわからなかったとしても、です。神はザカリアとエリサベトの長い期間にわたる真剣な祈りを決して忘れてはおられません。二人がもうあきらめて口にすることもなかっただろう祈りを覚えておられ、そうして最もふさわしい時に、最もふさわしい方法で、これをかなえて下さったのです。

ザカリア夫婦の悲願を覚えておられた神は、彼ら二人を通して、ここで、皆さんひとりひとりの祈りをも覚えておられることを教えて下さっています。詩編56編9節は言います。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」。神は私たちの祈りを覚えて下さいます。もっともそれは、いい加減な、またおざなりな祈りということではないでしょう。真剣な祈り、涙を流すほどに苦しみの中から紡ぎ出された祈り、しかし神がなさることへの全き信頼の中から生まれた祈りを覚えて下さいます。そして、その涙が渇く時を準備して下さるのです。…神はご自分にささげられる人間の祈りをすぐにかなえて下さる時も、またザカリアとエリサベトになさったように、長い時間を経たあとでそれをかなえられることもありますが、その方を私たちが主なる神、また父なる神として礼拝することの出来る恵みは言い尽くすことが出来ません。

 

さて、ザカリアとエリサベトの夫婦に与えられる男の子は、ヨハネと名づけられるのですが、このヨハネについて天使は次のように告げています。「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や濃い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」。イスラエルの民は今は神から遠く離れているが、しかしヨハネの働きによって悔い改めて、神のもとに立ち返るのだというのです。さらに、「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。

ここで言われているのは大変なことで、皆さんは一度聞いただけでは何がなんだか意味がわからなかったと思います。ザカリアもそうだったので、トンチンカンな答えをして口を利けなくされたのですが。…ここで「父の心を子に向けさせる」ですが、原文では父も子も複数形になっていて父親たちの心を子どもたちに向けさせるとなり、「逆らう者に正しい人の分別を持たせて」と合わせて、人々のかたくなな心を正しい方向につくりかえるということになります。…ただ、もっと注目したいのは、ヨハネについて「主に先立って行き」という言葉があることです。主とはイエス・キリストのこと、ヨハネは主イエスに先立って世に現れるのです。そうして「準備のできた民を主のために用意する」というところから、イエス・キリストの先駆けとしてのヨハネの役割が示されていることがわかります。

このあと誕生するヨハネは成人したあと、主イエスの出現に先立って世に現われ、主イエスのことを伝え、悔い改めの洗礼を施すことになります。自分が主役ではないのです。先ぶれです。前座です。露払いです。自分のあとに現れるお方、イエス様こそメシアであるとして、イエス様をさし示すことに人生をかけることになりますが、このヨハネが誕生するに先立って、ザカリアとエリサベトの祈りに応えて下さった神のみこころがありました。ザカリアとエリサベトの苦しみの中からの祈り、すなわち子どもを授けて下さいという私的、個人的な祈りと、イスラエルの民を救って下さいという公的な祈りはこのようにして合体し、この二人の、想像だにしなかった恵みが与えられることによってかなえられたのです。

 

こうしたことを私たちの今いる場所から考えてみましょう。私たちそれぞれ自分や家族のことでお祈りしますね。その中にはザカリアとエリサベトのような真剣な、涙を流すような祈りがあるでしょう。また、それだけでなく、子どもが入学試験や入社試験に合格するようにとか、仕事がうまく行きますようにとか、いい人と結ばれますようになど、いろいろなことがあるのですが、そうした祈りがかなえられたらそれだけで良いのでしょうか。満足してそれで終わりですか。…実は神様は、私たちが捧げる祈りに対し、もしかしたらこれをはるかに上回る恵みでもって応えて下さることを考えておられるかもしれないのです。 

ザカリアとエリサベトの夫婦に息子が誕生することは、数限りない人々をイエス・キリストのもとに連れてゆくことにつながりました。私たちにそんな大それたことは起こらないとしても、自分たちの祈りが神様がなさろうとしているみわざにつながり、この世の中を少しでも良い方に向けることに貢献したり、自分自身も含めて一人でも二人でも、人をイエス様のもとに連れてゆくことになるのなら、これほど幸いなことはありません。

アドヴェントのこの時、神様が私たちの思いと祈りをこのように清めて下さいますように、と願います。

 

(祈り)

私たちの主イエス・キリストの父なる御神様。み名を賛美いたします。昔いまし、今いまし、やがて来たりたもうイエス様ご自身がこの礼拝を導き、私たちにクリスマスを迎える心の準備をさせて下さいました。

神様、この年、私たちがどうか不平不満の中でクリスマスを迎えるのではなく、神様が世界と自分の上にもたらして下さった恵みに対し感謝を捧げつつ、イエス様をお迎えすることが出来ますようにと願います。

ザカリアとエリサベトの願いは聞き入れられました。それも彼ら二人の思いをはるかに超えた形で。ひるがえって私たちはというと、みこころに沿わない、身勝手な、自分の幸せばかり願う祈りばかりしているかもしれません。神様は私たちの祈りを忍耐して聞いて下さっているのではないでしょうか。神様が私たちの祈りを、すぐに、そのままの形でかなえて下さることは多くないでしょう。しかし、私たちの祈りを清めて、私たち自身思ってもみない形でかなえて下さることがあります。その意味で、祈りが聞き入れられることを信じます。  

神様のそのような恵みを、私たちが心の底から深く受けとめることができますように。そうして時が来れば、それを自分の口で語り、喜びを他の人と分かち合うことが出来ますようにと願います。

 

神様、アドヴェントのこの時期、私たちが一歩一歩、この世にお生まれになったイエス様に近づいてゆくことが出来ますように、この祈りをとうとき主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン。