ドアをたたく主イエス

ドアをたたく主イエス  詩編861c2、黙示録3:1422  2022.11.27

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1253、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:10、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:94、説教、祈り、讃美歌:118、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

 今日からアドヴェント、待降節に入りました。この期間は、私たちがイエス・キリストのご降誕を待ち望む時として定められています。皆さんご承知のことかと思いますが、アドヴェントは毎年1130日に近い日曜日から始まり、4回の日曜日を経て1225日のクリスマスに至る期間です。これまでアドヴェントが始まると、日曜日ごとにろうそくを一本ずつ灯していましたが、今年は4回の日曜日を経て、5回目の日曜日が1225日、ちょうどクリスマスの日になります。そこで1225日に5本目のろうそくを灯すべきなのか、それともその必要はないのかと迷ったのですが、キリスト教書店でもろうそくは4本一組で売っており、5本一緒というのはありませんでした。…アドヴェントは1224日まで、クリスマス当日は4本のろうそくすべてに火を灯すという形になるでしょう。

 

 クリスマス(Christmas)というのは英語のChristmassが一緒になった言葉です。Christはキリスト、massはミサと訳される言葉ですから、クリスマスとはそのまま翻訳すると「キリストを礼拝する」という意味があります。クリスマスをXmasと書くことがあります。ギリシア語でキリストの頭文字を表す文字がXなので、Xに続けてmasと書くのは正しい表記です。ただしXの右上にコンマをつけると間違いになるので、コンマはつけないで下さい。

 ある人がこんなことを話してくれました。「XmasXという字は、掛け算のかけるとも読めます。クリスマスは人と人とをかけあわせる日です。イエス様がお生まれになったことを一人きりではなくて、誰か他の人のところに行って一緒にお祝いしましょう。ふだん話さない友だちに声をかけてみる、しばらく連絡しない人にクリスマスカードを書く、会ったことはないけど食べ物がなくて苦しんでいる外国の人にお金を捧げる、何でも良いのです。他の人のために自分ができることを考えましょう」と。

 キリストを表わすXが人と人とをかけあわせるというのはその人の思いつきで、聖書的な根拠は何もありませんが面白い表現ではないでしょうか。クリスマスはただプレゼントをもらったり、家族や友人などごく近い間柄の人たちだけでケーキを食べて楽しむような日で終わってしまってはもったいないです。そのようなクリスマスばかりが多くて、世の中には「え、教会でもクリスマスをお祝いするんですか」という人もいるくらいで、そこではこの日の主人公であるイエス様が忘れられてしまっています。イエス様が入ってこないクリスマスをクリスマスと言うことは出来ません。

 

 今日はヨハネの黙示録を取り上げます。ヨハネの黙示録とは、紀元1世紀、ローマ帝国の支配下で、過酷な弾圧や迫害に苦しんでいた教会に対して、慰めと励ましを与えることを目的として書かれた書です。著者のヨハネ自身、エーゲ海に浮かぶパトモス島という小島に島流しにされていた時に、ここに書いてあることを見たと記しています。

 ヨハネの黙示録はこの世の終わりに起こる出来事を書いたものとして知られています。それがこの時、弾圧や迫害の中で苦しんでいた人々をどのように慰め、励ましたかということはたいへん大きなテーマで、今後、機会を見つけて少しずつ語ってゆきたいと思っていますが、今日はこの書の初めの部分に注目しましょう。

ヨハネの黙示録の1章から3章にかけて、7つの教会に宛てた7つの手紙が収録されています。1章11節にこう書いてあります。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」。では、その声の主は誰かということになります。17節以下に「顔は強く照り輝く太陽のようであった」など、驚くようなことが書いてあるのですが、その方がこう言われています。「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(11718)。

皆さん、おわかりになったことでしょう。手紙の差出人はイエス・キリストご自身です。主イエスは7つの教会に巻物に書いた手紙を送れと言われます。7つの教会、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキア、これらはみな今のトルコの中にあって、それぞれ違ったタイプの教会です。そのため手紙の内容も一つとして同じものはなく、主イエスに称賛されている教会もあれば、厳しく批判されている教会もあります。…そこで後の世の信徒たちは、この教会はカトリック教会を、この教会はプロテスタント教会を表すというように、それぞれ自分が属する教会のことを思い浮かべながら読んできたのです。ここには広島長束教会とよく似た教会もあるかもしれないので、皆さんも、あとで7つの教会への手紙すべてを読まれることをお勧めします。

 今日はラオディキアの教会への手紙を見てゆきます。ラオディキアとはトルコの内陸部、コロサイの近くにあった町で、温泉地に近いところにありました。有名な医学校があり、目薬を作っていました。また織物業が盛んでした。ラオディキアの町は三つの幹線道路が交叉するところにあったので、急速に経済の一大中心地となってゆきました。そこは金持ちが多く住んでいる町で、教会の財政もたいへん裕福でありました。

 ラオディキアの教会は、主日ごとに礼拝を行い、イエス・キリストを宣べ伝えていました。ですから、いくら問題があったとしても、これが教会でないということは出来ません。この教会で信仰に導かれ、イエス様を救い主と信じ、これを告白して、救いに入れられた人たちがいるのです。主イエスご自身、「ラオディキアにある教会」と言って、ここが教会であることを認めておられます。

 しかしながら、この教会の人たちは、自分たちが経済的に恵まれていることをもって、それを神様の祝福のしるしだと思ったようです。そうして自分たちこそ最も恵まれた人間だと考えていました。彼らは言っていました。「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない」。…これはただ経済的な意味でだけそう言っているのではありません。たくさんの財産で満足してしまったら、もうそれ以上望むことはないではありませんか。霊的な、また信仰的な意味でも、これ以上望むものはないということなのです。このような教会を皆さんはどうご覧になりますか。

 ラオディキアの教会の人々のこのような態度は、主イエスの「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ624)という教えから遠く離れてしまっています。テモテへの手紙一の6章9節以下にも次の教えがあります。「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。」…多くの人々にとって、財産のあるところに心があります。中には、事業などでたくさんの収益をあげながら、それを神の栄光のために、尊い仕事のために捧げる人がいますが、それはなかなか困難な道です。富を地上に蓄えながら、心は天にある、神様がこういう稀有な人たちを用いられることがあると思うのですが、少なくともラオディキア教会の人たちはそうではありません。この人たちが罪の意識に悩まされたり、真剣に救いを求めたりすることはなかったに違いないのです。…イエス様のお話に出てくる徴税人は目を伏せ、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈って、神様に受け入れられました(ルカ18:9~14)が、ラオディキアの人たちにこんなことは金輪際ないのです。自分たちの信仰はすでに完成しているとみなしているので、自分を変える必要を認めませんし、誰の忠告も必要としていません。

この人たちの信仰を表す最もふさわしいのが「生ぬるい」という言葉です。「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」、主イエスが言われます。あなたは、「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」。…ここに、物質的な豊かさにひたりながら、しかし霊的には貧しい教会の姿があります。「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない」と言っている人たちが、実は、主イエスの前では「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」でしかなかったのです。

 

そこで20節の言葉です。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」。これはとても有名な言葉です。この時のことをハントという人が「世の光」という絵に描きました。よくカードなどになっています。夕闇の中、戸をたたいているイエス様の表情に何ともいえない神々しさが漂っています。

もっとも私は、この絵に描かれたイエス様がやさしすぎるように思っています。何と言いましょうか、「イエス様がトントンとやさしく戸を叩いている。その音が聞こえたら、善良なあなたがたは戸を開けるしかないでしょう」と言われているような気がするのです。しかし黙示録に書いてあるのはそんな穏やかな情景ではありません。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」、これは一人ひとりの心によりそうイエス様を意味していると考えられてきました。…神様を受け入れない、固く閉ざされたドアのような心があります。ノックして呼びかけるイエス様に気がついて、自分から戸を開ける人だけがイエス様を迎え入れることが出来る、たしかにその通りです。しかし今日はもっと先の方まで進んでみましょう。

主イエスが「見よ」と言われる時、それは注意を促しているのです。イエス様は外に立っておられます。なぜ外におられるのでしょう。戸の内側にはイエス様がいることの出来る場所がないのです。戸がしっかり閉められているからです。内側から鍵をかけられ、閉め出されているのです。それは一人ひとりの心のことと言うより、集団的なことです。イエス様はラオディキア教会の全体の意思のもと、その教会から閉め出されているのです。

自己満足しているラオディキア教会でも、教会である以上、確かに主日ごとにイエス様のことが語られ、聞かれていたでしょう。その内容が全部が全部、間違いだということではありません。しかし、そこにあるのは歪曲されたイエス様の教えではなかったでしょうか。水で薄めた、耳に心地よい、しかしその内実は空っぽな教えではなかったでしょうか。そうでないなら、「わたしは金持ちだ。満ち足りている」などという言葉が出て来るはずはありません。

イエス・キリストはご自分の名によって立てられた教会が、金持ちの仲良しクラブになり、心砕かれて神のみ前に立とうとするどころか、何一つ必要なものはないと満足しきっている状態にあることを許すことが出来ません。そのような教会に主イエスの居場所はなく、閉め出されています。だから戸の外に立って、たたき続けるのです。これは一度や二度のことではなく、何度も何度もいうことでしょう。

主イエスはこの教会に対して、すでに「口から吐き出そうとしている」と言われています。そこで明らかになったように、この教会を捨ててしまおうとされておられるのです。もしも戸を開ける人が誰もなくて、イエス様が中に入られることがないなら、ラオディキア教会はまもなく教会としてのいのちを失い、歴史の中で消えてしまうことでしょう。

しかしながら、「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば」、教会自体はもうくずれかかっていますが、一人でも二人でもイエス様に気づいて戸を開ける人がいるなら、…「わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」、イエス様が入られることで、教会はかろうじて再びよみがえるのではないかと思います。

 

クリスマスは2000年前にお生まれになったイエス様をお祝いするだけの日ではありません。過去の過ぎ去った出来事を記念するだけの日ではありません。今も生きておられ、いつの日かやがてもう一度地上に現われなさるイエス様をお迎えする日なのです。

人間は、古い、罪に汚れた自分のままで一生を終えてしまうことが多いのですが、それはキリスト者にとっても言えることです。信仰を告白し、洗礼を受けて救われ、古い自分にさよならしたつもりでも、いつのまにか心に垢がたまってきます。それをそのままにしておいたら、イエス様が入って来ることは出来ません。こうしてイエス様はどこに行ったんだろうとなります。いちばん大切なお方を外に置き去りにしたまま、その方が戸をたたいているのにも気がつかない教会が出来かねません。そんなことが良いはずはありません。

アドヴェントという言葉には待ち望むとか到来するという意味があります。それは自分が何もしないでただ待っているということではありません。アドヴェントからアドヴェンチャー、すなわち冒険という言葉が生まれました。イエス様の訪れを待つことは、教会の外に置き去りにしているかもしれないイエス様を再び迎え入れること、それはすなわち新しい世界に向かって心を開いてゆくことでもあるのです。クリスマスを待つこの時、教会が一つの心となって、祝福された新しい歩みを始めてゆきますように、と願います。

 

(祈り)

 天にいます、主イエス・キリストの父なる神様、今日の礼拝を待降節主日礼拝として、この世界においで下さったイエス様をお迎えする準備をさせて下さったことを感謝申し上げます。

 神様。クリスマスは喜びに満ち足りた世界にさらに喜びを増し加えるためにあるのではありません。悲しみの中に喜びが現われた日です。今年はウクライナやミャンマーなど、戦争や暴力行為で世界が大きく揺れた年でありました。血塗られた、暗黒の年であったと歴史の中で刻印されるかもしれません。しかし一本のろうそくが暗闇を明るく照らすように、イエス様の光が全世界を明るく照らし、平和への道を指し示す、そのようなクリスマスが全世界の教会の上に訪れ、この教会にもその恵みが与えられますようにとお願いいたします。

神様、もしも私たちの中にイエス様を教会の外に閉め出すような心がありましたら、どうか取り除いて下さい。自分だけの喜びに閉じこもらず、出来る限り多くの人たちと共に、そして何よりイエス様ご自身と共にお祝いするクリスマスが訪れますように。この教会を通して救いに導かれている人たちの中で、クリスマスの恵みからもれる人が一人もいませんように、と願います。

1225日のクリスマスに至るまでの、私たちの教会と一人一人の歩みを祝福のみ手の内に置いて下さい。この祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によってお捧げいたします。アーメン。