神が開かれる祝宴

  神が開かれる祝宴 イザヤ25110、Ⅰコリント155055 2022.11.20

   

(順序)

前奏、招詞:詩編1252、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:7、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:87a、説教、祈り、讃美歌:166、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 イザヤ書25章は、先月ここで学んだ24章に引き続いて、世界がこれからどうなるかということを告げています。この未来預言が与えられたのは紀元前8世紀から7世紀にかけての時代、イスラエル民族はエルサレムとその近郊にユダという国でまとまっていましたが、これは小さな、力の弱い国で周囲の超大国からたえず脅かされ、まるで風前の灯のような状況にありました。この人々に向かって、神は諸民族とこの世界の未来を預言者イザヤの口を通して語られたのです。…24章1節では「見よ、主は地を裸にして、荒廃させ、地の面をゆがめて住民を散らされる」、17節には「地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む」、このようにまことにただならぬことになっています。世界はこの先、一挙に終末へと向かってゆくのです。しかし、この時、世界のすべてが滅ぼされるというのではありません。全世界にこれまでなかったような災いが及ぶ中、そこから、大洪水の中を生きのびたノアのように救われる人たちがいるのです。2416節では、地の果てから、『主に従う人に誉あれ』という歌声が聞こえてきますが、これは苦難の時代を生き残った人々の賛美の歌です。

 私たちはふだん、世界の終わりなどということはあまり考えません。毎日生きていくだけで精一杯、明日のことなど考えられないという人がいるかもしれませんし、それほど切羽詰まった状況にはないとしても、いま自分と家族が幸せであればそれでいいので、1年後、2年後のことは心配しても、世界の終わりなんて考えたこともないという人がいることでしょう。ただ2020年から始まった世界的なコロナ危機を見るだけでもわかるように、私たちはいつ何が起こるかわからない時代に生きているのです。かりに何かが起こって、この先、世界が、そして日本が破局に陥ってしまったとしたら、その時私たちが生きていても死んでいたとしても、人生をかけて積み上げてきたものすべてが水のあわになって消えてしまうかもしれません。そんなことがあって良いはずはないでしょう。皆さんは、この先世界がどうなったとしても、自分のしてきたことが神様の前に無駄ではなかったと喜ぶことが出来る、そんな人生を送りたいとは思いませんか。

 

聖書が教える世界の未来というのは、その根底にたいへん深刻な人間理解があります。人間が自分の力で明るい、輝く未来を築く、などということは一言も言っていないのです。しかし、それは暗黒の未来を指し示しているかというと、それとも違うのです。

 今年2022年から振り返って少し昔のことを思い出してみましょう。1960年代は世界的に「ばら色の未来」ということがよく言われていたと思います。人類の英知が未来を切り開いて、明るい世界が訪れるという思いが広く共有されていました。日本におけるその象徴ともいうべきものが、1970年に大阪で開催された万国博覧会と太陽の塔でした。

 たいへん大雑把なことを言いますが、人間が自分の力で明るい世界をつくることが出来るとする考えはこの他にもたくさんあって、そこには進化論とかマルクス主義なども複雑に絡んでいるのですが、今日それらの多くにはかつての時代ほどの輝きはありません。早い話、今の時代、何でも良いのですが、感動に胸がふるえるような理想が見えにくくなってしまいました。…ある人は経済が良くなってものが豊富になれば世界は良くなると考えます。ある人は共産主義の理想を掲げます。天皇を中心とする社会を築くことで日本は蘇ると主張する人もいます。まだまだたくさんありますが、なにか新しい教えとかイデオロギーが出てくると、これが世界を救うと信じて、その理想の実現のために人生をかける人が出て来ます。しかし時がたつと、その陰に隠れてそれまで見えていなかった欠陥が見えてきます。その教えが決して世界を救う絶対のものでなかったことが暴露され、やがて賞味期限が来ると顧みられなくなる、世界の歴史はこんなことばかり繰り返しています。キリスト教がそのような教えの一つであってはなりません。

遠大な理想をかかげたいろいろな教えやイデオロギーのめっきがはがれてしまうと、今度は理想を追い求めていっても無駄だとなりがちで、そこには権威主義とか軍事偏重とかまた別の流れが出て来ます。

 これをイザヤ書を通して見てみると、明るい未来が実現しないと悟った人々が容易に絶望に陥るのはわかりきったことではないでしょうか。超大国に囲まれて風前の灯状態だったユダの国で、人々は心に深い絶望を抱えたまま、今が良ければ良いと刹那的な楽しみだけに生きていたように思われます。イザヤ書8章22節はそのような時代のことを「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放、今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」と書いていますが、このようなことが現代にあっても不思議はありません。私の知人のひとりはいつも「どうせ人類は滅びる」と言っていました。明るい未来が来ないのだと悟ると、今度はすべてのことを斜に構えて見る人やがんばっている人を見てあざ笑う人が出てくるものです。さらに、これが極端になると、自分のかかえる絶望の中に他の人たちを巻き込もうとする人まで出て来ます。

 それでは聖書が教えているのは何でしょう。…聖書は夢や理想を無邪気に掲げているのではありません。今日の箇所、25章6節の「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」を例に取ってみると、みんな自動的にこの祝宴にあずかることが出来るのだから喜びましょう、と神様から頂く救いを安売りしているのではありません。…しかしその反対に、世界は悪くなる一方だ、人類は滅びる、もうだめだと絶望の思いをあおろうとしているのでもありません。

古今東西、夢や理想が無惨に打ち砕かれてしまったり、目の前が絶望でしかないように見えることはどこにでもありました。人間が自分の力で素晴らしい世界を築くことは、これまでの幾多の失敗例を見るまでもなく、とうてい出来ないことです。けれども神がおられるのです。神は、罪深い人間たちが織り成すこの世界が破局に陥るのを良しとされるでしょうか、そんなはずはありません。神様を信じている限り、絶望はありません。絶望を突き抜けたところに神のご支配が輝き、世界に及ぶことをイザヤは語っているのです。

 

 ここで長束教会で毎月行われる聖餐式の式辞を思い出してみましょう。「わたしたちはいま、主イエス・キリストによって制定された聖餐に、あずかろうとしています。これは、主イエス・キリストが十字架につき、わたしたち罪人の救いのために成就してくださった贖罪の犠牲をあらわすものであり」、このあとに注目して下さい。「終りの日にあずかる主の祝宴をあらかじめ告げるものであります。」、イザヤ書に出てくるのはこの祝宴なのです。

 25章は神を賛美する言葉から始まります。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます」。

 私たちはなぜ神を賛美するのでしょう。賛美の言葉に続く言葉は、「あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって」。イザヤが、そして私たちが神を賛美するのは、神が真実な方だからです。神は遠い昔から揺るぎない真実をもって世界を導かれました。そのことは天地創造、アブラハムの召命、出エジプト、ダビデとソロモンへと続く、神の民の歩みの中で明らかです。こうして3節「それゆえ、強い民もあなたに従い、暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる」。ここで、未来における神の勝利を告げているのです。

この時ユダの国は風前の灯状態なので、神様はどこにおられるのか、どうしてわれわれを助けて下さらないのかと思っている人がたくさんいたことでしょう。しかし神様はこのまことに厳しい現実のただ中で、驚くべきみこころによって、世界を救う計画を進めておられます。…神のみこころとは苦しんでいる世の人々を見ながら我関せずということではありません。4節、「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦」、神様がどういう人々の側に立っているかはここに明らかです。続けて「豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる」。かの地では今でもすさまじい豪雨があり、また夏の暑さも半端なものではないそうですが、もちろん自然現象だけが人々の苦しみの原因ではありません。「暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨、乾ききった地の暑さのようだ。」暴虐な者の勢いが豪雨と暑さにたとえられていますが、人間が人間の力によってこれに打ち勝つことは出来ません。暴虐な者に対抗するためにいっそう暴虐になるので、この世から暴虐を取りのけることが出来ないからです。しかし神はこの暴虐な者たちを鎮められるのです。

 

 この世の終わりに神が全世界において勝利され、こうして万軍の主が開かれる祝宴となります。6節、「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒」、これが終りの日の祝宴です。神を信じる者たちはその時に生きている人も、すでに死んで眠っている人もよみがえって、祝宴に集められます、「すべての民」と書いてあることから、あらゆる民族の中から招かれていることになります。この中には、信仰を貫いてゆくために苦しい目にあった人がいますが、みな永遠の安息にあずかるのです。

 イザヤの時代には脂肪に富む肉が尊ばれていました。その肉は食べ放題、お酒も飲み放題ですが、これは永遠の世界でのことなのでコレステロールを気にしたり、酒で頭が痛くなることを心配する必要はないのです。ここにあるのは、信仰を貫いて生きた人々を神様がねぎらって、祝福を与えられるということです。誰でも、どんな民族に属していても、神を信じて救われた人々はこの祝宴に招かれるのです。

さらに78節をご覧ください。ここには、「主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。」とあります。

この覆いとは、主の栄光を見えないようにするために遮断していたもので、これが取り除かれるわけです。この覆いについて第二コリント書の316節以下にこう書いてあります。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

この覆いとは、人の心にかかっている雲のようなもので、心に覆いがかかっているために人は神様のなさることが見えにくくなっており、イエス・キリストの栄光を見ることができなかったのです。しかし、神が完全に勝利された世の終わりにこの覆いは取り除かれます、こうしてヨハネの黙示録21章に書かれている「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録2134)ということが起こり、こうして、ついに「死を永久に滅ぼしてくださる」ということが実現するのです。

神は人間にとっての最大の敵、死を滅ぼして下さいます。人間は必ず死ぬもので、死んでから蘇った人など誰もいないと思っている人はこれを聞いて、あまりのことに信じられないのではないでしょうか。これが誰か人間が考えだしたものなら、笑い飛ばすことも出来るでしょう、しかしこれは、神様が示された約束の言葉です。遠い昔から、深いみこころによって驚くべき計画を成就してこられた神は、その最後の総仕上げとして、死を永久に滅ぼして下さいます。死は勝利にのみ込まれてしまうのです。

このことを知った人たちは神を高らかに賛美して言います。「見よ、この方こそわたしたちの神、わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる」と。       

 

 2022年現在、神が約束なさったこの世界はまだ出現していません。世の終わりがいつ起こるかもわかりません。しかし、キリストを信じる者はその日を待ち望みつつ、生きることが許されています。

 その日が来たら、それはもちろん喜ばしいことで、文字通り天に昇る心持ちになるのでしょうが、それがいつになるかわからなくても、その日を待ち望んで生きていくことが出来るのです。それは、前途に希望を持たない人の生き方ではありません。

 この世の中には、これから世界が良くなっていく、自分の人生もばら色だとすべてに楽観的な人がいるでしょう。今が楽しければそれで良いのだと言う人もいるでしょう。その反対に、いま戦争や環境破壊などさまざまな問題に悩む世界のことを心配し、また死へと向かってゆく自分の人生を思うことで不安にさいなまれる人もいるでしょう。私たちそれぞれも揺れ動いていますが、聖書はノーテンキな楽観主義や刹那主義を唱えているのではなく、また人を絶望に導いてゆくのでもありません。人を苦しめるのはすべて罪から来るのです。自分の中から出て来る罪、他の人から押しつけられる罪、しかし神はイエス・キリストを世界に遣わされることで、罪からの救いの道を世界に示されました。イエス・キリストを信じる者にも罪とのたたかいは終始ついてまわり、そのことで悩み苦しむのですが、終りの日に死が滅ぼされる以上、罪も滅ぼされます。

私たちもいつの日か万軍の主が開かれる祝宴に招かれ、永遠に神と共に住むようになる、そのことを覚えて、たとえ今が苦しみの中にあっても、希望のうちにこの時を過ごしてまいりましょう。

 

(祈り)

 

 主イエス・キリストの父なる神様。今日、神様は私たちに世界への警告の言葉とそれに続く祝福の言葉を語って下さいました。私たちの平凡な日常生活の中に切り込んでくる神様の永遠の真理は、私たちを打ちのめします。そこには、全世界を襲う大きな苦難が予告されています。しかし、神様がこれを行われる以上、それは最後に全世界の救いにつながることを教えられ、感謝いたします。終りの日が私たちの生きている間に起こるかどうかもわかりませんが、どうかここにいる者たちすべてが、礼拝を重んじ、信仰生活に励み、命に通じる道を見出すことが出来ますように。神様の守りのもと、今から終りの日のための備えを始めることが出来ますように。私たちがみな神様の確かな救いのお約束から生まれた確信に生きること、その確信に支えられた愛に生きることをゆるし、命じて下さい。また、いまだ神様に出会わず、神様の驚くべき力のことを何にも知らないこの国の多くの人たちに、神様をおそれ、救いを渇望する気持ちを起こして下さい。この願いと祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によってお捧げします。アーメン。