人を裁くな

人を裁くな     詩編501~7、マタイ715    2022.11.13

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1251bc、讃詠:546、交読文:詩編85:9~14、讃美歌:23、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:83、説教、祈り、讃美歌:532、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 イエス・キリストが語られた説教の中から、「人を裁くな」ということと、これに関連する言葉を学びましょう。

もしも鏡というものがなかったら、人間の社会は今よりもさらに乱れてしまうことでしょう。人間の目は自分の姿を見ることが出来ませんが、しかし他人の姿は実によく見えます。ご飯粒が顔についていて自分ではわからなくても、目の前の人のことで見落とすことはまずありません。ほとんどの人は家から外に出る時に鏡を見て髪を直したり、化粧したりと、外に現れた自分の姿に気を配っています。しかしそれに比べて、自分の心の中のことについてはあんがい無頓着です。かりに人間の心の中をうつしだす鏡が発明されたら、人は自分の内面をもっと磨こうとするでしょう。何を守るよりも自分の心を守ることに集中したら、それはなんらかの形で外側にも反映することでしょう。

人間の心の中を写し出す鏡はいったいどこにあるのでしょうか。

 

イエス・キリストは「人を裁くな」とおっしゃられました。7章1節から5節まで、これは裁きについて語られている場所です。しかし、いったい裁きとは何でしょうか。……ここを見て、これは裁判所が行う裁判をすべて否定しているのかと思った方がおられるかもしれませんが、そうではありません。主イエスはこの世の中で起こる不条理や社会問題や悪の跳梁に対して、善悪の判断をするなと教えているのではありません。そのことは、聖書の中で、この世の悪とたたかう幾多の人たちが出ているのを見るだけで、明らかです。また、教会の中でもしも間違ったことが起こったとしても、これに責任ある人を批判することが禁じられているのではありません。

ここには「人を裁くな」のあとに「あなたがたも裁かれないようにするためである」と書いてあります。これは何を教えているのか、まず思いつくのは、自分の欠点は見て見ぬふりをして、他の人ばかり批判しがちな人間を戒める言葉だということです。自分の欠点に目をつぶったまま人を批判しても、やがてその矛先は自分に帰ってきます。でも、それだけがすべてでしょうか。というのは、人からなんだかんだ言われるような欠点がない人なら、人を裁いてもいいんだという、変な理屈が出来あがってしまうかもしれないからです。

ということで、ここに書いてあることを注意して読んでいかなければなりませんが、「人を裁くな」ということが他の人たちに対する正当な批判を否定しているのでなければ、そこから見えてくることがあるはずです。

「人を裁くな」、ここで「裁く」と訳された言葉を原文から調べてみました。なかなかややこしいのですが、辞書によるとここでは「断罪する」という意味で使われているということです。

裁判において、かりに審理を尽くすことなく、無実かもしれない容疑者を偏見によって一方的に犯人と決めつけ、厳罰に処してしまう、世論もそれに同調してしまうとするなら、それはイエス様がここで言われた「人を裁く」ということに当てはまります。

 また、私たちにとっては、他の人のことでこそこそ悪口を言ったり、あるいは声高に罵倒するということがあれば、これも「人を裁く」ことに当てはまるでしょう。

誰もがよく知っていることですが、人間にとって他の人をほめるより、悪口を言う方が楽だし簡単なのです。人の悪口を言っているとき、その場がもりあがることがよくありますが、その逆に人をほめる時は、残念ながらあまり盛り上がらないようです。……「よく出来た嫁で」、「とても良いお母さんで」、こんな話をしているところは苦手だからと逃げ出したくなってしまうのに、あの人はこんなひどいことをしたとか言ったとかいう話題の方ばかり好き、そんな人はいないでしょうか。これに正義感から来る怒りが加わったら、手に負えないことになりがちです。

他の人の悪口を言っている時、人はその兄弟を裁いているのです。聖書がどう言っているか、ヤコブの手紙4章11節と12節を見てみましょう。「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。(あっこうとわるぐちは同じです)。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」。

この文章は「もし律法を裁くなら」など一読しただけではわかりにくいのですが、今日は取り上げません。ただ12節の「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです」、これはわかりますか。神です。「兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁く」人は、神様がなさることを侵害しているのです。

他の人の悪口を言ったり、声高に罵倒するようなことは、この世の中だけでなく教会の中でも起こることがあります。…しかしこのことは、先に申し上げた通り、他の人に対して正当な批判をしてはいけないということではありません。たとえば715節になると「偽預言者を警戒しなさい」と言われています。教会に入ってきた人がやがて指導的立場に立って、そこまでは良いのですが、信仰的におかしなことを教えるようになったという場合、たとえば牧師が「イエス・キリストは神ではなく人間だ」とか「人が救われるためにはイエス様の十字架ではまだ足りない」などと教えたら、たとえ立派な人柄の人だったとしても、教会員はその人の本性を見抜き、忠告すべき時には忠告し、批判すべきですし、それでも態度を改めなければ職務を停止させなければなりません。

ということで、これまで述べたことをまとめますと、主イエスがここで「裁くな」と戒めておられるのは、社会の中やまた教会で起こる正当な、また公的な訴えや批判とは区別される断罪、つまり私的な個人的判決であり、精神的なリンチです。かげでこそこそ、あるいは大っぴらに悪口を言うことで、そこには悪意がこもっています。それは、これを言われた人をいたく傷つけることになるのです。

 

それでは「人を裁くな」と言われる理由の深いところを探ってみましょう。

まず、それは「あなたがたも裁かれないため」ということです。人の悪口を言えば、今度は逆に悪口を言われてしまいます。人と争いたくなければ、まず人のことを良く言うに限ります。その意味では「自分が裁かれるのがいやなら、人を裁かないようにしろ」というのは、世の常識に照らしても正しい知恵でしょう。

しかし主イエスのおっしゃるのは、ただの常識的な処世術ではありません。「あなたがたも裁かれないようにするためである」、ここには誰から裁かれるのか書いてありませんが、実は、それは信者たちの間ではわかりきったことでありました。皆さんは想像出来ますか。……神に裁かれるのです。終わりの日に、永遠の世界で、神様に裁かれるのです。…ですから主イエスが言っておられることは「人を裁くな。自分が神から裁かれることがないためである」ということになります。

その時の裁きは「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」ことになります。人は自分が誰かの欠点をあげつらって裁く時、自分の方がその人より上にあると見なしているものです。だとすれば、神様もまさにそれと同じように、高いところから要求をつきつけてくるでしょう。人に向かって要求する水準が高い人は、今度は神様から、自分自身それだけ多くのことを求められ、高い水準のものさしで裁かれることを覚悟しなければなりません。

主イエスはこうしたことをたとえをもって示されました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。目の中におが屑が入ることはありえることですが、丸太が入ることは考えられません。これは事がらを誇張した大げさな表現と考えて下さい。

「兄弟の目にあるおが屑」を見つけることはそんなに簡単ではありません。自分の前にいる人の目が充血したり、涙がポロポロ出るのを見たら、何かあるらしいとはわかっても、悲しくて涙が出たのか、目に何か入ったのか、それも土ぼこりなのかおが屑なのか、すぐにはわかりません。しかし自分の目におが屑が入れば、それがどんなに小さなものでもすぐわかるはずです。

ところが兄弟を裁く人というのは全く逆なのです。人の目が充血したり、涙を流しているのを見つけたらすぐにおが屑が入っているからだとわかるのです。このたとえを翻訳すると、相手に、お前、何か悪いことをしているな、と言うことなのです。さらに、どこに、どういうものが入っているかまで指摘します。それを取ってやろう、とさえ申し出ます。…つまり、お前の悪いところはこれなんだ、性根をたたき直してやろう、と言うのです。…ところがその時、そう言っている本人の目は、涙にかすんで見えもしない、しかも自分の目の異常に全然気づいていないのです。…そんな人が、他人のだめなところ、悪いところを直そうとする、これは全くこっけいなことではないか、と主イエスは言われているのです。

それでは、どうすれば良いのでしょう。どうすれば兄弟を裁いてばかりいる自分自身の誤りを正すことが出来るでしょう。そのためには、主イエスが「偽善者よ」と呼んでおられるのが自分ではないかどうか、真剣に検討しなければなりません。

主イエスは「まず自分の目から丸太を取り除け」とおっしゃいます。もしも自分の目に丸太があればというのではありません。どんな人でも、その目の中に丸太があるのです。…丸太とはその人の罪を意味しています。人間の中に巣食う罪というのは、どんな人であってもまるで丸太のように大きいのです。

各自がその心の中に持っている罪を認めなければなりません。中には、自分には罪がないとか、自分にはいっさいやましい思いはないという人がいるかもしれませんが、それは人と人の間でだけ生きているからそうなるのです。心の底から神様を仰いだ時、自分には罪がないなどと言えるものではありません。だから、神様に背いている自分を知った上で、つまり自分にある罪を自覚した上で、それでもまだ自分が他の人を裁く資格があるのか、精神的リンチを加えるのが良いことかどうか顧みなくてはなりませんが、もちろんそんなことをして良いはずはありません。

肝心なことは、自分の中から丸太を、つまり罪を取り除くことです。簡単なことではありません。その難しさを知った上で、それでもなお他の人の罪をただす力が自分にあるのかどうか、考え直してみなければなりません。人間には出来ない、しかし御子イエス様を十字架につかせて全人類に救いへの道を開いて下さった神様なら出来るのです。そこに至る道を求めてゆきましょう。そして今度は、その同じ恵みを、兄弟と分かち合うことが出来ますように。

 

「人を裁くな」という教えは、だから、他の人の欠点やその人がしている悪いことについて目をつぶってなさいという教えではありません。主イエス・キリストによる罪の贖いのみわざの下、自分も兄弟たちも、共に恵みの座に立つことを促す教えなのです。

 

(祈り)

 

主イエス・キリストの父なる神様。私たちは人のあらさがしをすることが好きで、人の悪口を言って楽しむことが好きですし、大した理由もないのに人を叱責することだってあります。テレビなどで有名人が失敗するニュースにふれたりすると、あああの人も自分と同じだなと思ったり、またその人が不幸になるのを見て楽しむこともあります。それでいて、自分の欠点は目に入らない、愚かな者たちです。どうか私たちの目を清めて下さい。愚かな罪から解き放って下さい。主イエスを鏡として、心の中を磨くことが出来ますように。兄弟を裁いて、その人を陥れるのではなく、愛をもってその人とともに生きる者となることが出来るように、平和の主の恵みを注いで下さい。とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。