空の鳥、野の花

空の鳥、野の花   詩編5523、マタイ62534  2022.11.6

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1248、讃詠:546、交読文:詩編85:9~14、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:312、日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式と205)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 私たちの毎日に思い悩みはつきものです。今日の聖句にあるように、何を食べようか何を飲もうか、また何を着ようかといったことについて、それらが十分に足りている恵まれた人でも思い悩みます。もちろんそれらが手に入らない場合は、命にも関わることなので思い悩み、必死になって手に入れて来なくてはなりません。

 思い悩みの原因になることとしては食べること、飲むこと、着ること以外にも人間関係のこと、限りある人生についてなど無数にあるわけですが、それらにぶつかった時にどう対処するかということに一人ひとりの性格が現れます。小さいことをくよくよ気にする人もいれば、豪放磊落、細かいことにこだわらない人もいますが、思い悩みの原因になることを一切気にとめないことはなかなか出来ることではありません。

 私たちのほとんどは、「思い悩むな」と言われてもそうすることが出来ない、さまざまな事情をかかえています。そこには「神様、どうしてなんですか」と叫ぶしかないような過酷な現実もあるはずですが、その点は2000年前の世界でも変わりません。…イエス・キリストは自分ひとりが安全地帯にいながら、さまざまなことで思い悩む人たちに「落ち着け、落ち着け」と言っているのではありません。イエス様ご自身、ガリラヤ出身、貧しい人たちの中で育ち、共に暮らしてこられた方です。この時、イエス様のお話を聞いていた人たちにとって最も切実な問題は、今晩食べるパンをどうやって手に入れようかという生活上のことでした。もちろん人間関係のことなどもあると思いますが。イエス様は、当時の普通の人々が生きていくためにどれほど苦労しなければならないかを知りつくした上で教えておられるのです。

 

それでは主イエスはどういう理由があって、思い悩むなと言われるのでしょうか。今日の箇所はたいへん有名なところなので、頭にインプットし、自分なりの解釈をしている人も多いかと思いますが、そこから見てみましょう。…34節の「明日のことまで思い悩むな」は口語訳の「あすのことを思いわずらうな」という翻訳で広く知られています。漫画サザエさんの作者、長谷川町子さんの一家はクリスチャンです。長谷川町子さんがまだ有名でなかった時、町子さんの母親にあたる方が、教会に献金を捧げに来ました。「こんなにたくさん、大丈夫ですか」と驚く牧師に向かって、彼女は、「聖書に『あすのことを思いわずらうな』と書いてあります。私はこれを『あしたはあしたの風が吹く』と解釈しております。私たちのことでしたら心配ありません」と言ってお金を置いていったとか。作り話かもしれませんが。こういう解釈を皆さんはどう思われるでしょう。ユーモアの一つだと受け取って下さればいいのですが。

――空の鳥も野の花も働いているわけでもないのに、神様は養って下さる。だから何を食べようか飲もうか、生活のことでくよくよ悩むことはない。今日がだめならあしたにしましょ、あしたがだめならあさってにしましょ、あさってがだめならしあさってにしましょう、どこまで行ってもあすがある……そんなノーテンキな生き方を肯定する言葉として、聖書のこの部分が用いられてきたということもあるような気がします。

「思い悩むな」と主イエスは言われます。しかし、何にも思い悩むことのない人がいたら、その人はどうかしちゃっているのではないかとふつう、私たちは思うのです。この世界に、日本に、思い悩みの種は尽きることがありません。

日本の将来はどうなるだろう、われわれの次の世代はどんな時代を生きるのか、それよりうちの家族の10年後はどうなっているだろう。そのとき自分は?……そういうことを考えれば考えるほど、不安が心の中に高まってきはしないでしょうか。これが考えすぎならいいのですが。そういう私たちに主イエスは「思い悩むな」と言われることで、いったい何を教えておられるのでしょう。

そこである人は主イエスのことを夢見がちの芸術家と考えました。空の鳥を見て、野の花を見て、ロマンティックな空想にふけっている世間知らずの夢想家がイエス様だと考えたのです。……この人は美について理解がない人かもしれません。自然の中を飛び回る鳥や、ひっそりと咲いている野の花を見て美しいと思う気持ちは大切にしたいものです。……とはいえ昔の人ならいざ知らず現代人なら、空の鳥にせよ、野の花にせよ、外側から見えるほどのんきな生活をしているとは思わないでしょう。自然の世界が弱肉強食の世界だと言うことを私たちはよく知っています。悠々と空を飛んでいるように見えるのは食物連鎖の頂点に立つ鷹とか鷲のような鳥だけ、それらも懸命に生きているとは思いますが、それ以外の普通の鳥は、自分より強い鳥に襲われる危険に身をさらしながら、その日の食べ物を求めて必死に飛びまわっているのです。また、植物に心があるのかどうかわかりませんが、花粉を飛ばし、虫を呼び寄せて種の保存をはかる野の花の一生も気楽なものではないでしょう。空の鳥や野の花を見ながら、それらが何の苦労もなく生きているように思うのは、実際とはかけはなれています。     

主イエスは夢を見ながら、私たちに浮き世離れした生活を勧めておられるのでしょうか。もちろん、そういうことではありません。

主イエスは空の鳥と野の花をよく見なさいと言われます。よく見てみましょう。彼らは思い悩む必要のない安全地帯にいるのではありません。30節の「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草」という言葉が、彼らが生きている状況を如実に現わしています。空の鳥も野の花も、いつ自分を襲ってくるかわからない危険の中に生きている、か弱い生き物にすぎません。しかし彼らは、人間の心をとらえて離さない思い悩みなどまるで知らないかのように、真剣に、生き生きと、またかれんに生きています。それはどうしてなのでしょうか。

そこで注目したいのは、空の鳥について「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」、野の花について「働きもせず、紡ぎもしない」という言葉です。鳥たちは、自分で何かを栽培して食糧を確保することをしていません。花も自分で何かを裁縫して着飾っているのでない、とイエス様は言われます。彼らは、すべて与えられたものを得て生きているのです。鳥が木の実を食べる時、それは自分の手で造ったものではなく、神様が実らせたものを食べているのです。花も自分で着飾っているのではありませんね。神様が美しく作って下さっているのです。つまり、鳥も花も神様に養われている、この神様の支えを見なさいということです。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださ」います。明日命が失われてしまうかもしれないものでさえ、神様は見捨てられることなく支えておられ、そのことに鳥も花も何の不平も持っていません。まして、神様はあなたがたを最後まで支えて下さいます。神様があなたがたを支えて下さっていることを空の鳥や野の花を通して見なさい、とイエス様は教えておられるのです。

 

ここで私たちは、空の鳥や野の花のように生きることが出来ない自分を振り返ることが良いでしょう。私たち人間を、彼らのように生きられなくしている「思い悩み」とは、いったい何ゆえの思い悩みなのでしょうか。そこで25節を見てみましょう。「だから、言っておく」から始まっていますから、これはどうしたってその前にある言葉を見なければなりません。24節には「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」と書いてあり、これに引き続いて「思い悩むな」という言葉が出てくるわけです。従って「神と富に仕えることはできない」ということと「思い悩む」ことには密接なつながりがあることがわかります。

人間が一方で神様に仕え、一方で富という神様以外のものに仕えている限り、どっちつかずになって思い悩みから解放されることはありません。主イエスは「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と言われます。ここに出て来る命は単なる肉体の命ではありません。魂という意味もあって、魂と訳すことも出来る言葉です。ここからわかることは、「あなたがたの天の父は、食べ物にまさる命を、魂を、また衣服にまさる体をあなたがたに与えて下さったのだから、食べ物も衣服も与えて下さる。天の父は、食べ物や衣服があなたがたに必要なことをご存じなのだから、思い悩むな」ということにほかなりません。最も大切なものを与えて下さった神様は、それ以外のものも与えて下さる、だから一番大切なことを差し置いて、それに次ぐことで思い悩むなということです。

……もしもこれほどのみ言葉が与えられているにもかかわらず、私たちが「何を食べ何を飲み何を着ようか」ということばかり思い悩んでいたとしたら、それは私たちが自分に命と体を与えて下さった神に信頼を置いていないということになりはしませんか。空の鳥や野の花は、神様を信頼せずに思い悩んでいる私たちにとっての教師なのです。

 

皆さんにはこういう経験がないでしょうか。重い責任を負わされて、あれもしなければならない、これもしなければならないと心身を緊張させながら仕事に立ち向かっています。疲労がたまり、いろいろなことが心配になりだします。人は頼りにならない、肝心の仕事ははかどらない、思わず冷や汗がこぼれます。どうしよう、大丈夫だろうか、……。しかしそんな時、誰かが自分の肩に手を置いて、そばに立ってくれた。いたわりの言葉をかけてくれた。すると、それだけで気持ちがとても楽になり、心がひろびろとしてきます。ほっと肩のこりがほぐれたような感じになります。

つまり、自分一人で何もかもやらなければならないというのではないのです。自分は一人ぼっちではない、自分より強いお方がついている。そのことを知った時、自分と世界の関係は全く変化しています。神様のことを思いもしないで、一人で人生の課題に全部立ち向かおうとしても出来るものではありません。緊張し、疲れはてたその気持ちをいやし、克服するものは、神様が自分と一緒に働いておられるという事実のほかにありません。

だから「思い悩むな」という言葉は、「心配したってしようがない」とか、「なるようにしかならないんだから、くよくよするな」というようなありきたりの人生訓ではありません。あなたと共に神様がいるのだから、神様に信頼し、思い悩みを聞いてもらって、もう一度やってみよう、そのような呼びかけなのです。

主イエスはさらに「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われます。神の国は近づいています。いや、すでに始まっています。そのように、神は世界の中、私たちの歴史の中に、そして人生のあらゆる場面のただ中におられ、働いておられるのですから、この神様に信頼する時、食べること飲むことなど生活上必要なものはすでに備えられているのです。

厳密に言うと、人はその時、子供のように悩みがなくなるというのではありません。ある人が言いました、小さなことに悩んでいる人はこせこせしているように見えるが、大きなことに悩んでいる人はかえってゆうゆうとしているように見える。……主イエスご自身、思い悩みがない方であったのではありません。伝道のためにユダヤの各地をめぐっておられた時、食べ物や衣服の問題にぶつからなかったはずはありません。しかし主が、全人類の救済というとてつもないことに取り組まれておられた中、衣食住の問題はすでに解決されていました。生活上のことを決して軽視することは出来ませんが、そのことで後ろ髪を引かれるようなことはなく、まっすぐ十字架への道を進んで行かれたのです。

ですから私たちも、神様と結びついているかぎり、食べること、飲むこと、着ることが思い悩みの種になってしまうことはありません。神は、私たちが必要なものを知っておられ、整えて下さるのですから。…これまで主に支えられてきたこと、いま主とともに歩んでいることを感謝し、明日への希望に生きることが出来ますように。恵みの主は言われます。「その日の苦労は、その日だけで十分である」。

 

(祈り)

 

天の父なる神様。ふだん神様のことを思うこと少なく、生活上のあらゆる問題で心をすりへらすことの多い私たちをどうぞあわれんで下さい。十字架につき罪と死に打ち勝って復活された主の恵みの中で私たちをとらえて下さい。空の鳥のように神様に信頼して、余計なことを考えずに、キリストの香りの一端でも放ちながら飛び回ることが出来ますように。野の花のように、たとえ雨が降っても風が吹いても、だまって花を咲かせつづける生き方をすることが出来ますように。この教会につどう一人一人が、その生活の中で、主イエスの愛によって生き、愛する者のために喜んで人知れぬ労苦を積み、一日一日を望みをもって生きる者として下さいますように、と願います。今日の礼拝を覚えつつも出席することが出来ず、自宅や病床で神様を賛美している友を覚えます。神様どうか、その人を力づけてあげて下さい。み名をたたえます。この祈りをとうとき主イエスの御名によって、み前にお捧げいたします。アーメン。