律法の書の発見とヨシヤの宗教改革

律法の書の発見とヨシヤの宗教改革  

列王記下221233、マタイ223440 2022.10.30 

(順序)

前奏、招詞:詩編1246、讃詠:546、交読文:詩編85:9~14、讃美歌:26、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:68、説教、祈り、讃美歌:267、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 15171031日、一介の修道士であったマルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に「95か条の提題」をはりだしたことから、世界の歴史を揺り動かす宗教改革が開始されました。この時ルターが問題にしたのはローマ・カトリック教会が販売していた免罪符(贖宥券)でありましたが、免罪符に反対する闘いはやがて聖書をどう読むか、どのような礼拝を行うか、教会の制度はこれでいいのかなど信仰のあらゆる面に及んでゆきました。カトリック教会から破門され、あるいはそこにいることが出来なくなった改革者たちがカトリック教会を出てプロテスタント教会をつくっていったことは、皆さんもよくご存じのことでありましょう。

 私たちの日本キリスト教会は、宗教改革の精神を継承してつくられた教会です。そこで今日の礼拝を宗教改革を記念する礼拝といたします。

 

 宗教改革はマルティン・ルターが始めたとは言っても、歴史の中で突然ルターが現れたということではありません。ルターの前にも、ウィクリフとかヤン・フスなど命をかけて教会の改革に挑んだ人たちがおりました。この人たちの多くはカトリック教会から異端宣告を受けてしまいましたが、カトリック教会の中にとどまり続けた人の中にも幾多の改革者がいたはずです。

 イエス・キリストは宗教改革者でしょうか。そのように見なすことも出来るとは思いますが、イエス様のなさったことは改革という言葉をはるかに超えた、世界と私たちにとって決定的なこと、まさにパラダイム転換でありました。

聖書を調べてゆくと、イエス様以外にも幾多の宗教改革の記事が見つかります。紀元前7世紀に生きたヨシヤ王のしたことも宗教改革だと考えられるので、きょうこの場でお話ししたいと思います。

 奴隷の地エジプトから救い出されて約束のカナンの地に戻ったイスラエルの人たちは、紀元前1000年頃、ダビデ王のもと一つの王国をつくりますが、この国はソロモン王の死後、北と南の二つの国に分裂してしまいました。紀元前722年、北のイスラエル王国は滅びます。それ以後、南のユダ王国のみがひとり生き残ってゆくことになるのですが、北はアッシリア、南はエジプトといった超大国にはさまれ、その進む道は困難をきわめたものでありました。

 南北朝時代、神は預言者を通して警告されておりました。列王記下1713節、「あなたたちは悪の道を離れて立ち帰らなければならない。わたしがあなたたちの先祖に授け、またわたしのしもべである預言者たちを通してあなたたちに伝えたすべての律法に従って、わたしの戒めと掟を守らなければならない」と。

 しかしながら、警告を受けた方では、国王みずから率先して神様に背いておりました。偶像を造ってその前にひれ伏していました。偶像はエルサレムの神殿の境内の中にさえあったのです。占いやまじないが横行し、自分の子供を殺して偶像にささげることすらありました。イスラエル王国が滅びたのは、何より、このような罪に対する神の怒りのためであったのですが、そのことをわかっている人はごく少数でありました。

 列王記を読んでゆきますと、いつも同じような書き方ばかりが目につきます。「だれそれが王となった。何年間、王位にあった。彼は、主の目に悪とされることを行った」。こんな王ばかり、厳しい評価がつけられていない王の方が珍しいのです。このような暗黒の時代、ユダ王国にヨシヤという王が現れました。紀元前640年、ヨシヤは8歳で即位しました。神にそむいた彼の父親がクーデターによって倒され、その後の混乱の中で、民衆によって擁立されたのです。

 ヨシヤについて、ここでは歴代誌下34章の記事を紹介します。ヨシヤはその治世の第8年、16歳の頃に「父祖ダビデの神を求めることを始め」た。第12年、20歳の頃、「ユダとエルサレムを清め始めた。人々は彼の前でバアルの祭壇を壊し、彼はその上にあった香炉台を切り倒した。彼はアシェラ像をはじめ、彫像、鋳物の像を粉々に打ち砕き、これらにいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした」。

 ヨシヤは、王家という特別な家に生まれたとはいえ、16歳で神を求め始め、20歳で改革を断行することがどうして可能であったのでしょう。周囲のいたる所に怪しげな偶像があるのです。水が低きに流れるように、人々はそこに群がっています。改革を推し進めることで、反対勢力のためにヨシヤの身も危なくなるかもしれません。しかし、このままでは、神の怒りを受けて国は滅びてしまうという危機感が彼をせきたてていたのではないかと思います。

 

ヨシヤ王の治世第18年、彼が26歳の頃、思ってもみなかった出来事が起こりました。王は破損した神殿の修復工事をするよう命令を出しました。すると大祭司ヒルキヤから報告がありました、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」、神殿の中からなんと律法の書が発見されたのです。

 ヨシヤ王はそれまで、この律法の書が存在することを知らず、その言葉も聞いたことがありませんでした。ある人は、この書物は不信仰な者にとってたいへん厳しい言葉が書いてあるために、無視され、忘れられていたのではないかと言っていますが、その通りなのかもしれません。この書物こそ、いま旧約聖書に収録されている申命記であったと考えられています。

律法の書の発見には神の深い摂理が働いておりました。ヨシヤ王は読み上げられたその言葉を聞いて衣を裂きました。それは悔い改めと嘆きのあらわれです。みことばの鏡に照らされた時、王は自分の国、そして自分自身の、何重にも積み重なった罪の恐ろしい現実に直面させられたのです。ヨシヤ王はしっかりした信仰を持った人ではありましたが、それは他の人に比べたらまだましということに過ぎず、神様の前に立った時、自分がいかに罪深い人間で、王としての務めも十分に果たしていないことに思い至ったのです。律法の書によって神の言葉を聞いたからには、もはや昨日までの自分でいることは出来ません。

ヨシヤ王は側近に「この見つかった言葉について、主の御旨を尋ねに行け」と命じます。それは、「わたしのため、民のため、ユダ全体のため」でありました。他人事ではありません。主なる神の前で、民と共に、また背信の先祖たちと共に立たされている自分を意識しています。「我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」ヨシヤ王は自分もその一人であるユダヤ人が律法の言葉に聞き従って来なかったことへの神の激しい怒りを実感するのです。そのために、神の憐れみを求めざるをえません。

女預言者フルダを通して、ヨシヤ王に神の言葉が知らされます。「わたしはユダの王が読んだこの書のすべての言葉のとおりに、この所とその住民に災いをくだす。彼らがわたしを捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で造ったすべてのものによってわたしを怒らせたために、わたしの怒りはこの所に向かって燃え上がり、消えることはない」。それは神の怒りを現わす、王とユダの人々にとってまことに厳しい内容のものでありましたが、しかし、さらに神の憐みを示すもう一つの言葉もあったのです。「わたしがこの所とその住民につき、それが荒れ果て呪われたものとなると言ったのを聞いて、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた。…あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。」

ヨシヤ王はただちに新たな行動を開始しました。「ユダとエルサレムのすべての長老を自分のもとに集め」、そうして今度は、王と共にユダのすべての人々が神殿に上り、律法の書の言葉に耳を傾けるようにさせました。王は民と共に、主なる神の前で契約を結びました。「主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、律法の書に記されている契約の言葉を実行することを誓った」のです。

ここで神との契約を結ばせたものは、何より律法の書のみ言葉が持つ圧倒的な力であったでしょう。長い眠りから目を覚ましたみ言葉が、神の霊を通して、そこにいるすべての人々の中に働きかけたのです。

23章の4節以降に、神と契約を結んだ以降のヨシヤ王の、さらに徹底的な宗教改革が記されています。あとで読んでいただければ幸いです。聖書はヨシヤ王が神殿で見つけた律法の書に記されていることを実行したこと、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なる神に立ち返ったこと、また彼の前にも彼のあとにも、彼のような王はいなかったことを伝えています。

 

私は、ヨシヤ王の宗教改革を本当になさしめたものが失われた律法の書の発見であったということは、普遍的な意義を持つことと信じています。…これに関連して思い出すことがあります。マルティン・ルターによる宗教改革の原点にも聖書の発見があったということです。ルターが若い頃、教会は聖書を読むことを勧めませんでした。読もうとしても一般の人にラテン語の聖書は読めませんでした。しかし、ルターがラテン語が出来たのはまことに幸いなことでありました。ルターは修道士になる前、図書館に通っているうちに聖書を見つけ、サムエル記を開いて終わりまで読み通しました。興奮と喜びでいっぱいになりました。こういうことが契機となったのでしょう。ルターの始めた改革の主要な柱は聖書のみということでありました。それまでの教会は、ローマ教皇の権威や昔からの言い伝えを重んじ、聖書は自分の都合の良いところばかり引用するということが多かったようです。例えば「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」(ロマ131)は取り上げても「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」(ヤコブ51)は無視するというように。…だから宗教改革者が聖書そのものを重んじたのは画期的なことでありました。その後ルターは、誰もが聖書を読むことが出来るようにと、聖書のドイツ語訳を完成させました。このことも計り知れない意義を持っています。

いま私たちは誰もが自分の聖書を持っており、いつでも読むことが出来ますが、それは当たり前のことではありません。世界を見渡せば、つい最近まで聖書を持つことが禁じられた国がありましたし、現在もあるかもしれません。いま私たちのもとにある聖書は先人たちのたいへんな労苦によって翻訳されたもので、66巻の書物が聖書となってまとめられるまでには、ヨシヤ王による申命記の発見を初めとしてさまざまなドラマがありました。神様は聖書の言葉を通して世界と私たちの人生を導こうとされていますが、神の言葉は黙っていても与えられるものではありません。聖書全体はイエス・キリストを証しするものですが(ヨハネ5:39)、かりに私たちが聖書の中の何かの書物を全く開かないでいたとしたら、それは神殿の中で長らく行方不明だった申命記と同じことになってしまうでしょう。

私たちがみな聖書の言葉を聞いて、衣を裂く必要はありませんが、衣を裂きたいと思うほど、神の栄光が自分たちの罪の現実を照らし、まさにそのところから救いへの道が示されますように。私たちの信仰の中心に聖書があり、聖書こそが教会を導き、改革を促すのです。

宗教改革はルターやカルヴァンで終わってしまったのではありません。私たちの教会は改革されてしまった教会ではなく、聖書をもとに改革され続ける教会です。聖書に現れているキリストが長束教会と私たち一人ひとりの課題を共に担って下さいますように。

 

(祈り)

 

 父なる神様。宗教改革を記念する礼拝を、まさに私たちの教会と私たち自身の改革をもたらす礼拝として下さったことを心から感謝いたします。この広島長束教会もキリストの十字架と復活という土台の上に建てられ、宗教改革者のたたかいの恩恵をこうむっている教会に違いありません。私たちの教会には多くの課題がありますが、どうか聖書を中心とする信仰に立ち、改革し続ける教会として世の荒波と自分たちの罪に立ち向かうことが出来ますように。信仰の勝利を喜び祝うひととき、ひとときを与えて下さい。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。