神を知っていながら

神を知っていながら  詩編1351318、ロマ11823   2022.10.23

 

(順序)

前奏、招詞:詩編123:3、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:28、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:67、説教、祈り、讃美歌:294、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 ローマの信徒への手紙はテルティオという人がパウロが語るのを聞いて口述筆記したもので、この手紙はローマの教会に運ばれて、信徒たちの前で読まれたはずです。おそらく、この手紙を読み上げることが礼拝の中心だったのでしょう。…私なんか、ローマの人たちがこんな難しい文章を聞いてどれだけわかったのかと思ったりしますが、ただそう思うのは自分がいたらないせいかもしれません。手紙の言葉に集中して真剣に聞いている時、聖霊が働いて、その言葉が耳に入るのと同時に説き明かされていたなんてことも、ありえないことではないでしょう。

 それでもロマ書はかなり長いので、一回の礼拝で読み切ることはとても無理でしょう。今日はここまで、続きは次の主日というようにして、それも内容ごとにまとめて読んでいたのではないでしょうか。そうしますと1章1節から15節までが挨拶文で、1章16節から本論が始まるとすると3章20節までがひとまとまりで人間の罪について論じています。この部分は人間の救いがたい罪について語っており、全体的に暗いイメージがあります。これを夜にたとえた神学者がいたのですが、3章21節になって太陽が昇ったようになります、罪からの救いを語ってぱっと明るくなるのです。その後、9章から11章までがユダヤ人と異邦人のそれぞれの救いについて、12章から最後までがまとめの部分になるようです。こうしてみると、ロマ書はローマの教会で何回かに分けて読み切ったことになります。

 いま私はロマ書の3章20節までは人間の罪を語っていて暗いと言いました。今日のところは、18節で「神は天から怒りを現わされます」と言われています。ローマの教会で初めてこれを聞いた人はと恐れおののいたのではないでしょうか。…もしも皆さんが「神は天から怒りを現わされます」という言葉を聞いても他人事みたいに思っているとしたら、それは感受性がにぶくなっているということです。まじめな信者であればあるほど恐怖を感じるだろう言葉なのですが、そうした言葉がえんえんと続いていって、3章9節ではこうなります。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」。…ということは、私たちだってみんな優れた点など何もなく、みな罪の下にある、ということです。あまり面白くない話ですね。こうした話を好んで聞く人がたくさんいるようには思えません。気が滅入ってしまいそうになるのです。パウロはいったいどういう思いで、人間の罪とそこから起こる神の怒りについて書き続けたのでしょう。長年、教会に通っている人ならこういう議論には慣れていると思いますが、実のところかなりショッキングな話です。いったいパウロという人は、神の怒りを語ってみんなを怖がらせることで信仰に入るようにと勧める、そんな人だったのでしょうか。

少し話が飛びますが、18世紀のアメリカにジョナサン・エドワーズという著名な牧師がいました。この人は礼拝説教の中で、人間の罪に対する神の激しい怒りと、地獄に落ちた人がどれほど苦しみのたうちまわっているかを語って、だからイエス様を信じなさい、と言い続けました。その説教があまりに強烈だったために、そこにいた人たちは自分も地獄の火に焼かれるのではないかと思ったのでしょう、恐ろしさのあまり気絶したり卒倒したりする人が出たということです。

このように神の怒りを強調して信仰を迫る伝道者がおり、また恐ろしさを出発点に信仰に入る人がいます。かのマルティン・ルターも若い頃、自分が救われないまま死んで神のみ前に立たされたらいったいどうなるかということを悩みに悩んで、道を求め、修道院に入ったという経過があります。神をおそれることが大切であることは確かです。でも恐怖が信仰のすべてであってはなりません。もしも恐怖のあまり信仰に入って、神の怒りにおびえながら一生を過ごす人がいたら、それはどこか間違っているのです。パウロはそんなことを求めてはいません。

今日の聖書箇所は前回からの続きです。パウロは16節で「わたしは福音を恥としない」と言いました。続けて、福音とは信じる者すべてに救いをもたらす神の力である、そして「正しい者は信仰によって生きる」と旧約聖書の言葉を引用しました。私たちの聖書では、そのあとに空白行と「人類の罪」という見出しがありますが、それらは後からつけ加えたもので、原文はつながっています。皆さんは17節と18節は別の文章だと思っているかもしれませんが、原文では18節に「なぜなら」とか「というのは」と訳すことの出来る言葉、日本語訳では省略されてしまったのですが、その言葉が入っていて、17節とひと続きになっています。…何を言いたいかというと、まず「福音とは信じる者すべてに救いをもたらす神の力である」という力強いメッセージがあって、そのあとに神の怒りが出て来るということです。神はひとりでも多くの人を救いたいと願っておられますから、パウロはそれを受けて福音、つまり喜びの知らせを第一に掲げました。その福音の下にあるのが神の怒りなのです。もちろん神の怒りを軽く見たり、あなどってしまうことは出来ませんが、私たちはそれを覆ってあまりある恵みを見落としてはなりません。私たち人間は、神の恵みがどれほど大きいか知れば知るほど、罪の恐ろしさがわかってきます。そして、そこから、神の怒りに思いをめぐらすことが出来るようになるのです。

 

さて今日の箇所はたいへんに多くのことが言われていて全部取り上げることが出来ないので、20節の「神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」から考えていこうと思います。

1976年、今から40年以上前に出版された「ゴスペルフォーク・ヒット集 友よ歌おう」という歌集の中に「神さまがわかるでしょ」という歌が入っていて、夏のキャンプでみんなで歌ったことがありました。こんな歌です。

 

1.美しいこの空を 愛らしいこの花を 浮んでる白い雲 香りよき青草を

 じっと眺めているだけで ほら君もわかるでしょ 神さまがわかるでしょ

2.ある時は涙ぐみ いつの日か夢にみた 心には愛もなく 過ごした時があ

  る じっと祈った時も ただ祈っていた時も ほら君もわかるでしょ 神

  さまがわかるでしょ

3.すばらしいこの時を 幸せなこの日々を なんとなくうれしくて 賛美す

  る時がある そっと歌った時も ただ歌っている時も ほら君もわかるで

  しょ 神さまがわかるでしょ

 

皆さんはこうした歌をどう思われるでしょうか。問題は1番の歌詞です。「美しいこの空を 愛らしいこの花を 浮んでる白い雲 香りよき青草を じっと眺めているだけで ほら君もわかるでしょ 神さまがわかるでしょ」。

これを歌ったあと、ひとりの青年が「どうしてこれで神様がわかるんだ」と言い出して、議論になった記憶があります。この歌は、空でも花でも、白い雲、青草でも、見ているだけでこれを創造した神様がわかるでしょ、と言っているのですが、一方、声をあげた人は、そんなものを見てもそれで神様がわかるとは言えないのではないか、と言ったのです。

こうしたやり取りがロマ書に関係してきます。20節、「神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」は、神が造られた自然を見たら、神がおられることがわかる、というふうに受け取れますね。すべてのものに造り主がいるのです。造り主がないまま自然に出来上がったものなど一つもありません。その観点から21節以下を見ると、この世界では古今東西すべての人が神が創られたもの、つまり被造物を見ていて、知っているわけですね。目が見えない人でも心の目で見ているでしょうし、それに触れているのです。だから、どんな人でも、被造物を通して神がおられることを知っている、しかし神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもしない人たちがいて、偶像を造って拝んでいる、彼らには弁解の余地がない、というふうに読めるのです。

しかし、結論を急ぐことは出来ません。こんな読み方でいいのだろうか、と思った人が今日この場にもいるかもしれません。…それは、被造物を見れば造り主である神を知ることが出来るといっても、現実にはそうなっていないということです。たとえば日本には古来から、山には山の神、川には川の神がいるという考え方がありました。山そのものが神様にされているところもあります。こういうことが世界的にありますね。自然を見て造り主を思うのではなく、自然そのものを神様にしてしまうのです。

古今東西、地球上に存在した、また今も存在しているすべての民族の神話や伝説を調べても、そこに「神はいない」と主張している民族を見出すことは出来ません。どんな民族も神様がいることは認めているのですが、被造物、つまり人間や鳥や獣や這うものなどの像を造って、これを礼拝していた民族はたいへん多いと言えます。そして、そういう、人間が考え出した神様というのはたいへん人間くさいのです。

 日本の神話を例にとってみましょう。古事記の冒頭に天地開闢のありさまが書いてありますが、神々が世界を創造したとは書いてありません。高天原が最初から出来ていて、そこに神々がまるで自然発生のように生まれてくるのです。じゃあ高天原を造ったのは誰なのかと言いたくもなります。そして、天照大神にしても素戔嗚尊にしても大国主命にしても、面白いキャラクターであることは認めますが、その性格は長所もあれば欠点もあって、人間と大して変わりません。つまり日本の神話に現れている信仰は、大自然など被造物を神として尊んでいますが、そこから出て来たのは人間が考え出した人間のレベルに合った神々で、本当の神を求めるところにはならなかったのです。

そこでパウロの言葉にもう一度帰ってみましょう。重要なのは「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており」というところで、その中でも「世界が造られたときから」と「被造物」という言葉に注目して下さい。パウロはここで「神が世界をお造りになった」こと、そして「この世界の全ては神による被造物である」ということを強調しています。神は創造者であり、私たち人間を含めたこの世界の全て、山も川も動物たちもみな被造物です。創造者である神と被造物であるこの世界の間にははっきりとした違い、区別、隔たりがあります。そのことがパウロが語っていることの前提であり、土台なのです。ここに立って読まなければ、パウロが語っていることの意味を正しく理解することはできません。

日本の神話は高天原が出来たあと神々が自然発生のようにして誕生したと言っていますが、聖書以外の世界中の神話を全部調べたとしてもこれと同工異曲で、巨人が死んでそれが世界になったなど、造り主である神様をそこから見つけることが出来ません。神々が世界を造ったのでないとしたら、神々も被造物になってしまいますね。そのような教えがいくら自然をとうとび、拝んだとしても、信仰の対象はまことの神ではなく、まことの神が造られたものを拝んでいるにすぎないのです。

被造物を見て、これを神様が造られたことを思わないまま神様とはどんな方かを想像しても、まことの神に到達することは出来ません。そうではなく、被造物が被造物であることを明確にすることによって、はじめてどこかにまことの神がおられるのだということを想像することが出来るのです。…ただ、そうは言っても、被造物である人間が天に届く塔を建てることは出来ず、人間の側から、まことの神につながる道を切り開くことは出来ません。だから、神の側からこの世界に通じる道を開いて下さった、それがイエス・キリストの出来事、父なる神がイエス様を人間としてこの世に生まれさせ、遣わして下さったことなのです。

イエス・キリストは世界各地の神話に出て来るあらゆる神々と全く違っています。人間が考え出した神々には、人間の夢や憧れが体現されていることが多く、とても人間的です。私はイエス様が非人間的だとは言いません。神であるイエス様は人間的である以上の存在、まことの人間でもあって、そのことによって他のあらゆる神々を圧倒しています。世界のすべてを創造された神が人間となってこの世界に降り、人間たちの罪が引き起こした神の怒りをすべて背負って下さり、十字架にかかって下さった。だから私たちの罪に対する神の怒りは、私たちの上にではなく、十字架においてイエス・キリストの上に下されました。そのイエス様を父なる神は復活させて、天に引き上げ、このことを通してすべての人を救おうとする、それまで人間の内の誰もが考えつくことのなかった偉大な計画がを開始されたのです。

創造者である神と被造物である世界の関係を正しくとらえているなら、人は偶像を拝むようなことはありません。皆さんには今日まずこのことを確認して頂きたいと思います。

 

 

(祈り)

 恵み深い神様、この世界は神様が創造されたのです。世界が初めから存在し、あとから神様が登場されたのではありません。少し考えれば誰でもわかることだと思うのですが、しかし人間は神様から教えられなければそのことがなかなか理解できません。

 雄大で美しい自然を見て、人が神様を思うのは当然のことでしょうが、その時、それらを神としてしまってはなりません。私たちの中にも自然を神とする信仰が心に影響を与えているかもしれません。それらによって正しい信仰からそれてしまうことがありませんように。山であれ川であれ、それは神ではありませんが、そのことは環境を大切にすることと矛盾しないことを教えて下さい。

 私たちみなが神様を神様とし、被造物を被造物とする信仰によって、偶像崇拝をしりぞけることが出来ますように。そして、その場所から、天から来られたイエス様を仰ぎ、イエス様が自分たちのかけがえのない救い主であることをわからせて下さい。

 

 主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。