地をさばかれる神

 地をさばかれる神 イザヤ24123、Ⅱペトロ3313 2022.10.16   

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1232、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:62、説教、祈り、讃美歌:172、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

今日私たちは、ふだん考えたこともないようなことを聖書から学ぶことになるのかもしれません。

これまで読み続けてきたイザヤ書では、紀元前8世紀から7世紀にかけての中近東が舞台でした。今の世界でイスラエルという国は良きにつけ悪しきにつけ存在感がありますが、それでもその面積は日本の四国ほどです。紀元前8世紀から7世紀にかけての世界で、イスラエルの人々は数も少なく、力も弱く、周囲の超大国がいつ攻めてくるかと戦々恐々のありさまでした。しかし、そこに現れた預言者イザヤは、人々に向かって、神への堅い信仰に立って、迫り来る国難に立ち向かうようにと説いていったのです。

イザヤ書13章から23章にかけて、イザヤはイスラエル民族ばかりでなく周囲のエジプト、バビロニアなどの諸民族がこれからどうなるかという、その時代にあって近未来のことを預言しましたが、ここ24章に至って、ついに世界の終わり、終末について語り始めます。…イザヤ書24章の言葉を皆さんは読んでみて、たいへん謎めいたもののように思われたことでしょう。…聖書にはいちばん最後にヨハネの黙示録という、これもまた謎めいた文書が収録されていますが、これにあやかって、イザヤ書24章から27章までをイザヤの黙示録と呼ぶことがあるくらいです。

世界の終わりなんて、私たちはふだんあまり考えません。多くの人が毎日の生活に追われています。目の前に厳然として存在する世界が終わってしまうというのはちょっと考えにくいし、それがいつのことになるかもわかりません。しかし時々、人々の口から出てくることがあるのです。…この10月6日に、アメリカのバイデン大統領は、いまウクライナで起こっている戦争について「核兵器によるアルマゲドンのリスクはキューバ危機以来」だと発言しました。アルマゲドンとは聖書に書いてある言葉で世界最終戦争のことです(黙示録161416)。アメリカの大統領もこんな言葉を使うのです。いまアメリカにも日本にも、世界の終末は近いとか、人類は滅びるなどという人たちがいて、その中にはどこまで信じて良いのかわからない怪しいものもあるのですが、今日与えられた言葉は陰謀論でも何でもなく、神様が預言者を通して語られ、聖書に書きとめられた言葉なのです。難解で謎めいていますが、見てゆきましょう。

 

24章1節、「見よ、主は地を裸にして、荒廃させ、地の面をゆがめて住民を散らされる」

ここで地というのは天に対する地、人間が住む世界のことを指しています。人間と人間が行うすべての営みもここに含まれています。アダムの創造の話にあるように、人間は土からつくられ、土にかえるからです。

エレミヤ書2229節は言っています、「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け」。…ただ神は、地を直接管理されるのではなく、これを人間の手に委ねられました(創1:28、詩11516)。人間は神様から委託されているからこそ、地球に優しくすべきで、大地を耕す時も魚を取る時も資源を採掘する時も、またそれらを活用する時も、むやみやたらに収奪を行うべきではありません。しかし、そうはなりませんでした。またそこから得たものを分配する時、食べ物を例にとってみると、分配が不平等で、ありあまるほどたくさん与えられる人がいる一方、飢えて死ぬ人が出るというような世界になってしまったのです。…金持ちになりたいとかぜいたくな生活をしたいという、人間をかりたてる欲望は、大地が生み出すものを神様に感謝するどころか、搾り取れるだけ搾りとりつつ、ますます増大して行きました。そのため土地がやせたり、砂漠化が進行したり、気候変動が起こって、あるところは洪水に襲われているのに、別なところでは旱魃が進行するということになっているのです。工業生産が生み出したプラスチックや放射性廃棄物が海洋を汚染することも起きています。

このような地球規模の災難というのは、人間の罪がもたらしたことであると共に、神の裁きの結果でもあるのです。2節で「民も祭司も、僕も主人も、女の僕も女主人も、売る者も買う者も、貸す者も借りる者も、債権者も債務者も、すべて同じ運命になる」というのは、神が地をさばかれ、地が荒廃してしまった時、災いがすべての人に及ぶということでしょう。現段階では何かの災害が起こった時、弱い人たちが犠牲になることが多いのですが、全地球的な規模の災害の場合、弱者も強者も区別なく犠牲になってしまうことでしょう。

ただ自然界に起こることで判断が難しいのが地震です。東日本大震災が起こった時、東京都知事の石原慎太郎氏は「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言して物議をかもしました。キリスト教でもこのように、大震災を神の罰ととらえる人がいるかもしれません。一方、日本キリスト教会の池永倫明牧師は「神の罰ではない。自然法則の結果、こうなったのだ」と神様を弁護しました。いま大地震が神の罰なのかそうではないのか、問題がたいへん込み入っていて簡単に断定することは出来ません。しかし、ここにおいても、神のみこころと人間の罪の関係を問い直していくことが必要です。

5節の「地はそこに住む者のゆえに汚された」とは、まさに今日の世界を予告する言葉です。2022年現在、終末はまだ訪れてはいませんが、世界はそこに向かって一歩一歩近づいているという状況ではないでしょうか。戦争、放射能汚染、感染症の流行、気候変動、砂漠化、海洋汚染、そのほかさまざまな大問題があって、いま地球というシステムがこわれかかっています。私たちの子孫はいったいどんな世界に住むことになるのでしょうか。破滅に向かって、それこそ世の終わりに向かっているのでなければ良いのですが。…ただ、イザヤ書は6節で、「呪いが地を食い尽くし、そこに住む者は罪を負わねばならなかった」としながら、しかし「わずかな者だけが残された」と書いています。「わずかな者だけでも残る」なら、それは私たちにとって希望へのメッセージなのです。

 

次の7節から13節までは、世の終わりの直前に起こることを言っています。「喜びはことごとくうせ、地上の楽しみは取り去られた」、その中でお酒にすがる人がいます。しかし「甘い酒も、飲んでみれば苦い」、これは特に大酒飲みの人なら納得できることでしょう。人はしばしば酒を飲むことで苦しみから逃げようとします。しかし、逃げきれるものではありません。そんな時の酒がうまいはずはないのです。箴言1413節、「笑っていても心の痛むことがあり、喜びが悲しみに終ることもある」、こんな世界です。

このようなことがこの先の日本に起こらないと言い切ることは出来るでしょうか。この春、ウクライナのある港町ではみんながバカンスを楽しく過ごしていたのに、一週間後には戦場になってしまいました。ミャンマーではウクライナ以上のすさまじいことが起こっているようです。皆さんを脅かそうというわけではないのですが、日本もこの先、何が起こるかわかりません。それも比較的程度の軽いことであれば国全体として立ち直ってゆくことも出来るでしょう。しかし地球規模の大災害の中に置かれたり、それこそ世の終わりが到来した場合、私たちはどうすれば良いのでしょうか。私たちは何も知らずに滅んでいくような人であってはならないのです。

 

さてイザヤ書24章を読んでいて気がつくことは、14節以降で状況が一変するということです。「彼らは声をあげ、主の威光を喜び歌い、海から叫び声をあげる」。いったい何が起こったのか、14節から16節までを見ると、喜びの声は海から、そして地の果てから聞こえてきます。15節、「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を喜び、海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ」。これと23節で「万軍の主が王となり、…主の栄光が現わされるとき」と書いてあることを結びつけると、全地球的な大災害を経て神が直接統治する新しい世界が出現することが示されているのでしょう。その時、主に従う人は各地から喜びの声をあげます。彼らとはユダヤ人にとっての異邦人、15節で「あなたたち」と呼びかけられているのはユダヤ人ではないでしょうか。いずれにせよそれは、世界各地に散らばっている神を信じる者たちにとっての喜びの日なのです。

 私たちが唱えている日本キリスト教会信仰告白の中には「終りの日に備えつつ主の来たり給うを待ち望む」という言葉が入っています。キリスト教で世の終わりということが重んじられるのにははっきした理由があります。

 この世界にはインド哲学のように、昔あったことは今もあり、この先も起こる、人間は同じことを未来永劫繰り返していくという考えもありますが、聖書はそのように教えてはいません。歴史というのは、目的もなくただぐるぐるとまわっているものではありません。歴史には初めがあったように、いつか必ず終わりが訪れるのです。宇宙には始まりがありました。科学の世界でも宇宙の終わりが議論されています。歴史とは、その中に私たち一人ひとりの人生も含めながら、神の導きのもと、ある目標点に向かって進んで行きます。それが歴史の完成であり、世の終わりなのです。…ただし、そのような歴史の流れは順調に推移するのではありません。歴史が終局に到達する前に、人間の罪が恐ろしい出来事を引き起こし、それこそ世界が危うくなるのですが、それに打ち勝って神様の支配が完成されるということをイザヤ書は教えているのです。

 

世の終わりは神様の最終的な勝利ということになりますから、それまで苦難の時代を耐え抜いてきた信仰者、その時生きている人もすでに死者の列に入った人もいますが、みな喜びの叫びをあげます。

 でも、それ以外の人たちはどうなるのか、まず16節の後半、「しかし、わたしは思った」、わたしとはイザヤです。「わたしは衰える。わたしは衰える」、急にどうしてこんな言い方になってしまったのでしょう。…そこで頭を整理してみると、24章全体に書かれているのはイザヤの前に示された未来の情景です。イザヤがタイムマシンに乗って未来の世界に行ったわけではなく、彼は未来の情景を見て恐れおののいたのです。ここにあるのはイザヤにとって正直な言葉です。大洪水の時代に生きたノアも、世界が洪水によって滅ぼされることを聞いて恐れおののいたはずで、自分たちだけ助かると聞かされても喜ぶわけにはいかなかったでしょう。神様が全世界に恐るべきことを行われる、喜べと言われても喜べない、全能の神様の前には自分も滅ぼされるかもしれない、と思ったのでしょう。

 しかしそれでも、いつか来る世界の終末と自分の滅びを恐れる思いがあるだけイザヤと、イザヤの言葉を受け入れることの出来る人々は幸いです。なぜなら、自分たちはこれからどうすれば良いか、というところに導かれるからです。対策を考え、実行することが出来るのです。それ以外の圧倒的多数の人たちは、この世界は今のままずっと続いていくと信じてきました。いまもそう信じています。けれどもイエス・キリストは教えておられます、「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。」(マタイ243839

 17節以下に、そのような人間と世界の姿が描かれています。「地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む。」

 神の裁きは天地を貫いて徹底的です。「地は砕け、甚だしく砕け」と地に対する審判が書き連ねられていますが、そればかりでなく「高い天では、天の軍勢を」と言われているように、天で神のおそばに仕える者まで罰さられると言うのです。「月は辱められ、太陽は恥じる」というのは象徴的な表現だと思われます。古来、月や太陽を神として拝んでいる人々がいましたが、ここでそれらが偶像に過ぎないと暴露されます。

こうして、神が神として礼拝される世界「新しい天と新しい地」(6517など)が出現するのです。23節の「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、長老たちの前に、主の栄光が現れされるとき」というのが、そのことを指しています。

 

 ここに現れる未来の世界、皆さんには荒唐無稽のように見えるかもしれません。しかし、よく考えてみて下さい。神なき世界、人々が神様のことを少しも思わず、自分の楽しみだけを追い求めている、そんな世界が永遠に続くのでしょうか。

いま世界に起こっている、気候変動を初めとするさまざまな否定的現象はみな人類への警告です。地球はこのままでは破滅するかもしれないという警告で、そうならないよう力を尽くすのは当然のことですが、それにもかかわらず、世界は行き着くところまで行ってしまうかもしれません。…しかし、人類の罪がきわまったところで、神がイエス・キリストによって手ずから統治される新しい世界が始まります。そのことがどういうプロセスを経て実現するのか、私もわからないことは分からないとしか言えず、慎重に考えなければならないと思いますが、神様が世界に対し最終的に勝利して、新しい天と新しい地が出現することを信じることが出来る人に、人生はそれまでとはまったく別の可能性を与えてくれるでしょう。

このことを覚え、どのような困難の中でも、また罪に陥った歩みをした中でも、悔い改め、主に立ち返って、御言葉に聞き従う者となりますように。今もここにある御言葉は私たちを招いて下さるのです。

(祈り)

 

 主イエス・キリストの父なる神様。今日、神様は私たちに世界への警告の言葉を語って下さいました。私たちの平凡な日常生活の中に切り込んでくる神様の永遠の真理は、私たちを打ちのめします。そこには、全世界を襲う大きな苦難が予告されています。そのことが私たちの生きている間に起こるかどうかわかりませんが、もしもそうだとしたら怖いのです。自分がなすすべもなく滅びてしまわないかどうか、ただでさえ信仰の薄い者たちが、苦しみの中で信仰をまっとうすることが出来るのか、心もとないのです。命に通じる道を見出すのは難しいです。しかしどんな時にも神様の守りがありますように。そして今からその日のための備えを始めることが出来ますように。私たちがみな神様の確かな救いのお約束から生まれた確信に生きること、その確信に支えられた愛に生きることをゆるし、命じて下さい。また、いまだ神様に出会わず、神様の驚くべき力のことを何にも知らないこの国の多くの人たちに、神様をおそれ、救いを渇望する気持ちを起こして下さい。この願いと祈りを主イエス・キリストのみ名によってお捧げします。アーメン。