あなたの目は澄んでいるか

あなたの目は澄んでいるか イザヤ291314、マタイ61924  2022.10.9

     

(順序)

前奏、招詞:詩編1231b、讃詠:546、交読文:詩編85:9~14、讃美歌:20、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:87a、説教、祈り、讃美歌:524、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

皆さんにとって、教会に来て信仰を同じくする仲間たちに会うことはどんな

意味を持っているでしょうか。

日曜日、私たちが教会に来るのは、そこで神様に出会い、礼拝するためです。もしも仲の良い人たちに会うために教会に来るという人がいたら、それは本末転倒にちがいないのですが、しかし、信仰の喜びを教会で一緒にいる者同士分かち合うことが出来たら、こんな素晴らしいことはありません。日曜日がそういう日となるように、長老たちも私も努力しているつもりです。…ただ教会にはさまざまな人が来ますから、今日この人と顔を合わすのがいやだなあという人がいるかもしれない、そういうことがひとつの可能性としてありえるわけです。…とはいえ、お互い好きでない者同士であったとしても、この二人の間にイエス・キリストがおられるということが大切です。神様が、互いに好きでない人たち同士も導き、共にイエス様を見つめるようにさせているなら、いろいろなことがあったとしても、教会を通しての人と人との絆が結ばれるはずなのです。

どんな人にとっても友人は大切ですが、同じ神様を信じる友人同士ほど大切な関係はありません。たとえお互いウマがあわない人同士であっても、イエス様によって真の友人同士となる、そのような恵みがこの教会の中にもありますように。そして信仰を、私たちが思いと言葉と行いによって伝えてゆくことが出来ますように。

 

さて個人的なことになりますが、私が子どものとき、家族同士つきあいがあった人に塚本淳先生というお医者さんがいました。35年ほど前、天に召された方ですが、この人は札幌で開業医をしていて、何十年も地域の人々の医療のために献身的につくして来られた方です。内村鑑三が創設した札幌独立教会の会員であり、また伝道熱心な人で、病院の待合室には聖句が書いてある短冊をかかげていました。私を含め、多くの人たちがこの先生から大きな感化を受けていました。亡くなられたあと、私は追悼の記念文集を読んでいて、先生の若き日に起きた出来事を知ったのです。

塚本先生の青春の日々は戦争の時代で、先生は軍医として兵士とともに南方の島々をまわっていました。ある日、トラック島に上陸して休養していたとき、そこに教会があるのに気がつき、入ってゆくと、そこで年を取ったドイツ人の女性に会ったのです。その人は自分の国も家族も友人も捨て、40年もその島で暮らしていました。原住民の娘たちに裁縫と料理を教え、読み書きを教え、そして信仰を伝えていたのです。…彼女は日曜日に島の人々に話をします。このはるかな島に自分を遣わしたのはいったい何ものなのか、何のためなのかを。……  

この老婦人は母親が子供をいとおしむような慈愛に満ちた表情で、語ってくれたということです。彼女との出会いを塚本先生は「永遠への一瞬ののぞきこみ」だったと書いています。……こういう生きかたがあると知った時、先生はそれまでの自分の生きかたがなんとちっぽけなものでしかなかったかと思うと同時に、激しく心をゆすぶられたということです。

この外国人の老婦人も、人生の中で忘れ難い人との出会いがあったのではないでしょうか。神を信じる人との出会いが、次に神を信じる人を起こす。そのような人と人とのめぐり合いの中に、私がおり皆さんがおられることを心から願っています。

私が覚えている塚本先生はセンスがよく、おしゃれで、やさしいお医者さんでしたが、一つ特記されるべきことは目が澄んでいたということです。戦争から帰ってきたあと結核になったりして、たいへんな困難の中をくぐって来たにもかかわらず、いつもにこやかで病院の患者からは絶大な信頼を得ていました。

目が澄んでいるというのは、子どもならともかくとして、ふつうはたいへん珍しいことです。私を含め、たいがいの人は年を経るに従って、にごった目になってゆくものです。ただもちろん、見た目だけで人をすべて判断することは出来ません。生まれつき、あるいは何かの病気のために目が濁ってしまうこともあるので、目が澄んでいるか濁っているかということを一般化して人を評価することは出来ませんが、中にはこの先生のようなケースもあるということです。

 この人の澄んだ目というのは、礼拝を中心とするイエス・キリストとの不断の交わりによってつちかわれてきたものでしょう。主イエスを見つめることがその人格を形作っていったのだと考えられます。

しかし皆さん、主イエスを見つめると言ってもそれが具体的にどういうことなのかわかりますか。…牧師から「主イエスを見つめなさい」と言われて、どこを見たらいいのかわからなかったという人がいたそうです。もちろん私たちは、生身のイエス様に会うことは出来ません。そこで聖書を読み、祈り、礼拝生活を欠かさず、心に主イエスを思い、そうして主イエスに近づいた気になろうとするのです。……もっとも、ただそれだけでは主イエスに近づききれないのではないでしょうか。神のみ子、世界の救い主である主イエスを見つめるというのは、主イエスが見ておられるものを見ることにつながらなくては本物とは言えません。そのようにして、人は主イエスと一つになってゆくのです。

 私たちが、日曜日ごとに、ここでしている、とても大切なことは、主イエスを見つめるだけでなく、主イエスが見ておられるものを私たちも見ようとすることではないかと思います。何度でも、それをくりかえすのです。そうしている内に、けさ与えられたみ言葉が示すように、私たちの目が澄んだものとなっていくのです。……私たちの目はすぐに濁ってしまいます。主イエスが見ておられるものを見ることが出来なくなります。…私たちの肉眼も、視力を守るために、時にははるかなところにある星を見るのが良いと言われております。そうであるとすれば、私たちの魂の目も、はるかなところにおられる主イエスを見つめるのです。そしてさらに、主イエスが見ているように自分とまわりの世界をつめることが出来たら、それが日曜日ごとに、私たちに問われていることではないかと思うのです。

 22節の「目が澄んでいれば……」、これは苦心の翻訳だと言われています。ここで用いられている言葉は、単純とか、複雑な形を持たないことを、まず意味しています。裏表がないとも言えます。先週まで学んできたことからすれば、仮面をかぶった偽善者の目ではないのです。

 「目が澄んでいる」ためには、まず一つのものをひたすら見続ける、しかもそれが神様のみこころにかなっているものであることが必要です。「主イエスを見つめる」ことをひとまず横において、あなたがたが見つめるのは何か、それは地上に積んだ富だね、と主は言われているのだと思います。

 19節から21節の中で、主イエスは富について語っておられます。「富」は口語訳聖書では「宝」となっていました。地上に積んだ富というのは、必ずしもお金や宝石と同じではありません。お金や宝石だったら、これをたくさん集めようとしてもそれが出来ない人がいて、この説教の対象にならない場合もあるでしょう。しかし、どんな人にも大切にしているものがあります。ここでは大事にしまってあるもの、積んであるもの、たくわえられたものなら、何でも「富」なのです。言いかえると、私たちがいつも見ているもの、心がそこに向かっているものがみんな「富」なのです。その中には当然、お金や宝石も入っていますが、この他にもたくさんあります。自分の心の支えとなっているものはみな富です。たとえば自分が男前だと思っている人はそのこと、自分にはほかの人が出来ないこんなことが出来ると思っている人もそのことです。

 「富」の持ち方について、主イエスは二つのことを勧めておられます。これを否定的なことから言うと「地上に積んではならない」、肯定的なことから言うと「天に積みなさい」ということです。

 まず、なぜ地上に積んではならないかと言えば、「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」から、…つまり安全に保管出来ないからです。…むろん虫が食ったりというのは主イエスがおられた時代の状況を反映しています。…昔の盗人は壁に穴を掘って、泥棒したものです。……現代人は、私たちはそんなばかなことはしない、お金を銀行にあずけた、有望な会社の株を買ったから大丈夫だと言うかもしれません。しかし、虫やさびや泥棒もまた、よそおいを変えて登場してきます。まず、景気の動向いかんでは、いま円安になっていますが、貨幣の価値がなくなるとか株価が暴落するとかいうことが起こります。また財産が多いためにかえって不幸を招くことがあります。ギリシャの海運王オナシスは巨万の富を得たことで、かえって骨肉相争う家庭の不幸を招きました、こういうことは枚挙にいとまがありません。さらに、地上でどれほどの名声を獲得しようが、巨万の財産を蓄えようが、死ということがすべてを奪ってしまいます。死後の世界に、地上の富を持ってゆくことは出来ないのです。

 では「富は、天に積みなさい」とはどういうことでしょうか。聖書はテモテへの手紙一の6章17節でこう説明しています。「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くように」。

自分はここに当てはまる金持ちではないなんて思わないで下さい。自分の持っているもの、財産も才能もその他すべてのものも、みな神様からあずかったものです。人は神様からいただいたものを自分のためだけに使ってしまったのでは、死んだ時に持ってゆくものがなくなります。人間はどんな人でも神様から与えられた贈り物が何かあるはずです。これを正しく用いることは、天において財産を増やすことです。そこで蓄えたものは決して、虫が食ったり、さび付いたり、こわれてしまうことはありません。そのようにして、私たちは天国行きの旅をまっとうしたいものです。

 「目が澄んでいる」ためには、何を見つめるかが大切で、それが何かは明らかです。24節「誰も二人の主人に仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。今度は主人に仕える奴隷のたとえです。神を見つめる人は神に従い、お金を見つめる人はお金に従うものです。「濁った目」が見つめているのは地上の財産です。これは私の宝だと、じっと見つめていて決して誰にも渡すまいと思う、そういう狭い心の目です。地上の財産が生きてゆくために必要なのは明らかです。しかし、そればかりにこだわり、執着し、しがみついて生きてゆくのか、それとも、その執着から自由になった、澄んだ目をもってこの世を生きていくのかが問われているのです。

 こういう問題は、当然、自分の持っている財産をどう使うかということに直結します。自分の財産を自分のためだけに使わず、たとえば教会への献金についても真剣に考えて頂きたいのですが、これは単純化して考えることは出来ません。今さかんに報道されているように、統一協会は神様のためと称して、信者から多額の献金を、それもその人を自己破産に追い込むほど捧げさせました。批判を受けて改革案を出したのですが、それでも献金の上限が収入の10分の3だと言うのであきれます。こうしたことは明らかに間違っています。

献金について使徒言行録の中にこんな話があります(5111)。エルサレム教会で、多くの信徒が自分の土地や家を売り払っては、その代金を教会に献金していました。それを見ていたアナニアとサフィラの夫婦は、まねをして土地を売ってはみたものの献金することが惜しくなってしまい、売値をわざと安く言って一部だけ献金し、残りを手許に置いておくことにしました。するとペテロに見破られて、天罰を受けたのです。ペテロは言いました。「あなたはなぜサタンに心を奪われたのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」。

どういうことかと申しますと、アナニアとサフィラの夫婦は土地を売らずにおいても良かったのです。また売ったとしても、それをどう使おうが本人の自由で、教会が口をはさむことではありませんでした。ところが、二人は実際よりも安く売れたように嘘をついたために、神の怒りにふれたのです。神様が求めておられるのは献金の額が多いことではありません。献金の時にも、心がどこを見ているかということを神様は見ておられるのです。

ここまで献金を例にとってお話ししましたが。ここにいるすべての人が今後、天に富を積むことを心がけ、結果的に澄んだ目をして生きることを願っていますが、それは私であろうが誰であろうが、こうしなければいけないと強制されて出来ることではなく、全く自由な気持ちからなされるものでありますように。主イエスを見つめ、主イエスが見ておられるものを見る目が私たちの中に形作られますように。祈りましょう。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。今ここに、私たちの帰りゆくべきところ、富を積むべきところとして、あなたのおられる所を仰ぎ見ることが出来、感謝いたします。私たちは生きる限り、労苦が続きます。神様から心を離れさせる力が強いために、それに頼ってしまおうとし、その結果としてどんよりと濁った目になってはいないでしょうか。しかし、この世で純粋に生きることも難しいのです。二人の主人の間でどっちつかずの私たちですが、どうか迷いの先に光明を与えて下さい。主イエスがたたかいに勝ったがゆえに、私たちに与えられる希望と確信、これによって心を強くさせて下さい。

 

とうとき主イエスの御名によって祈ります。アーメン。