あなたの光は曙のように射し出で

あなたの光は曙のように射し出で イザヤ5839a、マタイ6:1618

 2022.10.2

(順序)

前奏、招詞:詩編1229、讃詠:546、交読文:詩編85:9~14、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:352、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式205、)(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

主イエス・キリストは、マタイ福音書6章1節で「見てもらおうとして、人

前で善行をしないように注意しなさい」と言われました。善いことをするのに

何でそんな難しいことを言われなくてはならないのか、どういう狙いがあった

としても善いことであればいいじゃないか、と思っている人がいるかもしれま

せん。こういうところがキリスト教信仰のややこしいところです。

たとえばイスラム教では施しということをたいへんに尊びますが、その時、人

がどういう思いでそれをしたかということはキリスト教ほど重要ではありません。それが売名行為であろうがなかろうが、良い結果になればOK、難しいことは言わないという態度で、実にあっけらからんとしているはずです。これと同じようなことは、日本でもたくさんあるのでしょうが、これは主イエスが教えられたこととは全く違っています。キリスト教は罪についての深刻な理解があって、結果さえ良ければそれでいいのだという態度は取りません。本当の神を信じる者は、たとえ善いことを行う場合でも、そのやり方、心持ちに気を配らなければなりません。…主イエスはマタイ福音書で、すでに施しをするときとお祈りをするときにどうすれば良いか教えて下さいました。第三の例としてここで教えられているのが断食の問題です。

 

 断食と言うと、私たちは自分とは全く関係のないことのように思ってしまいがちです。私自身、断食した経験はありません。だいたい食いしん坊なので一食でも抜くのは耐えがたく、このことについて真剣に考えたことはありませんでした。

 私は断食の体験者に会ったことがあります。24年ほど前になりますが、留学で北京にいたとき、日本人の商社マンが、毎週木曜日に自宅を開放してキリスト教の集会を開いていました。私はそこにたびたび顔を出していたのですが、ある日そこでシンガポールから来た娘さんが証しをしました。それが断食の体験だったのです。彼女は断食は素晴らしいことだと語っていました。祈りつつ断食をするのが大切で、断食をすることによって自分の思いを神に集中することが出来、自分と神が近くなる、というものでした。

 日本キリスト教会で断食のことを聞くのはあまりありませんが、30年ほど前でしょうか、九州で中会議長まで勤めた牧師が日本キリスト教会を飛び出し、異端の疑いがある原始福音という教派に移ってしまうという重大な事件が起こりました。この時、九州の牧師たちは断食して祈ったということです。

日本キリスト教会ではさらに、何か国論を二分するような大きな政治問題で牧師たちが街なかに出てハンガーストライキをしたことがありましたが、これも断食の一つと言えるかもしれません。

 ただ日本キリスト教会で、こういう場合に断食をするべきだというようなことが言われたことはいっさいはありません。

 

 聖書の中で最初に断食が出て来るのはレビ記の2327節だと思われます。「第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。この日にはいかなる仕事もしてはならない。この日は贖罪日であり、あなたたちの神、主の御前においてあなたたちは神、主のために罪の贖いを行う日である。」…ここで苦行と言われていることが断食です。一年に一度の、罪を贖う日に高齢者と病人を除き、すべての人が断食をしたということです。

 ダビデ王も断食をしました。バト・シェバ事件を起こした時です。ダビデ王の不倫の結果、バト・シェバによって生まれた子が神が打たれたことによってみるみる弱っていくのです。王はその子が助かりますように、と断食して祈っています(サムエル記下121517)。

 ヨナ書にも断食の話があります。ヨナが「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と預言した時、それを聞いたニネベの王様が、人間も家畜も牛、羊に至るまで、断食をし、神に祈れと命じた、と書いてあります(ヨナ3:4~9)。牛や羊がどうやってお祈りしたかはわかりませんが。

 主イエスは荒れ野で悪魔の誘惑を受けたとき、40日にわたって昼も夜も断食なさいました。…使徒言行録にも「断食して祈り」と書かれてあるところが数箇所あります(使徒13231423

 それでは、私たちも断食をすべきなのでしょうか。正直なところ、はっきり言うことが出来ません。キリスト教各教派でいろいろな考え方があるのでしょうが、私たち宗教改革者カルヴァンの流れを組む教会は、断食を制度化していません。信者はお祈りすることや貧しい人たちのために施しをすることが求められますが、断食はそれとは違います。断食することが信者の義務とはなっていないのです。

 そこで今日の箇所を見てみますと、主イエスは「断食するときには」と言っています。これは断食を例に出したまでだと判断されます。断食をしなさいともすべきでないとも言われていないのです。カルヴァンは言っています、「『祈りと断食』には大きな違いがある。というのは、祈りは神信仰の義務の中で第一位を占めるものだからである。『断食』自体はどちらでもよいものであり、また『施し』のごとく神が要求し、認められる行為でもないからである。」

 要するに、断食は信者がしなければならない義務ではありませんが、同時に、してはならないことでもないのです。…人それぞれ、いろいろな食生活があって、ひたすらおいしいものを追い求め、食べ歩きをしたり、自分でも作ってみよう、他の人にも食べてもらいたい、と料理に挑戦する人がいる一方で、…あくまでも質素な食事にこだわる人もいます。また、積極的に断食をする人もいるでしょう。…その中でどれが正しいのか、ここで言うことはいたしません。…もしかしたら私にもこの先、断食して祈らなければならないほどの重大なことが起こるかもしれません。大切なのは、第一コリント書1031節で言われている「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」ということ、そしてもしも断食をするなら、それは祈りと結びついていなければならないということです。

 

主イエスはここで断食を例にとって言われています。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」。

この背景にどういうことがあるかと申しますと、先に申した通り、ユダヤ人には一年に一度、全国民が断食する日が定められていました。しかし、信仰熱心な人はこの他にも次々に断食する日を作っていったのです。たとえばモーセが十戒の板を叩き壊した日、ソロモン王の建てた神殿が外国の軍隊によって破壊された日、王妃エステルがユダヤ人の危機を救った記念の日、などに断食することにしました。イエス様の時代が近くなるにつれて、ファリサイ派の人々はさらにそういう日を増やし、毎週月曜日と木曜日にも断食することにしたのです。

このように断食しなければならない日を際限なく増やしていったらどうなるでしょう。ふつうの人は仕事をしなければなりませんから、これに参加できません。ごくわずかな人、毎週2回断食することが出来る、時間的にも経済的にも余裕のある人が、自分がいかに信仰熱心であるかということを見せびらかすということが起こってきました。自分がいかに苦しみに耐えているかを見せるわけです。その姿を見て、思わず手を合わせたくなるような人もいたのですが、…主イエスが反対されたのは、そうした見せかけの信仰です。

皆さん(のうちの多く)は、主イエスが話して下さった「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」をご存じでしょう。神殿の前でファリサイ派の人と徴税人がそれぞれ祈りをささげますが、その時ファリサイ派の人は「わたしは週に二度断食し」と言っています(ルカ1812)。当時、街の市場が開かれるのが月曜日と木曜日だったそうです。その日、街の人だけでなく地方からも人が集まりますが、その日に断食することで、多くの人に自分が断食している姿を見せることが出来たのです。その時、あえて髪を乱し、汚れた粗末な服を着て、顔を塗って青白く見えるようにしていました。そしてイエス様が指摘されているように「顔を見苦しくする」、つまり「断食がとても苦しい」ということを顔で表していたりしたのです。…断食することで、自分がいかに神様の前に謙遜であるか、熱心に祈っているかということを見せていたのです。

主イエスはそのような見せかけの信仰の行為を批判されました。イエス様は人に見せるのではなく、「隠れた所におられる」父なる神様に見て頂きなさいと勧めておられます。これは断食をするなら、人々の称賛を浴びることを考えず、神様との関係において、神様に向かって断食しなさいということです。それは断食の本来の意味である自分の罪を嘆き悲しむために、またその罪を悔い改めて神様の方に向くために断食せよということなのです。  
 

主イエスは「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と言われました。苦しい時こそ、その思いを外に出さず明るくふるまうべきです。あなたの苦しみが隠れているとき、あなたの心は真実なのです。自分が苦しい思いをしたからと言って、それを他の人に見せびらかすべきではありません。本当に苦労した人は、他の人に対してやさしくなるものです。

断食を、その本来の意味に立ち返って考える必要があります。イザヤ書58章を開いて下さい。3節でまず、人間の神に対する問いかけがあります。「なにゆえあなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」。神様の答え、「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う。見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか」。

この箇所で菅さんから質問を受けました。ここで「お前」、「お前たち」という言葉が使われている、なぜ「あなた」や「あなたたち」でないのかというものです。そこで新共同訳聖書のイザヤ書を調べてみると、神様が人々に恵みの言葉をかける時には「あなた」や「あなたたち」と言って、怒っておられる時は「お前」、「お前たち」と言ったように書いてあります。原文では「お前」と「あなた」と、二つの言葉を使い分けしてはいません。…なお口語訳も、新改訳もみんな「あなた」、「あなたたち」になっており、2018年に出た聖書協会共同訳も「あなた」、「あなたたち」となっていて、お前呼ばわりは姿を消しました。

神様はイザヤ書ですでに、形骸化し、意味を持たなくなった断食を批判しておられます。…それでは本当の断食とは何でしょうか。6節:「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、くびきの結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、くびきをことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」なのです。

神に祈りをささげ、罪を悔い改めるための一つの手段として断食があるのです。もしも断食をしながら、やりたい放題の悪いことをしているなら、断食をする意味がありません。

断食をするかどうかは一人ひとりがその信仰において判断すべきで、断食が自己目的化するようなことは避けなければなりません。イザヤ書58章の言葉を通し、イエス様は断食の形にとらわれないこととそこに現わされた神のみこころこそを尊ぶよう教えて下さいました。

断食は祈りと不可分の関係にありますから、真剣な祈りをするために断食するということはありえます。もちろん断食しなくても真剣な祈りはあり、いずれにしても真剣な祈りがあるところで、こから開けてくる世界があるのです。

旧約の時代、神様は一年に一度、断食をするよう命じられましたが、私たちはもはやその言葉に字義通りとらわれる必要はありません。むしろ神様が「わたしの選ぶ断食はこれではないか」としてあげられたことが、私たち一人ひとりにとって、真剣な祈りの先に見えてきますように。次のみ言葉が与えられていることを感謝します。「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば『わたしはここにいる』と言われる」。

 

(祈り)

天の父なる神様。あなたは今日、礼拝の場を設けて下さり、教会の外でのもろもろの楽しみよりももっと強い力で私たちをみもとに集めて下さいました。私たちは、この礼拝においてあなたのみこころが私たちの中に実現することを見ることが出来ました。私たちに与えられたこの恵みを喜び、あなたが私たちの人生の中心となっていて下さることを感謝いたします。

神様、今日教えていただいた断食のことは、私たちのふだんの生活にあまり関係がないようにも見えましたが、このことを通しても、私たちがいにしえの信仰の先輩たちの信仰を受けついてゆくことが出来ますように。せわしない現代社会の中、忙しい仕事や世の楽しみに心を奪われがちですが、真剣な祈りを決して忘れることがありませんように。自分の信仰のことで自己満足私するのでなく、神様が喜ばれる真の意味の断食をこそ追い求めさせて下さい。その場所において私たちが自分の罪を悔い改めつつ、魂を洗い清め、キリストのおられる高いところに少しでも近づいていくことが出来ますように、どうぞ忍耐と憐みをもって私たちをお導き下さい。

とうとき主の御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。

 

(説教前の祈り)

天の父なる神様。10月最初の礼拝を迎えました。今年もあと3か月で終わろうとしています。一年の初めには今年こそ平和で明るい年になるよう願ったものですが、コロナ禍は少し落ち着きましたがまだ収束しません。ウクライナでの戦争はますます重大になってきましたし、日本国内も安倍さんの銃撃死や国葬、統一協会の問題などでこの国がいかに危うい状態であるかということが露呈されたように思います、しかし、この国の大部分の人は已然として宗教に無関心、霊的なことに関心があってもスピリチュアルなことに向かう人が多く、あふれるほどの情報の洪水の中、ただ一つの救いの泉であるイエス・キリストを仰ぐ人がなかなかいません。

 神様、このような時代の中、どうかここで本当の神様に導かれる本当の信仰を示して下さい。またこの日、伝道のために苦闘している日本中の教会を強め、今の日本に何より必要な大切なメッセージを発信させて下さい。そのたたかいの中に長束教会と私たちも加わることが出来ますように。見たところ数も少なく、力も強そうでない者たちですが、この私たちを地の塩、世の光と言って下さるイエス様のみこころこそが貫徹されますように、と願います。

 

 とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げいたします。アーメン。