熱情の神

熱情の神    出2046、Ⅰヨハネ51821  2022.9.25

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1228、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:30、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:68、説教、祈り、讃美歌:292、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 

 今日は神様からモーセを通して与えられた十戒の中の第二の戒めについて学びたいと思います。これは一般に、ただ一つの神を信じるように命じられた者が偶像礼拝をすることを禁止した掟だと受け取られています。ことわざに「イワシの頭も信心から」というのがあります。私たちの信仰が決してそんな信仰になってしまいませんように、神様が私たちに求めておられるのは何なのかを考えることにいたします。

 

初めに言葉の説明から申し上げます。4節の前半の部分は、以前の口語訳聖書では「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」となっていましたが、今の新共同訳聖書で「あなたはいかなる像も造ってはならない」と、翻訳が少し変わりました。刻んだ像さえ造らなければ良いのではないのです。昔の翻訳では、刻んだ像はだめでも粘土などでこねたものなら良いのかとへりくつをいう人が出ないとも限りませんが、刻んだものでもこねたものでもだめなものはだめなのです。

 また絵であれば良いだろうというのでもありません。ギリシア正教では、十戒の第二戒は立体的な像を禁じてはいるが、絵は禁じられていないと主張しているはずで、教会の中に聖像画、イコンを掲げて、それに向かって拝んだり、祈ったりしています。けれども、「いかなる像も造ってはならない」と言われているときに、絵なら大丈夫だと言うことが神様の前に正しいでしょうか。ここでは刻んだ像とこねた像ばかりでなく画像についても言われているのです。

 それでは、像でもって何が禁止されているのでしょうか。「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」と書いてあります。天と地と地の下の水、これは昔の人たちが考えていた宇宙です。天にある太陽や月や星、地にある動物や人間、地の下の水の中にいる魚や海の怪物など、一切が禁止されています。「それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」のです。宇宙と世界にあるものが偶像になってはいけない、人間がつくった彫刻や絵を神として拝んではいけないし、またこれに仕えてもいけない、人間の手で造ったものをいっさい神としてはいけないことが教えられているのです。

 

 もう一つ言葉の説明をしなければなりません。私たち日本キリスト教会は十戒の第一の戒めが「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」で、第二の戒めが「あなたはいかなる像も造ってはならない」であると考えております。他のプロテスタント教会もほぼ同じです。ところがカトリック教会では、私たちが考える第一の戒めと第二の戒めをくっつけて一つの戒めとしているそうです。そんなこと、どうでもいいことだと思わないで下さい。それが原因で、プロテスタント教会はカトリック教会と礼拝の仕方が全く違ってしまったのです。

 どういうことかと申しますと、カトリック教会は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めの中に「あなたはいかなる像も造ってはいけない」という言葉が含まれると考えます。その結果、主なる神様以外に神はいないという点では私たちプロテスタント教会と何も変わりませんし、もちろん仏像やら何やらを拝むことはありませんが、……他の宗教の神の像は禁じられているけど、本当の神様の像は許されているとしているのです。

では聖書の原文はどうなっているのかという人もいるかと思いますが、これは全部ひとつながり、連続して書いてあります。段落ごとにまとめるというのはのちの時代の人がしたことなのです。

 カトリック教会にはどうしてイエス様の像があるのでしょう。聖母マリアの像があるのでしょう。それが許されていると考えているからです。……私たちの教会にそういうものはありません。プロテスタント教会は、カトリック教会には偶像が置いてある、いくらイエス様やマリアさんであっても十戒の戒めに反していると批判します。するとカトリック教会の方では、いやこれは十戒に照らしても問題はないんだ、禁止されているのは他の宗教の神なのだから、イエス様やマリア様の像は許されている、と言うのです。聖書の解釈の違いがこの結果になってしまいました。もちろん私たちの教会は、「あなたはいかなる像も造ってはならない」の戒めは、他の宗教の神ばかりでなく、イエス様やマリアさんの像についても言われていると信じています。

 

 それにしても普通の人間の気持ちとしては、神様の像を造ってはいけないと言われるのは受け入れにくく、目の前に神様の像があっていつでも拝むことの出来る方がずっと有難いのではないでしょうか。

 昔、宗教改革の時代です、プロテスタント教会がこの問題でカトリック教会を批判したとき、カトリック教会側は反論しました。……当時は今と違って、字が読めない人がたくさんおりましたし、聖書は値段が高くて誰もが手に入れて読むことなど出来ません。そこで「学問のない民衆がイエス様のことをどうやって知るというのか、教会にイエス様やマリア様の像があるのは教育的配慮なのだ」と言うのです。

 これは一理あるようにも聞こえます。私たちにしたって、字は読めるけれども聖書は難しいです。なんだかんだ考えるよりイエス様の像でもあった方が楽でいいなあと思ってしまうかもしれません。

 私は2年前、ヨーロッパに旅行に行った時、ドイツ、チェコ、ポーランドでカトリック教会大聖堂にみごとな聖画や聖像が置かれているのを見て圧倒されました。その場所に入っただけで有難い気持ちになるのです。しかし最後に訪れたスイスの、カルヴァンが説教していた教会、ここには聖画や聖像が全くありません、私はこれを見てカトリック教会の大聖堂以上に圧倒されてしまいました。…いったいカルヴァンは何をもって強大なカトリック教会と勝負したのでしょう。それは「み言葉」にほかなりません。しかしそれはたいへんな闘いだったと思うのです。

私たちは、自分を神様より高いところに置いてはなりません。神様はキリスト教の信仰をもの言わぬ像によって教えようとはなさいません。そうではなく、生きたみ言葉によって教えておられるのです。聖書の言葉と礼拝説教で語られる言葉の中に生きている神様、これを飛び越えて、たとえイエス様の像であってもそれが礼拝の対象となるとき、信仰は損なわれてしまうのです。

 

 私たちが信じている父なる神様、この方は何の形も持っておられない方であることをまず確認いたしましょう。日曜学校の子どもに絵を描かせると白いひげを生やした神様が登場することがあります。子どもばかりではありません。ミケランジェロの絵にもそんな神様が出てきますが、すべて人間の想像に基づくものです。申命記4章15節からこう書いてあります。「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない」。聖書の中で、父なる神様は何の形も持っておられない方であるとはっきり書いてあるのです。

 父なる神様は霊的な存在であられます。目で見ることは出来ず、人間が造った像などでは決して表わすことが出来ないお方です。では、父なる神様はこの世界、目に見える世界とどのような関係にあるのでしょうか。

ある人は、この世界と父なる神様はそれぞれ別々の領域にあり、この世界はこの世界の法則にのっとって成長しつづけ、神様はただ人間の心の中、精神の領域だけに働いていると考えるかもしれません。しかしこれは、聖書に照らしてみるとまったく誤った考え方です。

 神様は宇宙と世界のすべての創造主であられます。目に見えない神様は私たちの目に映るすべてを造られました。神様は世界の何よりも力を持った、大きなお方です。…この神様を、人間が造るどんな彫刻も、どんな絵も表わすことが出来ません。…また、自然の中に神がいるという、山には山の神、川には川の神がいるといった考え方もとうぜん間違いです。ある特別な人間を神として拝むことも出来ません。すべて神様に造られた被造物なのですから、それを神として拝むことは出来ないのです。

 神様は世界のすべてを造られただけではありません。この世界にイエス・キリストを送って下さったのです。

目に見えない神が目に見える姿となって人間の中に現れました。その方がイエス・キリストです。イエス・キリストは人類の罪のため十字架にかかり、ご自身を完全な犠牲としてささげて、贖いをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え、救いの完成される日までその名を信じる人のために執り成して下さいます。

イエス・キリストは父なる神と違って、当然、形を持ったお方です。2000年前のユダヤの人たちは、イエス様をその目で見ることが出来ました。イエス様はいわばビジュアルな形で人間の前に現れた神ですから、そのお姿を想像して絵を描いたり、彫刻を造る人が出て来ます。しかし、どんなに立派につくりあげたからといって、その作品でもってイエス様を表現しきることは出来ません。それはイエス様そのものではないのです。それを拝んではなりません。

こんな人がいるかもしれません。「自分はイエス様を描いた絵が好きで、レンブラントの描いたイエス様の絵の複製画を家に置いています。こんなこともいけないのでしょうか」。

しかしレンブラントだってプロテスタント教会の信徒です。その絵は礼拝の対象として描かれたものではありません。そういうことをわきまえた上で見て下さい。また、こういう問題は絵画だけに限りません。私たちはイエス様がテーマになった文学作品を読んだり、映画を見たり、また音楽を聴くこともあります。ただそれらがいくらすぐれたものであっても、イエス様のすべてを描ききることは出来ないのです。本当のイエス様は私たちが見たり、聴いたり、想像したりすることすべてをはるかに超えておられるからです。

 

神様は十戒の第二の戒めで、礼拝とはどうあるべきかを教えて下さっているのです。人間は放っておくと好き勝手な方法で礼拝をし始めます。自分に都合の良い神様を造って拝むばかりでなく、本当の神様であっても間違った方法で拝むことがあります。神様自ら教えられ、求められる礼拝を私たちは目指していかなければなりません。

間違った礼拝、これは神様を怒らせ、悲しませます。神様は「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」と宣言なさいます。「熱情の神」は、口語訳聖書では「ねたむ神」と訳されていました。「ねたむ神」というのは、神様を表わすにはどうも違和感のある言葉で、訳が「熱情の神」に変わったのは良かったと思います。…神様は人間をあまりにも愛しておられます。熱情をもって愛しておられます、ひとり子イエスを見捨てたもうほどに。だから人間が神様の愛を裏切って、他の神を拝んだり、礼拝が礼拝と言えないようになってしまうなら、神様は耐え難くてお怒りになられます。

神様は人間が死のうが滅びようがどうでも良いと思ってはおられません。冷たく人間世界を見下ろし、孤高の世界におられる方ではないのです。目に見えない神様が目に見えるどんな力よりも大きく、私たちを支えていることをわかって下さい。

神様は救いを求める私たちの背中を押して下さいます。祈りに答えて下さいます。神様がおられるから今の皆さんがおられ、今の私がいます。この神様への礼拝こそ私たちの人生の最重要な関心事でなくてはなりません。正しい礼拝こそが正しい信仰生活を生み出し、その賜物としての祝福された人生が開けてゆくのです。

 

(祈り)

 天の父なる神様。神様は私たちの貧しい礼拝を今日もかえりみて下さり、ここでご自分が私たちと共にいますことを示して下さいました。心より感謝申しあげます。

 私たちの教会の礼拝がどうか力あるものとなりますように。十戒の第二の戒めで教えられたことを心に刻み、唯一絶対の神様を神様の望まれる方法で拝んでゆく者として下さい。私たちは他の宗教が崇拝しているものを拝むことはないとしても、神様の姿を自分勝手に思い描いて、その神様を自分の思うように動かしてゆこうとする誘惑から、いまだに解放されていません。まことに残念なことです。私たちみな神様への畏れを取り戻し、いつもあなたのしもべとして生きることが出来ますように、ひとりひとりの心の中に正しい礼拝を打ち立て、それでもって広島長束教会を力づけて下さい。

 

 これらの願いと祈り、主イエス・キリストのみ名によっておささげします。アーメン。