救いをもたらす神の力

救いをもたらす神の力  詩編71113、ロマ11617   2022.9.18

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1227、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:Ⅱ-1、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:74、説教、祈り、讃美歌:235、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 パウロはこのローマの信徒への手紙で、初めに自己紹介をしています。それが1章1節から7節まで。次が挨拶、あなたがたにぜひ会いたい、信仰によって互いに励まし合いたいのです、これが8節から15節まで。そして今日の16節、17節でいよいよ本論に入ります。ここはキリスト教信仰の中心となる事柄が語られていると言われるほど重要なところなのですが、そこには一つの理由があります。というのは、ここは16世紀にマルティン・ルターが始めた宗教改革に大きな、いや決定的な影響を与えたところだからです。17節、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」、ルターはここから、その時代の教会が見失っていたまことの福音をつかみとったのです。その意味でここにあるのは世界を変えた言葉でもありました。

 

 そこでまず16節から見てみましょう。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。…ここで問題になるのは「わたしは福音を恥としない」という言葉です。パウロがもしも「わたしは福音を誇りに思っている」と言ったのだとしたら、誰も問題にしません。みんな、パウロ先生ならそれは当然のことだと考えるからです。ところがそうは言いません。なぜ「福音を恥としない」と否定形で言わなければなかったのでしょうか。

そこにはおもに2つの解釈があります。一つは、パウロには福音を恥とするような思いは1ミリとてなかったというものです。…しかし、これとは反対の考え方をする人がいます。それは、パウロの中にはその言葉通り「福音を恥とする」気持ちがあったというものです。皆さんはどう思われますか。

 なかなかややこしいのですが、このように考えてみたらどうでしょうか。例えば、どこかの学校の運動部が毎日きつい練習をしている、その時、その運動部のキャプテンが「わたしは練習を苦に思わない」と言ったとします。その人はきつい練習でも楽しくて仕方がないのでしょうか。中にはそういう人がいるかもしれませんが、大体のところ練習はやはり苦しいのです。しかし「なんでこんな厳しい練習をしなくてはならないのか」という思いにまさる喜びがある人はがんばれるのです。…こういうことから類推して、パウロも「福音を恥とする」という思いを持っていましたが、これを上回る何かに支えられて生きていたと言うことが出来るように思います。

 パウロがアテネの都に来た時、彼の話を初めはしっかり聞いていた人たちが、いざ「死者の復活」ということに話が及ぶと、「ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」と書いてあります(使徒1732)。パウロが福音を語った時にあざ笑った人がいたのですが、こんなことはざらにあることでした。パウロはさらにこれを上まわる大変にひどいしうちを何度も受けています。何もしなければ痛い目に合わなくても良かったはずなのに、福音を語ったばっかりに、ということなのです。

 パウロとは比較になりませんが、私たちのうちの多くもそれに通じることを経験しています。日本ではキリスト者は少数なので、職場でも学校でも地域でも自分がクリスチャンだと言いにくい雰囲気があるでしょう。まして他の人に福音を語るということを想像してみて下さい、「私にはどうも」という人がいたら、その人は福音を恥としているのです。

 パウロにとって、堂々と福音を語るのが難しい状況があったことは確かです。イエス様は失礼ながら、およそ神様らしからぬ神様でした。この時代、多くの人々に信仰されていたゼウスとかアポロンとかアフロディテ、ヘラクレスなど、どれも人間の理想を体現した、見るからに素晴らしい神様だと思われていました。これに対し、十字架にはりつけにされたイエス様は、ちょっと比較にならないのではないでしょうか。「お前はどうして、あんな奴を信じているのか」、そんなことを言われ続けながらアジアとヨーロッパをめぐっていったパウロが、今度は世界の都ローマに乗りこもうとしているのです。

 実は16節の言葉を理解するためには14節から読まなければなりません。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」…原文ではこのあと「なぜなら」という言葉が入るので、それを入れて読むとこうなります。「なぜなら、わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 「福音」とは「喜ばしいしらせ」、「グッドニュース」のことです。神様から与えられる驚くべき、良い知らせです。1章2節に「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」と書いてありますからイエス・キリストについてのことです。イエス様が死んで復活された、この方を信じる者が救われるということにほかなりません。

 パウロはそんな素晴らしいことを知らせるメッセンジャーとして神様に任命されていながら、実際には私たちが想像も出来ないほどのさまざまな妨害にぶつかって、押しつぶされそうになりながらそれと闘わなければならず、それこそ福音を恥とせざるをえないところまでなっていたのです。…ここで私たちがパウロ先生のことを批評するのはおこがましいのですが、この状況はパウロが自分の力でいくら努力したとしてもどうなるものでもありません。…いったい人が「福音を恥としない」と言えるためには何が必要なのでしょうか。私たちなら強い意志、不屈の信仰、勇気といったことを考えます。しかしパウロはそうではありません。パウロがここで書いているのは、そんなものではなく福音そのものの力です。力、これは原文でデュナミスというのですが、ここからダイナミックとかダイナマイトという言葉が出て来ました。パウロは自分は福音を恥としないと言う、それは福音が神の驚くべき力だからです。それは「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす」、ここでのギリシア人はユダヤ人以外のすべての人々、つまり異邦人を代表しています。ですから福音には、それこそ全世界の人々に救いをもたらす力が働いており、パウロはこれを信頼することによって、自分の中にある福音を恥とする思いとたたかい、これに打ち勝つことが出来たのです。

 

福音とはイエス・キリストについてのこと、死んで復活されたイエス様を信じて救われるということですが、17節をご覧下さい。「福音には、神の義が啓示されています。」、ここに「神の義」という言葉が初めて出て来ました。義というと正義と不義があり、神様が不義のわけはありませんから、神の義とは神の正しさとなります。

パウロは「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」に続けるかたちで「福音には、神の義が啓示されています」と書きます。この続きぐあい、皆さんは納得できますか。まあ、私たちは深く考えることなく「ああ、そうなんですね」となってしまうのですが、このことを徹底的に考えたのがマルティン・ルターでありました。

 

マルティン・ルターは1483年、ドイツで農民の子として生まれました。彼は快活な明るい性格の青年だったようですが、自分が救われないまま死んで神様の前に立たせられたらいったいどうなるかということに悩んで、修道院の門をくぐりました。修道院の一日は朝2時の鐘で始まります。一日7回のお祈りの時間、労働、断食、徹夜などの日課を果たして行くのです。食事の量も少量でした。ルターは修道院の戒律を決められた以上に厳しく守り通しました。しかし心の平安は得られなかったのです。その後、ルターは司祭になり、やがて大学の神学部教授にもなりましたが、ミサを執行している最中に言いようのない恐怖にとらわれて、その場を逃げ出したくなるほどでした。彼は、罪深い人間がどうして神様に対し、ほとんど対等の立場で語りかけることが出来るのかと思って怖くなってしまったのです。

 ルターが求道を始めたのは死の恐怖からでした。修道院に入ることによってこの問題の解決が与えられることを期待したのですが、しかし彼の思惑に反して、問題はますます深刻化して行きました。ルターは神を恐れました。神は正義を貫かれる方、人間の少しの罪も見逃さない方です。神の前に立つ時、誰が無事でいられるでしょうか。神は人間の体も魂も滅ぼすことが出来るのです。

 そのような思いで聖書を読んでいた時、ルターにとってどうにも理解に苦しむ箇所がありました。その一つが詩編第71編です。2節に「恵みの御業によって助け、逃れさせてください」、彼はこれが理解できませんでした。ここは口語訳聖書では「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」となっています。聖書の翻訳は本当に難しいですね、「あなたの義をもって」が新共同訳で「恵みの御業」と訳し変えられていますが、詩人はその言葉を喜びと感謝の思いで語っています。ルターはこのことが理解できませんでした。ルターにとって「神の義」とは、神がご自分の正しさによって人を裁くまことに厳しい判断基準であり、恐ろしいものでこそあれ、喜ばしいものや救いをもたらすものではない。それなのにこの詩人は「神の義」を喜ばしい救いの言葉として語っている、それは何故なのかということです。

 ルターにとってもう一つ理解できなかったのがロマ書の1章17節です。「福音には、神の義が啓示されています」。ルターにとって神の義は福音どころか裁きの宣言、お前は神の前に滅びるぞという告知でしかなかったからです。私たち凡人なら見落としてしまうことを見つけ、悩みぬいた、さすがルターですね。

福音には神の義が啓示されているとはどういうことか、ルターはそのことを日夜祈りつつ、問い続けました。やがて、まさに神の霊に導かれ、彼は自分が誤解していたことに気がつきます。神の義とは人間を容赦なく罪に定める、そんな義ではありません。人間はどんなに良い行いをしたところで罪から逃れることは出来ません。そして神は人間の罪の現実をそのまま受け入れてしまわれる方ではありません。けれども神の義しさはイエス・キリストによって示されます。すなわちキリストは、人間の罪に対する神の怒りを身代わりとなって引き受けられました。それが十字架です。神が正義を貫き通され、しかも人間が神の怒りによって滅ぼされることがない、この不可能と思える企てをなしとげるために神のみ子がとうとい命を捧げて下さったのだ、そのことがわかったルターは、まるで自分が生まれかわり、天国の門の中に導き入れられたような気持ちがしたそうです。

 ルターにとってそれまで恐ろしい顔を見せていた神が愛の神に変わりました。もはや神の怒りを恐れて神経をすりへらすことはありません。神の義とは人間が奮励努力して獲得すべきものではなく、キリストを信じる者に神が無償で与えて下さる義です。…キリストを信じる者は義とされています。そんなの虫が良すぎるではないかと思われるかもしれません。しかしそうでもしなければ、私たち人間が神の前に立つことは出来ないのです。…キリストが自分のために神の罰を引き受けて下さった、だから私は義とされている、そう胸をはっていて良いのです。ルターが1517年に立ちあがって宗教改革を始めたのは、このような、彼が人生をかけて考え抜いたことの結果として行われたことだったのです。

 

福音に啓示されているこの神の義は、信じる者すべてに救いをもたらします。神の義がまるで贈り物のように私たちに差し出されているのです。その贈り物を喜んでいただくことが信じること、信仰です。私たちが神の義をいただくために必要なのが信じること、信仰なのです。「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と言われている通りです。

17節の最後の「正しい者は信仰によって生きる」、これはハバクク書2章4節からの引用ですが、これも同じことを言い表しています。「正しい者」とは「義なる人」のこと、神様によって義とされた人は信仰によって生きるのです。その信仰とは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が与えて下さる義をいただくということにあります。自分の中に拠り所を求めて、それによって生きていくのではなくて、神が独り子キリストによって与えて下さった義によってのみ、つまり神の恵みの業によってのみ生きる者、それが「義なる者、正しい人」なのです。

パウロが語った真理をルターが再発見し、「信仰のみによって義とされる」ことを高く掲げたことから宗教改革が起り、プロテスタント教会が誕生しました。私たちはいまその信仰によって礼拝しているのです。

 

(祈り)

 神様、私たちはふだん良からぬことを考えたり、行ったりして、ほかの人はもちろん自分をも傷つけています。たとえ正しい行いと清い生活を心がけたとしても神様の義の前に、自分は何と汚れた者かと思わざるをえません。その私たちのことで神様はいらだち、失望され、怒っておられるはずです。しかし神の義が恵みの御業となって私たちに与えられていることを、私たちはまさに福音として感謝して受け取り、神様を賛美する者でございます。イエス・キリストによって世界に示されたこの驚くべき出来事が私たちの日々の歩みを支えて下さいますように。

 私たちは自分自身の信仰がまだまだ未熟、まして他の人を導くなんてとんでもないと思っていますが、どうか「わたしは福音を恥としない」という思いに導かれますように。愛する自分の家族、友人、その他の人々に福音を伝え、共に神様を賛美することが出来ますよう、そのための一歩を踏み出す勇気を与えて下さい。

 

 主イエス・キリストの御名を通して、この祈りをお捧げします。アーメン。