もし人の過ちを赦すなら

もし人の過ちを赦すなら  詩編34123、マタイ61415   2022.9.11

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1226、讃詠:546、交読文:詩編85:9~14、讃美歌:7、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:121、説教、祈り、讃美歌:246、信仰告白(使徒信条)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

マタイによる福音書第6章にある「主の祈り」をひととおり学んできましたが、今日がその最後になります。

6章の14節と15節、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」、これはふだん目にとまることが少ないところではないかと思います。6章9節から13節までは、いま私たちが唱えている「主の祈り」の原型になったところなので、どこの教会でも繰り返し取り上げられますが、その時、14節と15節を飛ばしてしまうことがよくあります。この箇所は、12節に書いてある「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とよく似ていて、意味もほとんど同じだと考えられるので、改めて取り上げる必要はないと判断されてしまうようです。ただこの二つがほとんど同じことを言っているのだとしても、ただの繰り返しだから意味がないということにはなりません。繰り返しているのは内容がそれだけ重要であるからということにはなりませんか。

 

そこで「主の祈り」が与えられた状況をもう一度振り返ってみましょう。ルカ福音書11章には、主イエスが祈っておられるのを見た弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言って、イエス様がそれに応えて「主の祈り」を教えて下さったことが書いてあります。祈りを教えてくださいという求めに応じて与えられたのが「主の祈り」だったのです。これに対しマタイ福音書は5章に始まって8章まで続く、山上の説教という長い説教の中に「主の祈り」が収録されているのです。

歴史的にいったいどちらが本当なのかは今さら確かめようがありません。ルカもマルコも聖霊に導かれて、自分が直接見たことや伝聞、またすでに書かれていた記録をもとにそれぞれの福音書を書いていったのですから、両方とも正しいとみて間違いありません。

ルカ福音書には、少しでも時間があると真剣な祈りをされているイエス様に圧倒され、心を打たれた弟子に「主の祈り」が与えられています。それは祈ることが出来ない者に与えられた祈りです。私たちもイエス様のような真剣な祈りは出来ません、だいたい言葉がなかなか出て来ません、しかしそんな人間に、こう祈りなさいと言われて与えられたのが「主の祈り」だったのです。

一方、マタイ福音書はこれとは違う視点に立っています。ここで「主の祈り」の前後をみると、6章1節から「施し」について説かれ、5節から「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」と、祈る時の心がまえが説かれていて、その中に「主の祈り」があります。そのあと16節からは「断食をするときには」という話になっています。

イエス様の時代の人々、特に指導的な宗教家にとっては、施し、祈り、断食という信仰の行為がきわめて重要な意味を持っていました。しかし、それは形骸化していたのです。当時、人々から立派な信仰者として尊敬されていた人たちをイエス様は偽善者だと言って切り捨てます。彼らは人に見てもらおう、ほめてもらおうと、施し、祈り、断食においていわば演技をしていたのです。イエス様は外面をとりつくろうのではない、本当の信仰を教えて下さいます。その中に祈りについての教えがあるのです。

 主イエスは6章7節で、異邦人の祈りを引き合いに出しています。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」、その理由は「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」。祈る時に同じことを何度も繰り返すというのは私たちにもないわけではありません。聖書にもその実例があります。言葉数が多いということ自体はとがめられることではないのですが、その時の心の持ちようが問題です。私が考えるにこれは、どうせ神様は自分の願いなど聞いて下さらないだろうと最初からあきらめて、

愚痴を並べるように祈ることです。

 イエス様はそこで「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と言われます。…皆さんの中にはどうしてそんなことが、神様は私のことわかっておられないからお祈りするんじゃないか、と思われる人がいるかもしれません。…ここで神様と私たちの関係を親子の関係に例えてみましょう。人間の親にはいろいろな人がいて、良い親もいればそうでない親もいます。毒親なんて揶揄される人もいますが、神様はそうではありません。良い親なら子どもがあれもほしい、これもほしいと言った時に全部言われた通り買い与えるなんてしません。子どもにとって本当に必要なものだけ買ってあげるのです。何がその子にとっていちばん必要なのかわかっているからです。

 皆さんがこのことを確認できたなら、イエス様の8節の言葉が理解出来るでしょう。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」神は人間にとって何が必要なのか、ご存じです。私たちが祈っている時も、私たちのことを私たち以上に知っておられます。だから、くどくどと祈る必要はないのです。神様は私たちが祈っている時、祈り求めることをすべてかなえることはなさりませんが、私たちが必要なものを私たち以上に知っておられ、祈り求める前からかなえてあげようと待ちかまえておられます。祈りはきかれる。「だから、こう祈りなさい」と言われ、そこに「主の祈り」があるのです。

 

 皆さんはすでにご存じのことですが、祈りはひとりごとではありません。イワシの頭に向かっていくら願い事をしても、それは自分にはねかえってくるだけですが、残念ながら世の中には、そういう祈りをしている人がまだまだ多いようです。祈りはひとりごとではなく、神様との対話です。神様がたしかにそばにおられ、私たちが捧げる言葉を聞いていて下さると信じられるからこそ祈ることが出来るのです。

そのために与えられた主の祈りで、イエス様はお祈りの対象が「天におられるわたしたちの父」であると教えて下さいました。これは、とても畏れ多いことです。私たち人間とは隔絶されたところにおられるはずの神様がご自分を父と呼ぶことを許して下さる、その恵みの中に「主の祈り」があります。「主の祈り」は世界を包むほどの完全な祈りで、その中のどの祈りも欠かすことは出来ません。どれがより重要でどれがそうでないということはないのですが、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」が、14節になって「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と繰り返されているのは、そこで言われていることがそれだけ重要であるということです。

 

「わたしたちの負い目を赦してください」に始まる言葉も、「もし人の過ちを赦すなら」に始まる言葉も両方とも、罪の赦しということを言っています。私たちは誰もが自分の生活の中で他の人に対して罪を犯すことがあり、また他の人が自分に対して罪を犯すこともあります。人はたいがい、自分が他の人に対して行った罪に対しては無頓着ですが、自分が受けた罪に対しては怒り狂って絶対許せない、となるものです。足で踏んだ側は覚えていないけど踏まれた側はいつまでも覚えている、今度は被害者に抗議された側が逆切れして当たり散らすということが、個人と個人の間、お店での店員と客の間、さらに国と国との間でもしばしば起こっています。こうした問題はなかなかやっかいで、トラブルが起こった時、謝ってばかりいると相手につけこまれることがあります。身内から、あなた、もっと強く出なければだめ、と言われることもあるでしょう。国と国との関係では、相手に対し穏やかに出ると、自分の陣営から弱腰だと批判されることがあり、こうして争い合う両者が強硬に出た結果、収拾がつかなくなることは枚挙にいとまがありませんが、この時、両者とも神様が見えなくなっているのです。ではどうしたら良いのか、このことを主イエスが語って下さったたとえ話によって見てみましょう。

 

それはマタイ福音書1821節から35節にかけて書いてあることで、ペトロの質問から始まりました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。自分に対して罪を犯すのは兄弟です。すなわち同じ神様を信じる人が自分に対して悪いことをした時のことです。ペトロは何回赦すべきでしょうか、七回までですかと言うのですが、それは、ユダヤでは罪を犯した者を3回まで赦せと教えられていたからです。3回を7回まで延ばしました、もうこれくらいで良いのではないでしょうか、とペトロは言います。しかし主イエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と驚くようなことをおっしゃいます。これは数え切れないくらい、無限に赦し続けなさいということです。いったいこのようなことが可能でしょうか。そこでイエス様は不届きな家来の話をして下さいました。

ある王の前に一人の家来が連れて来られました。王が計算するとこの人の借金は一万タラントンありました。一万タラントンがどれほどの額か、当時の労働者の一日の給料が一デナリオンです。それが六千デナリオンで一タラントンになるので、計算すると六千かける一万で六千万デナリオン、銀で258トンという途方もない額になります。

主イエスがこの人の借金を一万タラントンと言ったのには意味があります。このお話は「天の国のたとえ」(1823)でありまして、王は神様のこと、家来は神に造られた人間を表わしています。イエス様はここで、私たち人間が神に対し、莫大な借金をしている僕(しもべ)であるとおっしゃるのです。人間は本来、万物の創造主である神に全身全霊をあげて仕えていかなければならない僕なのにそれを忘れて信仰をないがしろにし、罪の思いと行動を重ねている間に、神様に対する借りがどんどん増えてゆきます。私たちは何をするにしても、自分の人生すべてを神様のために捧げるべきなのです。たとえ犯罪など犯していなくても、神様のために用いなければならないはずの時間をむだにしている間に借金は雪だるま式に増えてゆきます。これはちょっとやそっとのことでは返済出来ません。いや自分の持っているすべてをもってしても払い切れるものではないのです。

そこで王は家来のことを憐れに思って彼を赦し、借金を帳消しにしてあげました。…これが私たちに教えていることは明らかです。私たちは誰も皆、神様に対して莫大な負債をかかえていて、それを返却することが出来ません。…しかし神様に赦して下さるただ一つの方法があります。…それが神のみ子イエス・キリストが私たちの受けるべき罪の罰をかわりに引き受けて死んで下さったということです。このことを信じ、イエス様を主と信じる時、人は罪のない者と認められます。イエス・キリストのお働きによって、私たちは無罪放免となったのです。…ただしこのことでもって、神様がまるでお人よしのように侮られることがあってはなりません。そのことを無罪放免になった後の家来の行動が教えてくれます。

1828節、「家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」。一万タラントンの借金を帳消しにしてもらった家来にとって、百デナリオンを貸しているのは同じ神様に仕える信徒、兄弟です。それなのに出会ったとたん、いきなり借金返済をせまり、牢に放り込んでしまうのです。…だいたいこの家来自身、莫大なお金を王から借りていたのです。この百デナリオンだって、この人の金というより、王からの一万タラントンの一部だったのです。ですからこの人は、自分のものでもない金を、あたかも自分の金であるかのように要求したことになります。

家来の行動は王のもとに報告されました。家来は王から「不届きな家来だ」と言われてしまいます。「わたしが憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。神から憐れみを受けた者、罪を赦された者は今度はそれを他の兄弟に向けて差し出さなければなりません。他の人の過ちを赦してあげなさい、これは私たちを赦して下さった神から私たちに与えられた命令です。これに逆らう人はあの家来と同様、神の裁きを受けなければならないでしょう。

なお、このたとえ話で、罪を赦してもらった家来が罪を赦してあげるべき人は兄弟でした。信仰の兄弟です。では兄弟でない人にはこの命令は適用されないのでしょうか、しかしそのように考えてしまうとキリスト教信仰は独善的でたいへん危険なものになってしまうので、神学的に考えることが大事です。私たちは主イエスがユダヤ人の社会に生きていながら、一つの民族の枠の中にとどまることを快しとせず、ご自分を信じない人々のためにも命を捧げられ、すべての人を兄弟にしようとなさったことを忘れることがあってはなりません。

 

私たちはみな神様から自分の過ちを赦してもらったがゆえに他の人の過ちを赦すことが出来るのです。赦すから、赦してくださいと言うことではありません。神様から罪を赦されているから、人の罪を赦すことが出来るのです。他の人の罪を赦す、これはたいへんなことです。勇気が要ります。けれどもそれは罪を赦された人をも確実に変えてゆきます。それでも相手が変わらなかったら、相手が変わるまで耐えてゆくのです。そのようにして憎しみも疑いも溶かしてゆき、最後には共に神を賛美するに至る、そのことにかけてゆくのです。

私たちが兄弟を赦して愛し合うというのは、私たち自身が神から赦されていることの結果であり、証拠なのです。

 

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様、そして私たちの父なる神様。今日いただいたみ言葉から、神様の愛に比べて、私たちの愛がいかに貧しいものであるかということを思い知らされました。神様が私たちの罪を深く悲しんでいて下さっているのに比べて、私たちの思いはにぶく、自分が人を傷つけたことはあまり気にしないのに、自分が傷つけられると人の罪ばかりを責め立てるのです。時には、その思いを正義の名によって飾り立ててしまうこともあります。

 他の人の過ちを赦さない、ふとどきな家来とは私たち自身のことです。自分たちの罪の深さに恐れをいだきます。しかし恐れの中で主イエスの恵みの言葉に耳を傾けます。神様は私たちをすでに赦していて下さっているのです。そのことを心から信じ、神様から恵みを受けた者として、その恵みにふさわしい歩みをすることが出来ますように。

 神様、いまの複雑な世界で、教会の中にさえ、自分を絶対に正しいとみなし、兄弟とみなさない人々の苦しみを意にとめず、そればかりかその状況に加担さえしてしまうところがあるかもしれません。だから長束教会を初め、どんな教会にも、自分を崇めるのではなく、神様のみを畏れ敬うことを教えて下さい。

 

この祈りをとうとき主イエス・キリストのみ名によってお捧げいたします。アーメン。