アーメン

アーメン    イザヤ6524、Ⅱコリント11520  2022.9.4

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1218、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:312、説教、祈り、讃美歌:298、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式、讃美歌205番)(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 主の祈りをこれまで7回にわたって学んできました。私たちがこの祈りを唱える時、「国と力と栄とは、限りなくなんじのものなればなり」のあとに必ず「アーメン」をつけて終わります。そこで今日は、「アーメン」について学ぶことにいたします。

  もちろん私たちがアーメンを唱えるのは、主の祈りの時だけではありません。どの祈りの時にも唱えているし、讃美歌を歌う時にも唱えています。アーメンとはキリスト教のことだとは誰でも知っていることなので、子どもの時に「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」などと言われてからかわれた経験のある人もいるでしょう。アーメンはキリスト教そのものと言っても良いくらい大切な言葉なのです。

 「アーメン」はすでに旧約聖書にも何か所か出てきます。例えば申命記2715節、「『職人の手の業にすぎぬ彫像の鋳像は主のいとわれるものであり、これを造り、ひそかに安置する者は呪われる。』それに答えて、民は皆、『アーメン』と言わねばならない。」…申命記27章ではこのように、モーセが取りついだ神の言葉に対し、民がくりかえし「アーメン」と唱えています。

 アーメンとはへブル語から来た言葉で、まことに、たしかに、その通り、といった意味があります。神が言われたことについて「本当にその通りです」という思いを込めてアーメン、また「確かに承りました。その通りにいたしましょう」というような時にもアーメンと言うのです。

 第一コリント書14章には祈りについての議論があって、その内容はここで立ち入ることはしませんが、16節に、「さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に『アーメン』と言えるでしょうか」と書いてあります。ここから、誰かがお祈りしたあと、そこに居合わせた人がその祈りに合わせて「アーメン」と言っていたことがわかります。

 こういうところを総合すると、神の言葉を受けて、また他の人の祈りに合わせてアーメンと言っていたことがわかります。そこで、アーメンとは、神様と人との関係の中で、先に言われた言葉に対し「はい、その通りです」、「異議なし」という意味で唱えたのだと考える人がいるかと思います、これは間違いではないのですが、アーメンの意味をそれだけに限ってしまうと不十分です。アーメンにはもっともっと深い意味があるのです。

 

 いま申し上げたようにアーメンには、まことに、たしかに、その通り、といった意味があります。みな肯定的な言葉です。これと反対の言葉が、違いますとか、いやだとか、否定的な言葉になります。

 子どもは生まれてから少しずつ言葉を覚えてゆきますが、初めから「いやいや」と言っている子はいないと思います。「うん」とか「はい」とか、まず肯定的な言葉を覚えるものです。…生まれたときから怒っていて、「ママ、なんでぼくを産んだんだよ」なんて子はいないはず。人は生れてからかなりたってから親の言うことに逆らって、いやだと意思表示することが起こります。肯定するのが先で否定はあとです。「うん」とか「はい」が最初で、「いやいや」、「いやだー」、「いいえ」はあとから出て来るのです。

肯定的な言葉と否定的な言葉、「うん」とか「はい」に対する「いやだー」とか「いいえ」、これらをちょっと難しく言うと「然り」と「否」になります。「はい」に相当するのが「然り」、「いいえ」に相当するのが「否」になるので、これが出て来る第二コリント書1章19節を見てみましょう。

「わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては、『然り』だけが実現したのです。神の約束はことごとくこの方において、『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して、『アーメン』と唱えます。」

 皆さんはこれだけでは何を言っているのかわからないと思います。そこで15節のところから説明しましょう。

 「このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるように、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。」

 福音を伝えるために世界をかけめぐっていたパウロが最初に立てた計画は、まずコリントに行く、そしてコリントの北にあるマケドニア州に行き、マケドニア州からコリントに戻ったあと、船でユダヤに送り出してもらうというものでした。パウロはそのような計画をコリントに手紙などで予告していたはずです。ところが計画通りにはなりませんでした。なぜ計画通りにならなかったのか、結局どうなったのかということについて詳しいことはわからないのですが、コリントの教会にとっては、パウロが来ると予告していたにもかかわらずこの時、まだ到着していないので、手紙などでパウロを厳しく非難したようです。…現代の私たちからみると、旅行の日程が変更され、来られなくなったことでどうして厳しく非難されるのかということにもなりそうですが、2000年前は交通事情が悪く、手紙のやり取りすらもたいへんだった時代です。パウロは何かやむにやまれぬ事情があって計画を変更したのでしょうが、コリントの教会としては、これはパウロの怠慢だと思ったのかもしれません。あるいは、この教会は何か大きな問題をかかえていて、パウロ先生にすぐにでも来て解決してもらいたいのにいったい何をやっているんです、ということだったのかもしれません。

 現代の私たちがここを読む時、パウロが伝道旅行の計画を変更したということ、つまり予定変更が、17節で「わたしにとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのでしょうか」、19節の「神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません」という論理の展開はわかりにくいのですが、これは人生における失敗と関係があると考えて良いと思います。もともとの計画通りだったら「然り」となるべきところ「否」となってしまった、そうみんなは言っている、パウロはしかしこれは本当に「否」と言えるのですかと言うのです。

予定変更なんて私たちの人生にもざらにあることですが、これは普通に考えると良いこととは考えられません。思い描いた通りの結果にはならず、次善の策を選ぶか、最初の目標をあきらめるしかなかったのですから。

しかし、ここで人生における予定の変更ということを考えてみて下さい。こういうケースはどうでしょう。ある少年がいて野球が好きで好きで、将来、大谷選手のようにメジャーリーグで活躍したいという夢を描いていたとします。しかし多くの場合、そのような夢は実現出来ません。懸命に練習してもプロ野球選手になれなかった、メジャーリーグで活躍することは出来なかった、これは良いこととは言えませんから「然り」という言葉をあてはめるわけにはいきません、「否」となってしまうわけです。……けれども、この少年がプロ野球選手を目指して努力したことは決して無駄に終わったのではないと考えることも出来ます。この少年はその後、体育の先生になったかもしれません、スポーツで鍛えられた精神でもって社会の中でとうとい働きをしたかもしれません。そう考えていくとこの少年は、夢をかなえることが出来なかったかわいそうな人だと決めつけることは出来ませんね。そうすると否定的ではなく肯定的に見ることが可能になります。「否」ではない、「然り」となるのです。

パウロは「イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては、『然り』だけが実現したのです」と言います。

これは神の導きの下で、計画の変更を余儀なくされたという否定的なことも良い方向に変わった、つまり「否」ではなく「然り」が実現したということなのです。予定変更はパウロを待っていたコリント教会の人々にとって残念で、腹立たしいことでありましたが、 しかし、それさえも、イエス・キリストにおいて良い方向に向かったということが第二コリント書をこのあと続けて読むと明らかになります。「然り」だけが実現した。「それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して、『アーメン』と唱えます」と言うことが出来るようになったのです。

  

 ここらへんの論理の展開はなかなかややこしいので、私が高校の倫理社会の時間に習った弁証法という考え方を持ってこなければなりません。弁証法とはものごとを発展、運動のかたちで捉える理論で、古くはソクラテスやプラトンの時代からあったようですが、これを大成したのがヘーゲルという人です。ある命題があり、それを否定する命題があるとします、二つの命題は矛盾しています。しかし次に現れるのが両方の命題を新しい次元で統合した命題であるというものです。…例をあげてみると、ここにAさんという人がいるとします。ある人はAさんを非のうちどころのない善人だと考えます。しかし別のある人はAさんをどうしようもない悪人だと考えました。このように一人の人についても矛盾した見方があることが多いのですが、この人をさらに深く観察することで、先の二つの見方はどちらも表面的だとわかり、Aさんは良いところもあれば欠点もあるという見方に達したとすれば、この人は「然り」の部分と同時に「否」の部分も持った方であるとなり、より一歩真実に近づきます。このようにして認識が深まってゆくのです。

 で、このことをパウロが書いたことに応用してみましょう。コリント教会を訪問する計画が狂ってしまったことについてコリントの教会が「パウロ先生、なんで約束通り来てくれなかったのですか」というのはパウロに否定的なもの、「否」をみる見方です。しかし計画の変更が神のみこころによって起こり、それが結局はコリント教会にとって良いことになるとすれば、それは「然り」と言うべきです。では「然り」であると同時に「否」ということでしょうか。しかし神のなさったことが同時に然りであり否であることはありえません。神がなさったがゆえにどこまでも然りであり続けるのです。

 このことをイエス・キリストにおいてみてみましょう。パウロは、イエス様が「『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです」と言います。本当にそうでしょうか。皆さんの中には、イエス様は完璧なお方で「否」と言われるような部分は全くないと考える方がおられ、それは全く正しいのですが、おおもとから考えてみましょう。イエス様が十字架につけられて死なれたことは、この方を死に追いやった側からみたら、イエスは神を冒涜するという最大の罪を犯した結果、無惨な死を遂げたのだからと同情の余地はなく、否定的意味しか持ちません、十字架においてイエス様は全面的に「否」であったのです。…しかしイエス様が罪のないお方でその死がすべての人の罪のための身代わりの死であり、これを父なる神が受け入れられたものあるなら、イエス様が「否」と「然り」を両方合わせ持つことにはなりません。ご自分に投げかけられた「否」をすべて「然り」になさったことになるのです。イエス様はこうして勝利の内に復活され、「然り」だけが実現したのです。

さらにこのことは、単にイエス様おひとりだけに関わることではありません。イエス様を救い主と信じる者には、罪の赦しと永遠の生命の約束が与えられるのです。イエス様によって実現したこの救いは、神が罪人である私たち、神様の目からは「否」としか言うことの出来ない私たちに対し、「然り」と言って下さったことになるのです。

 このように考えてゆくと、20節の「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」となるのは当然ではないでしょうか。まことに、たしかに、その通り、なのです。 

 ヨハネ黙示録3章14節ではさらに、イエス様のことを「アーメンである方」と呼んでいます。私たちはもとより、この世のすべての人には表があり、裏があり、人によって程度の差はありますが、わずかばかりの良いところと多くの悪いところを持っています。「然り」と「否」を両方そろえているのです。だから人間社会には矛盾があり、良いこよもありますが争いがあり、戦争も起こるのです。…けれども、罪におおわれたこの世界における希望が、今この時にあってもイエス・キリストにあるのです。それは建前でも何でもなく、現実のことなのです。それはイエス様が「否」と呼ばれるものも「然り」に変え。「然り」そのものになられた方であるからです。だから私たちはイエス様を仰いで、「アーメン」と言い続けるのです。

 

(祈り)

 恵み深い天の父なる神様。主の祈りにおいて、他のすべての祈りにおいて、また讃美歌の終わりなど、私たちの人生に欠かすことの出来ない「アーメン」について、今日私たちの信仰に確かな拠り所が与えられたことを喜び、感謝いたします。今後私たちが、神様のなさることへのさらなる賛美と感謝の中で「アーメン」を唱え続けることが出来ますように。

 

 神様。いま日本の国も、長束教会も、私たち自身も、暗いトンネルの中を光を求めて歩いているような状況ですが、こうした中にあってもイエス・キリストより確かな希望はありません。「然り」そのものである方、アーメンたる方イエス・キリストを仰ぎつつ、私たち自身がまずイエス様に近づいてゆくことが出来ますように。自分の力ではとても出来ないことですから、どうか神様の霊による導きをお願いいたします。この祈りをとうとき主イエス・キリストの御名によって、み前にお捧げします。アーメン。