共に励ましを受けるため

共に励ましを受けるため サムエル上122025、ロマ1815 2022.8.28

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1217、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:461、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

ローマの信徒への手紙(ロマ書)は一見すると難しいことがたくさん並んでいる、理屈っぽい文章の連続で、とっつきやすいものとは言えません。皆さんの中の多くは、ロマ書の話を聞くよりストーリー性のある話を聞く方が好きではないかと思いますが、それは説教を作る牧師も同じです。ただ、だからと言って、ロマ書を遠ざけてしまうことは絶対に出来ません。日本キリスト教会は口をすっぱくして教理の大切さを言っていますが、その真髄がロマ書にあるからです。

いま統一協会のことが連日報道されていますが、この団体が初めて社会問題になった1970年代から80年代にかけて、キリスト教を少しかじった人がここに引っ張られるケースがけっこうあったということがよく言われていました。子どもの頃日曜学校に通ったり、ミッションスクールでキリスト教にふれたりした、しかしキリスト教理解が浅いまま教会から遠ざかっていた人が、統一協会のそれなりに筋道だった教えを聞いて、これこそ真理だと思ってしまったということです。教理の面であやふやなところにつけこまれたわけで、私たちも気をつけなければなりません。

世の中にはこのケースとは違い、自分は宗教のことにうといし、カルトに入ってしまったら大変だと考えて、宗教との関わりをいっさい遠ざけてしまおうとする人もいます。ただその場合、危険な教えから逃げることが出来ても、正しく、尊い教えも捨ててしまうことになってしまい、結局、その人の魂は宙ぶらりんになってしまうのです。この人はいったいどこからこの世に来たのか、何のために生きているのか、そのあとどこに行くのか、ということになってこれも危ないのです。要するに、キリスト教の教えを感覚的、感情的、また表面的にだけ受け入れるのでなく、理論的にもしっかり受け入れなければいけないということです。

 

ということでロマ書に入りますが、ロマ書は1章1節から7節までがパウロによるこの手紙のための冒頭の挨拶、それもただの挨拶ではなくて相当内容の濃い挨拶でした。今日のところは、これに続いて、ローマの教会の人々に対するパウロの思いを語っています。それは一言で言えば、これからあなたがたのところを訪ねたい、ということです。「わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」というところから知ることが出来ます。

イエス・キリストが天に帰られたあと、召されて使徒となったパウロは、この時、コリントからこの手紙を書いていたようです。コリントは今のギリシャにある町です。現代とは比較にならない厳しい交通事情の中の伝道旅行の途上で、パウロはこれからエルサレムに向かうのですが、そのあと方向を変えてローマ帝国の首都、世界の都であるローマを訪ねようとしていたのです。パウロはそれまでローマに行ったことはありません。ローマから来た信徒には会ったことがあり、それでローマ教会の情報はつかんでいましたが。彼はローマの教会の信徒たちに会いたいと切望していたのです。

パウロは「わたしの神に感謝します」と言います。それは「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」ということですが、それはどういうことでしょうか。全世界というのは、当時の全世界であって、地球上隅から隅までということではありませんが、それにしても、ここから、ローマの信徒たちの信仰がそれほど素晴らしかったのだ、とは思わないで下さい。ローマの教会にも問題があったことは、ロマ書をこれから読んでいくうちに明らかになります(141013)。そこは決して理想的な教会だったのではありません。

だとすると、これはお世辞か外交辞令のようなものだったのでしょうか。でもパウロがそんなことを口にするとは思えません。ということで推測になりますが、この教会の人々の信仰が全世界に言い伝えられているというのは、ローマ帝国の首都であり、当時の世界を支配していたローマ皇帝のお膝元であるローマにもキリスト教会がある、神様はこの都にもキリストを信じる民を起こして下さったのだということが、世界に知られていたということでしょう。

ローマ帝国ではこの頃から、皇帝の神格化が強まりつつありました。この手紙が書かれたのが西暦57年頃、すでに54年には皇帝ネロが即位しています。のちに暴君ネロと言われるようになった人物です。こうして皇帝を神として礼拝することを求めることが進められてゆくのです。

私たちはイエス・キリストを主として告白しており、そのことで不利益を蒙ることはまずありません。しかしパウロが生きていた時代の信徒たちにとって、それは「皇帝は主である」という言葉に対抗する意味を持っていました。「皇帝は主である」と言わせ、皇帝を礼拝させようとする力がだんだん強まっていく時、これを認めない人はどうなるでしょう。ローマでキリスト教徒への激しい迫害が起こるのはもう少しあとのことになりますが、ローマにキリスト教会があって、がんばっているということはそれだけで各地の諸教会が感謝し、心強く思っていることだったのです。

 いまの時代、キリストを信じる人は各地におり、地方の、古くからの因習が根強く残っているところで信仰を守り続けることは大変ですが、しかしニューヨークとかパリとか北京とか、大都市に住んで信仰を持ち続けることも別の意味でたいへんなことなのです。パウロがローマの信徒たちに照準を定めたのは理由があります。世界の都であるローマの教会を通して、それこそ全世界に福音を広げようとしていたのです。

 パウロは言います、「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」。

 ここで言う「“霊”の賜物」とは「霊的な賜物」と言い換えることが出来ます。神の霊、聖霊から来る賜物です。ロマ書12章6節以下にこう書いてあります、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」。

 自分は神様の話をすることが出来る、力仕事が得意だ、料理が上手、歌がうまい、なんでも良いのですが、教会において、また社会において、誰もが神様から賜物を与えられています。何も賜物が与えられていないという人はいません。たとえ、病気のためずっと寝たきりだったとしても賜物が与えられていますし、この世での務めがあるのです。

パウロは、自分が“霊”の賜物を与えられているので、それを自分が行くことであなたがたに分け与え、力になりたいと言っているのです。…ここで、ちょっと考えてみると、賜物が神様からのものであれば、パウロが一生懸命祈ることで、これを神様から直接ローマの人々に届けてもらうという方法もあるかもしれません。けれども、遠いところから神様を祈りによってリモート・コントロールするわけにはいきません。やはり、当時としては大変なことですが、パウロ自身がローマまで行かなければならないのです。…パウロは、神様によって選び出され使徒とされた人物、福音を語る権威を与えられ、教会の指導者として特別に立てられた人ですから、ローマに行き、信徒たちと顔と顔を合わせながら、イエス・キリストによって初めて全世界に与えられた救いを語ることが神様によって求められているのです。

 ただ、このあと「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」というのは、先に「力になりたい」と言っているのと矛盾しているとは思いませんか。…パウロはイエス・キリストの13番目の使徒でたいへんな権威を持っている人です。一方、ローマの方は誰が福音の種を蒔いて教会を始めたのかわかりません、歴史の浅い教会です。普通なら、パウロ大先生がわざわざ行くのだから、ローマの信徒は「ははあ」とだけ言って聞いていれば良い、つまりパウロが教えるべきことはあっても、パウロが教えられることは何もないということになりませんか。ところがそうではないということです。パウロは自分が持っている信仰とあなたがたが持っている信仰でもって互いに励まし合いたいと言います。ここから、パウロが謙遜な人だということがわかるのですが、聖書が言っていることはそこにとどまらないと思います。

 パウロは念願がかなってローマの信徒たちに会うことの出来る日を待ち望んでいますが、その時、自分が信徒たちの上に君臨することを考えていません。互いに励まし合い、慰め合う関係を築こうとしているのです。どういうことかと言うと、大先生であるパウロが、信仰の初心者からも学び、自分が力づけられるのを拒絶しないということです。つまり十字架につけられたイエス様を信じてその救いにあずかった人たち、教会のメンバーは支配と被支配の関係にはないのです。お互いがお互いのために役立てられ、共に相手を力づけ、慰める関係にあるのです。そこには互いのために祈るということも入っています。だからこの先パウロがローマに行く時、偉い先生が来たのだからということで教会員が励まされることはもちろんあるのですが、パウロがふんぞりかえっていることはないのです。パウロの方がきのう洗礼を受けたような信仰の初心者から励まされることもあります。そしてそれをパウロ自身が望んでいるということなのです。

 私たちもよく知っているように、社会の中と同様、教会においても力のある人が権力をふるい、そうでない人が悔しいと思いながらもしぶしぶ従っているということが起こります。歴史の中では、そういう権力構造を持っていた教会がこの世で力を持ち、国よりも強くなることさえありました。しかし、聖書そのものに照らした時、それは間違いだということがわかります。…パウロがローマの教会に持って行こうとする“霊”の賜物は、パウロのような特別な人だけに与えられているのではありません。すべての信仰者にそれが与えられるのです。一人ひとりに与えられた賜物はそれぞれ違っていますが、誰もがそれぞれ自分にふさわしい働きの場が与えられますように。そこに尊い、卑しいの差はありません。上下関係ではなく対等の立場で、イエス様が言われたように偉くなりたい人は皆に仕える者になる、こうして誰もがお互いに励ましあい、慰めあい、力づけることが教会において出来なければなりません。それが出来てはじめて、社会においても多様性の尊重とか平等とかが実現してゆくのです。

 信仰はもちろん、神様と自分の一対一の関係の中で起こります。ほかの人から言われたからというのではなく、ひとりで神様と向き合うということがなければなりません。しかし、そのようにして救いにあずかった人は、キリストの体である教会に入れられ、今度は、同じように救いにあずかった兄弟姉妹と共に励まし合ってその信仰を深めていくことが出来るのです。広島長束教会にもこのような信仰の交わりがありますように。

 

 いま日本でキリスト教の伝道には数多くの困難があります。ある教会で牧師が自分のために祈ってほしいと言ったら、信者から「先生、そんなこと言わないで下さい。士気が下がります」と言われてしまったそうです。しかし、聖書にはパウロも、自分のために祈ってほしいと書いているところがあります(Ⅱコリ1:11)。パウロ先生でさえも一般の信徒たちからの祈りによる助けを求めていたことがわかります。そして今日、初めに読んだサムエル記では、預言者サムエルがイスラエルの民に対し「あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない」と言っています。

お互いがお互いのために祈りあう、これも励まし合うことの重要な柱なのです。

 

 パウロはこの手紙を書いたあとエルサレムに行きます。無実の罪で二年間の獄中生活を体験、そのあと嵐の海の中をローマへと向かい、教会の信徒たちとの念願の出会いを果たすことになります。おそらくは、今日の箇所に現れている彼の熱い思いがなければ、途中でくじけてしまって、困難を乗り越えてローマにたどりつくことは出来なかったでしょう。

私たちの上に、パウロほどではなくても信仰から来る熱い思いがありますように。人と人との出会いにおいて、自分はもう十分に経験したし、新しいものは何もないという人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。聖霊の導きの下、互いに祈り合い、励まし合い、慰め合う新しい人間関係を求めて行きましょう。

 

(祈り)

神様。現代のような複雑きわまりない時代、もしも神様から遠く離れていたら自分がどうなっているかわからない、そんな世界の中で、私たちが教会に結ばれ、信仰が与えられている恵みを心から感謝いたします。

神様、どうかパウロに与えられた霊の導きによる熱い思いを私たちにも分け与えて下さい。その思いによって、私たちそれぞれの前に立ちふさがる障害を乗り越えさせて下さい。私たちが互いに励まし合い、慰め合い、祈り合う教会をつくって下さい。それも長束教会の中だけでなく他の教会との間にもつくって下さい。そのことがやがて、この社会の中で教会が評価され、キリストの名がたたえられるきっかけとなりますように。

 

イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。