ただ神の栄光のために

ただ神の栄光のために  歴上291013、マタイ6:9~13  2022.8.14

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1214、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:5、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:77、説教、祈り、讃美歌:352、信仰告白(使徒信条)、主の祈り、頌栄:542k、祝福と派遣、後奏

 

 これまで主イエスが教えて下さった「主の祈り」について学んできましたが、今日は、この「主の祈り」の一番最後の部分、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」を取り上げます。実はこの部分は、ご覧の通りマタイ福音書にはまったく載っていません。同じく「主の祈り」が載っているルカ福音書11章にもありません。つまり、この言葉は聖書に書いてないのです。…カトリック教会が22年前まで使っていた文語の主の祈りではこの部分はなかったということですが、しかし、この例外を除くと、すべての教会で、この部分も含めてお祈りしています。そこには、どういった理由があるのでしょうか。

 

 「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」はいったいどこから出て来たのか、研究者は紀元2世紀ころに出された「12使徒の教訓」という書物から取られたと言っています。初代教会の人たちはそこに書いてあることを「主の祈り」のあとにつけ加えて祈るようになったようですが、それは突然出て来たものではなく、大もとをたどってゆくと聖書の中、いたるところにある神を讃える言葉に行き着くように思います。

 古代イスラエルに生きたダビデ王の事績はたいへん良く知られ、今日まで多くの人々を励ましつづけています。幾多の困難を乗り越え、紀元前1010年頃、イスラエルの王となったダビデは、40年の治世を経て、その生涯を閉じる時期を迎えることになりました。

 けれどもダビデ王の仕事は、死をもって中断されはしません。人は死に臨んで、生きている者に何かを残していくことを願うものです。ダビデはその子ソロモンに、イスラエルの国を残しました。ソロモンは父親の跡を継いで、この国をさらに強大な国家にするため、邁進してゆきます。

 しかしダビデは、さらに重大な使命をソロモンに与えました。それは神の宮である神殿を建設することです。ダビデは彼の治世の後半を、神殿の建設計画を立案し、資材を集めるために費やしましたが、彼がこの世に生きている間に建築に取りかかることは出来ませんでした。歴代誌に書いてあるのは、この仕事を息子に引継がせるときのダビデの祈りです。

「主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの…」。ダビデはこのように神を讃えています。こうして13節で「わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します」と言ったあと、14節以下で、今度は自分のことを語ります。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう。わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません…」。

 ダビデ王の、神をたたえるこの祈りの中に、得意になって自分をたたえるようなところは少しもありません。こうした神をたたえる祈りが、聖書の中でこれだけではないのですが、やがて、主の祈りの最後の部分につながっていったものと考えられます。

 

 「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」。この部分は頌栄と呼ばれます。主の祈りはこの頌栄で結ばれています。頌栄とはギリシア語の二つの単語、栄光と言が合成されて出来た言葉です。私たちが礼拝の最後で歌う賛美歌も頌栄と言います。

 すでに申し上げたように、主イエスが教えて下さった祈りには、この部分はありませんでした。頌栄は主が直接教えてくれたものではなく、人間が後からつけ加えたものです。

 では最初の使徒たちや初代教会では、主の祈りを唱えるとき、「悪より救い出したまえ」の後に何もつけ加えなかったのでしょうか。そうは考えられません。ユダヤの伝統では、祈りの後に頌栄の言葉が加えてあるのはよくあることでした。だから初代のクリスチャンたちも、自由にいろいろな頌栄をつけて、主の祈りを祈っていたのでしょう。やがて「12使徒の教訓」に入っていた言葉が、教会の礼拝で用いられるようになりました。礼拝で、会衆が一斉にその言葉をつけ加えて主の祈りを祈るようになったのです。現在のような形になったのは、3世紀の後半だと言われています。

 歴史的に見て、頌栄が元来の主の祈りの一部でなかったことは、これを唱えていけないということにはなりませんし、主の祈りにつけ加ええることの意義を少しも減らすものではありません。主は、私たちの祈るべきことを教えられ、教会がそれをまとめあげたと言ったら良いと思います。大切なことは、本当の祈りは行きつくところ、賛美で終わるということです。

 

 私たちがふだん唱えている主の祈りの全体を見てみると、最初の「天にまします我らの父よ」という呼びかけに続くのが「み名をあがめさせたまえ」という賛美の祈りです。最後の「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」もつまるところ賛美ですから、主の祈りは賛美で始まって、最後に賛美で終わっていることがわかります。

 私たちはふだん、主の祈り以外の祈りをする時、どこまで賛美に満ちた祈りをしているでしょうか。…自分や家族に嬉しいことがあったので神を賛美するということはあるでしょう。…ただ、もしも自分のライバルが失敗したことをもって神を賛美する祈りをしたとしたら、これは問題です。また、心のこもっていない賛美の言葉もないわけではありません。賛美ということ自体を、私たちは深く学ぶ必要がありそうです。

 そこで本当の賛美の例として、牢獄に入れられた使徒たちのことを見てみましょう。使徒言行録1625節を読んでみます。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」。

 このとき二人は、無実の罪で投獄されていました。何度も鞭で打たれ、両足には足かせがはめられていました。…しかし彼らは、獄中にあっても気落ちすることなく賛美の歌をうたって祈っていたのです。ここから私たちは多くのことを学ばせられます。

 なぜ、二人は賛美の歌を歌っていたのでしょうか。そこが大変住みごこちが良かったからでしょうか。もちろんそんなことはありません。鞭で打たれた傷がずきずきとうずくし、これからどうなるかわからないという不安もあったでしょう。普通に考えたら、どうしてそこで神を賛美することが出来るのか、となるのです。

 これと似たようなことが私たちに起こったとしたらどうでしょうか。私たちがもしも、やることなすことうまく行かない、八方ふさがりでどこにも出口がない、もううつになりそうだ、…こんな状態になってしまったら、神を賛美する言葉は出なくなります。とても賛美なんか出来ないと感じ、神様に向かって感謝ではなく不平不満をぶつけることでしょう。神様に呼びかけることすらしない場合もあるでしょう。……しかし、そのような時にこそ、思い出す必要があるのです。神の御名は変わらないし、主の栄光も変わらないのです。誰もが神を賛美するべきです。なぜなら神は当然賛美を受けるべき方だからです。

 パウロとシラスは極限に近い状況の中にいましたが、二人の魂は高いところにありました。賛美の歌をうたって神に祈っていると、そばにいた囚人たち、彼らの多くは重い罪を犯してそこに入っていたのでしょうが、この人たちも静かに聞き入っていました。…牢獄の中でも、どんな苦しみの中にあっても、人は神を賛美することが出来ます。人はこのことによって神と結びつき、勝利するのです。二人の祈りと賛美の歌は、犯罪者たちの氷のような心も溶かして行きました。ここには希望があります。

 自分にはパウロたちの真似などとうてい出来ないという人がいるでしょう。でも、だめでもともとだと思って、自分の信仰生活をかえりみて下さい。…苦しくて苦しくてという状況になり、賛美などとても出来ないような時であっても、神様はおられ、ご自分への賛美を受け入れて下さいます。神は幸せいっぱいな人の賛美を喜んで下さることはもちろんですが、苦しみの中にある人からの賛美をもっと喜ばれます。詩編に書いてある祈りの多くは、喜びの中からの賛美ではなく苦しみと悩みの中からの賛美です。そこから始まる何かがあるのです。

このように神様への賛美ということを順々に考えてゆくなら、主の祈りの最後の一節が、直接主イエスの口から出た言葉でなくても問題はないのです。主の祈りを神への賛美で結ぶことこそ、最もふさわしいと言えるのではないでしょうか。

 

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」、この部分は、主の祈りの「天にまします」から「悪より救いだしたまえ」までの全部にかかっています。「限りなく」というのは世々にわたって、ということ。「汝のものなればなり」で理由や根拠を表わします。「なぜなら国と力と栄えとは代々にわたってあなたのものだからです」ということになります。このようにして、人間に出来る限りの賛美の言葉をささげているのです。

ここで神に帰せられている、国と力と栄えのうちで、「国と力」はほぼ同じこと、国と言うのは神の国、力は神の力で両方とも神の主権を表しています。神の国とは神の力の現れるところで、それはイエス・キリストのおられるところです。主イエスに出会い、自分が神の主権のもとに入れられていることを知っている人ならば、心からの賛美の思いをもって、この祈りを唱えることが出来るでしょう。

それでは、もう一つのキイワード、「栄え」という言葉から、私たちはどんなことを聞き取ってゆくべきでしょうか。…栄えとは栄光のことです。人間が神に栄光を帰すのは当然のことです。

モーセの時代、シナイ山に神が現われました。その時のことが出エジプト記2417節で、「主の栄光は……山の頂で燃える火のように見えた」と書いてあります。新約聖書でも、高い山の中で主イエスが栄光に輝く姿に変わったことをパノラマのように映し出している場面があります(マタイ1718他)。しかしながら、神の本当の栄光はその先にあるのです。

父なる神と共におられながら、その状態を固守すべきこととは思わず、地上に降りてこられた御子イエスは、神としての光り耀く栄光のお姿を生涯のほとんどの間、隠しておられました。当時の人々の目に、イエス様は普通の人と何も変わりません。それどころか重大な罪を犯した罪人として、もっとも無残な形の死をとげてしまわれれました。イザヤ書53章2節、「この人は……見るべき面影はなく、耀かしい風格も、好ましい容姿もない」。どこに栄光があるのだ、と言いたくなってしまいます。

しかしヨハネ福音書1章14節は言います、「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。……私たちも主イエスの栄光を見たのです。見た目にはみじめとしか思えない十字架上の主の姿、私たちはその中に神の栄光を見出したのです。神の栄光を、主の十字架にきわまる神の愛に見ることが出来ますように。私たちは、イエス・キリストの苦難のありさまを通して耀く神の栄光を見るのです。

 

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」、この祈りを心の底から、神への賛美をもって唱えることの出来る人はどういう人でしょうか。それは、自分には国も力も栄えも全くありません、と神の前に告白出来る人でありましょう。自分がたたえられることではありません。神様を他にしては、天にも地にも、国と力と栄えとを持つ者はどこにもいません、と言うことの出来る人なのです。

私たちがお祈りする時、その内容は無限にあります。自分の病気が治りますように、家族が幸せになりますようにというものから、困難の中で苦しんでいる友のための祈り、社会正義ための祈り、平和を求める祈り、また自分の信仰が増すことを祈る祈りなどさまざまです。しかし、あらゆる祈りの根底にあるものはただ一つ、一切の力も栄光も神に帰し、自分も隣人も、すべてのものが神のものになることなのです。

ですから、私たちは主の祈りの最後の部分を、次のような意味をこめて唱えるべきです。「これらすべてを私たちは神様、あなたにお願いします。それは神様が私たちの王であり、あらゆることに力を持っておられる方として、私たちにすべての良きものを与えることを望み、また与えることが出来る方であるからです。それゆえに私たちの名前ではなくて、あなたの聖なる御名が永遠に崇められますように」。

私たちの祈りは神への賛美にならなければなりません。礼拝も、賛美に始まり、賛美に終わるのです。そして私たちの人生がすべて神への賛美となるなら、これ以上幸いなことはありません。

 

(祈り)

恵み深い主なる神様。私たちに主の祈りが与えられていますことを、今日改めて感謝いたします。私たちは礼拝のたびに主の祈りを唱えますが、意味もわからずにただお題目のように唱えていることが多く、信仰の足りないことを痛感しております。私たちをして、主の祈りをその意味を考えながら、心から、喜びをもって唱える者として下さい。

人間は神様を賛美する者として、創られたのです。私たちは神様から多くの恵みと賜物をいただいておりますが、そのことに感謝するどころか、いつも不平不満をならべたて、そのためにより一層不幸になっているのです。どうか神様からいただいたものを素直に受け取って、賛美と感謝の人生をおくらせて下さい。また、そればかりでなく、苦しみと悩みの中にある時にこそ、神様を賛美する心を持ち続け、そのことによって新しく道を切り開いてゆくことが出来るようにして下さい。

栄光はすべて神様にあります。神様こそたたえられるべき方、もしも私たちに他の人からほめられたり、たたえられたりすることがあるならば、それをすべて神様に捧げます。

私たちの思いを主イエス・キリストのみ名を通して、み前にお捧げいたします。アーメン。