信仰による従順

信仰による従順  エレミヤ302122、ロマ117  2022.7.24

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1211bc、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:19、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:54、説教、祈り、讃美歌:137、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 今日はパウロが書いたローマの信徒への手紙の冒頭、1章1節から7節にかけての3回目の説教をいたします。

 パウロとはいったい誰でしょうか、彼は1節のところで「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と、自己紹介しています。僕というのは、奴隷と翻訳しても良い言葉です。パウロは自分がキリスト・イエスの弟子であり、身も心もすべてキリストのものとされていることを言うのです。彼は召されて、使徒となりましたが、それは「神の福音のために」ということでした。福音とは良い知らせ、その内容は2節に書いてあるように、神がすでに旧約聖書の中で預言者を通して約束されたもので、神の御子に関するものです。福音は神の御子、イエス・キリストによって実現したのです。イエス様は「肉によればダビデの子孫から生まれ」、ダビデ王の子孫から、人間として、お生まれになりました。さらに、「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」、イエス様が神の子であることは変わりませんが、十字架を経て復活なさったことによって、ただの神の子を超えて、力ある神の子になられました。

ここまでが前回までにお話ししたところで、今日は6節、7節を中心に学びましょう。「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。」

 6節の文の主語は「わたしたち」、でも「わたしたちは…恵みを受けて使徒とされました」というと少し変ですね。「わたしは…恵みを受けて」となるべきなのになぜ私たちなのか疑問ですが、注解書はみな「わたしが恵みを受けて…」と解釈してかまわないと言っているので、そのようにしておきます。

 パウロが恵みを受けて使徒とされたのは、何も彼がそう望んだからではありません。皆さんご存じのように、パウロはクリスチャンを迫害した人ですが、それにもかかわらず復活したキリストが現われ、彼を召して使徒にしたのです。1節で「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と書いてある通りです。そして7節を見て下さい。「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるよう召されたあなたがたもいるのです。」…キリストがパウロを召して使徒にし、一方、イエス・キリストのものとなるよう召されたあなたがたがいる、神の召しというのが、パウロにとってもローマ教会の信徒たちにとっても大きなテーマになっていることがわかります。

 召命という言葉があります。召しという字と命という字です。神様のため、教会のために献身しようとする人には召命があるかどうかが問われます。ペトロとアンデレなどを見れば一目瞭然、彼らはガリラヤ湖で漁師をしていましたが、イエス様に召されて弟子となり、やがて使徒となったのです。自分でイエス様の弟子になりたいなりたいと思っても、なれるものではありません。…聖書の中にも、悪霊にとりつかれていた人が、イエス様によって悪霊を追い出すことが出来たあと、イエス様にお供したいとしきりに願ったけれどもイエス様がお許しにならなかったという話が出ています(ルカ8:3839)。自分の一存だけではどうにもならないのです。

 神様のため、教会のために献身しようとする人は、イエス様からの召しがなければなりません。…ただ、このことは牧師など伝道を職業とする人だけに言えることではありません。イエス様からの召しがなければ人は誰も教会の門をくぐることはありませんし、洗礼を受けて信者になることもありません。皆さん一人ひとりも、イエス様に召されているから、いまこの場所に来ているのです。

 さらに、神の召しは一人ひとりの職業生活にも関わってきます。ヨーロッパではながらく、神の召しはただ人間の信仰生活だけに関わると考えられてきました。そのため、聖職者がたいへん重んじられた一方で、一般の人々、農民や労働者や商人などは一段低くみられていたのです。しかし宗教改革者カルヴァンが、聖職者ばかりでなく、一人ひとりの職業人にそれぞれ神の召しが与えているという、聖書から導き出した新しい教えを語ったことは画期的なことでありました。農民であれ漁師であれ、工場労働者であれ料理人であれ、学校の先生も商売人も、自分はイエス様に召されてこの仕事についているのだという自覚が与えられたことが、みんなをどれほど励ましたことでしょうか。…皆さんもそれぞれ自分の意思で自分の人生を選択し、これまで歩んで来られたと思いますが、そこにはイエス様から召されたということがあり、その事実は自分の思いよりも大きいのです。

 さてパウロに与えられた召命に戻ります。5節のところでパウロは、「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」と言っています。この方とは、もちろんイエス・キリストです。パウロは冒頭の1節で「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と書きましたが、そこで言われたことを繰り返し、改めて自己紹介をしているのです。

パウロは1節で、自分がイエス・キリストの主導権のもと、召されて使徒となったと言うのですが、5節ではこれが言い換えられて、恵みを受けて使徒とされましたと言うのです。召されて使徒となったことは、パウロにとって「恵みを受けて」行われたことだった…。ここで疑問を持たれる方がいると思います。パウロは使徒となったことでたいへん苦労の多い人生を歩むことになったのですから、それがなぜ「恵みを受けて」ということになるのでしょうか。

私たちはパウロが13番目の使徒となったと教えられ、信じています。しかしパウロが生きていた当時、誰もがそう信じていたわけではありません。パウロは「あなたは本当に使徒なのか」と言われたことがあったはずです。教会の中で、彼に嫉妬したり、やっかんだりする人もあったでしょう。コリントでパウロは、教会に財政的な負担はかけなかったにもかかわらず、教会のお金をだまし取ったと言われました(Ⅱコリント1216)。もちろんそれだけではありません。パウロは伝道した多くの地で、反対派によって命を狙われ、袋叩きにされ、鞭で打たれ、監獄に入れられたこともありました。たいへんな苦労したのです。そうしますと私たちは、彼が使徒となったことがなぜ恵みなのかと思ってしまうのです。

恵みという言葉は、あまりにも多く使われたために安っぽくなってしまったかもしれません。私たちは手紙の最後に「主の恵みがありますように」などと書くことがありますが、でも、恵みのことを本当に理解しているでしょうか。パウロにとっての恵みとは、皆さんが想像していることをはるかに超えているのです。彼は自分がクリスチャンになれて良かった、イエス様にお仕えすることが出来てよかった、とだけ思っていたのではありません。

これまで何度もお話ししてきた通り、パウロはもともとユダヤ教ファリサイ派の一員として、イエスをキリストつまり救い主と信じているキリスト教徒を迫害していたのです。十字架につけられた罪人イエスがなんで神の子で救い主なのか、あんな男を信じる連中はこの世から撲滅すべきだ、と心の底から信じていたのですが、その彼に復活した主イエスが「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と言って現れ、ご自分の信者とし、あまつさえその福音を宣べ伝える使徒として立てて下さったのです。このことによってパウロの人生は180度変わりました。…ここで、考えてみましょう。パウロは、イエス様を否定し、クリスチャンを男女を問わず縛り上げ、監獄に入れることをしていたのです。パウロのために命を奪われた人もいたことを、パウロ自身が証言しています(使徒22:4)。…皆さん、神様ならふつう、こんな人間をどうなさると思いますか。

つまりパウロは、神様の前に救いようのない、滅ぼされるしかない大悪人だったのです。…その彼の前にイエス様が現れ、ご自分を信じる者とし、しかも使徒として立てて下さいました。これは全く考えられないことだったのです。それは神様がパウロのつもりにつもった罪を赦して下さり、新しく生かして下さったから、としか考えられません。神様はここで、救いようのない大悪人を救われたばかりか、神様のために働く者にして下さった、こんなことって想像できますか。これがパウロの受けた恵みだったのです。その恵みはパウロが自分で勝ち取ったものではありません。イエス様から無償で与えられたものでありました。

 

神様の前に滅ぼされるしかなかったはずのパウロが恵みを受けて使徒となった、この驚くべき出来事は、そのまま「異邦人を信仰による従順へと導くために」ということにつながります。

パウロの回心の出来事があった直後、イエス様からパウロを迎えに行けと命じられたアナニアという弟子は、あの人がどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きましたと言います。すると主は、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と言われます。パウロが異邦人のための使徒となることは神がお決めになったことでありました。

ユダヤ人は自分たち以外の人々を異邦人と言って見下していました。自分たちを世界の諸民族の中でただ一つ選ばれた神の民と見なし、事実その通りなのですが、これが他の民族に対しては…、異邦人はまことの神様を知らず、偶像を拝んで滅びに向かっている哀れな人たちだと考えていたのです。パウロもかつてそのように考えていたのですが、今や異邦人の使徒となりました。この大転換をもたらしたのも神の恵みでありました。…どういうことでしょう。かつてキリスト教徒を迫害した大悪人だった自分が恵みによって罪を赦され、救われたのです。そうであるならば、同じ恵みが異邦人に与えられないはずはない!ということです。数千年来まことの神を知らず、律法も知らず、偽りの神々を礼拝してきた異邦人、日本人もその中に入っていますが、ユダヤ人から見るとまるで野蛮人、神の怒りを受けて滅びるしかないような人々が、自分と同じく、キリストの十字架と復活により罪を赦され、救われるのだ、と。パウロは自分が受けた驚くべき恵みから、異邦人を救い、世界を変えようとする神のみこころを理解し、そのみこころに仕えることを喜びとし、だからどんな苦労もいとわなかったのです。

 

驚くべき恵みをイエス・キリストから受け、召されて異邦人の使徒とされたパウロですが、それでは5節で「すべての異邦人を信仰による従順に導くために」と書いたことにどのような思いが込められているのでしょうか。…従順、ここでは神の言葉に素直に従う、聞き従うという意味がありますが、これは教会でも案外、あまり口にしたがらない言葉です。従順と言われて、これを快く受けとめる人は信者であっても多くはないのです。自由が束縛されるような感じがするからです。「毎日曜日に教会に来なさい」、「悔い改めよ」、「信じなさい」、こういうことを言われるのはいやで、自分の思い通り生きたいという人が多く、そのため教会でもあまり強いことが言えず、信者であっても神様中心の生活から自分中心の生活にだんだんと離れてしまうということがよく起こります。そこには神様に対するおそれがないということもあります。

しかし、それは人間のあるべき姿ではありません。パウロは、滅ぼされても仕方がなかった自分を救って下さった神様の驚くべき恵みを知ったからこそ、信仰による従順ということを重荷とは思わず、むしろそのことに人生をかけて進んでいったのでした。

主イエスはそのご生涯において、信仰による従順の見本を示して下さいました。パウロはそのことを、フィリピ書の2章6節から8節までで語っています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。神の御子イエス・キリストがへりくだって人間となり、十字架の死まで引き受けて下さった、そこに真実の従順があります。もちろん、誰もイエス様と同じことは出来ませんが、真に従順であることができない私たちに代って、イエス・キリストが神への従順を貫いて下さり、それによって救いを、驚くべき恵みを与えて下さったのです。

7節後半の言葉、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。これは単なる社交辞令ではありません。祝福の言葉です。皆さん一人ひとりも驚くべき恵みによって信仰が与えられ、いまここにいるのです。この信仰がひからびてしまうようであってはなりません。どうか一人ひとりが自分が救われた原点を思い起こし、神様に従順に従うことを喜びとすることが出来ますように。そうして、パウロのように、苦しみをはるかに超える喜びの中で信仰の人生を貫いてゆくことが出来ますようにと願います。

 

(祈り)

天の父なる神様。キリスト教徒を迫害した大悪人と言って良いパウロの前にイエス様が現れ、彼を滅ぼされるどころか、回心させて13番目の使徒にして下さったことに、私たちは神様のきわめがたい偉大なみこころを見ています。パウロに与えられたそれほどの恵みが、また私たちにも与えられています。私たちがもしもイエス様に出会わなかったら、教会に来ることもなく、いったいどのような人生を歩んでいたでしょうか。私たちはふだん自分の生活の中で不平不満を言うことの多い者たちでありますが、どうか神様の恵みに多く目を向け、そこから自分の道を見出してゆくことが出来ますように、と願います。

神様、コロナ感染者が連日増え続け、広島県も危機的な状況になっています。どうか私たち一人ひとりの健康を守って下さい。長束教会での礼拝を中心とする集会を続けさせて下さい。何より今コロナとたたかっている患者や医療従事者をはじめとするすべての人々を、恵みとまこととをもって支えて下さい。

 

主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。