十の戒め

十の戒め  出エジプト20:1~17、マタイ51718  2022.7.17

 

(順序)

前奏、招詞:詩編1201b2、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:67、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:304、説教、祈り、讃美歌:296、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

今日は、私たちが十戒とかモーセの十戒とか呼んでいることについて取り上げます。説教題を「十の戒め」としましたが、その後調べていくと出エジプト記の3428節に「十の戒めからなる契約の言葉」というのがあることに気がつきました。「十の戒めからなる契約の言葉」、十の戒めはすべて契約の言葉なのです。神が人間の前に現れ、神の言葉を人間に与えて下さり、人間と契約を結ばれますが、この時与えられた言葉を私たちは見ているのです。

 

「十の戒めからなる契約の言葉」、ただ少し長いのでここでは十戒といたします。十戒が与えられたいきさつはこうでした。奴隷の地エジプトを出て、荒れ野の中を約束の地をめざして進むイスラエルの民に神が言われました。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる(出195)」。モーセを通してその言葉を聞いた民は、みな一斉に「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と答えました(出198)。三日目に神は火の中を通ってシナイ山の頂に降り、モーセを呼びよせました。モーセを通して与えられた神の命令の言葉が20章からずっと続いていますが、これを律法と言います。律法の中心が十戒なのです。

十戒は神みずから石の板に書き記したとモーセが証言しています(申413522、なお出3428参照)。いったい、何が書かれていたのでしょうか。というのは、十戒は出エジプト記20章以外に申命記5章にも出ていて、この2つが少し違っているからです。第4の安息日の戒めについて出エジプト記には、神が天地創造の時、六日働いて七日目に休んだので安息日を制定したと書いてありますが、申命記には、かつてエジプトで奴隷であったあなたを神が導き出されたから安息日を制定したと書いてあるのです。どちらが本当なのかということになりますが、もともと石の板に書いてあったのは「安息日を心に留め、これを聖別せよ」だけのごく短いものだったかもしれません。そのあとモーセの解説が加わったりして二通りの安息日の戒めが出来たのではないでしょうか。    

石の板に刻まれた十戒は幕屋、後には神殿の中で大切に守られていたのですが、紀元前586年のエルサレム陥落の際に行方不明になってしまい、もはや誰も見ることが出来ません。…旧約聖書外典(マカバイ記二2章)には、預言者エレミヤがこの石の板を秘密の場所に隠したという話が出て来ますが、…謎解きはここまでにしておきます。

 

さて、律法は英語でthe law と言います。これを日本語に訳すとき、法律という言葉を使わないで、新しく律法という言葉を作ったようです。たぶん、これは法律には違いないけれども、他の法律とは違う特別な法律だからということで律法にしたのだと思います。これは人間の頭で考えだされた法律ではありません。聖なる神の口から出て来た法律です。それは神が人間に要求する人間のあり方を規定していますが、その中心にあるのが十戒です。

私たちは律法と十戒に対し、もう一度見直してみる必要がありそうです。

律法主義という言葉があります。律法を過度に尊重することによる行き過ぎのことで、私たちは教会でしばしばこのことを聞かされてきました。イエス・キリストが闘われた律法主義というのは、2000年前だけではなく、現代にも残っています。…テレビで見たのですが、イスラエルには今でも律法を文字通り守りぬく生活をしている人たちがいます。律法に「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と書いてある(2010)ことから、安息日になると、家中のコンセントからプラグを全部抜いてしまうのです。安息日には機械も働いてはならないと考えているからです。かりに長束教会がそんなことをしたら、灯りもエアコンも全部消して礼拝することになるでしょう。…もちろん、律法を守るというのは電気を消してまわることだけではありません。この人たちにとって、律法を守るというのはまさに命がけのことなのです。

イエス・キリストは旧約時代の律法を大胆に変えてゆかれた方です。たとえば目には目を、歯には歯を(出2124)という有名な言葉ですが。ユダヤ教徒はこれを忠実に守ってきました。しかし、主イエスは何と言われたか、マタイ5章38節、「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。…主イエスは復讐を定めた掟を、愛の掟に変えてしまいました。山上の説教の中に、このようなことはいくつも出て来ます。

ユダヤ教徒にしてみれば、イエスという男はいったい何の権利があって大切な律法を改変してしまうのかということになりますが、キリスト者はこのイエス様を信じています。…そこでキリスト者の中には、イエス様が律法主義と闘ったのだからと、律法を軽んじる態度が出てきます。そこから、律法の中心である十戒も尊重しないという人が出てくるのです。けれども、そういうことがイエス様のみこころにかなうものだとは決して言えないのです。

主イエスがこの世界に来られてから、律法のうちいくつか時代に合わないものは廃棄されました。たとえばレビ記11章7節には、いのししは汚れたものだから食べてはいけないと書いてあって、そこから豚を食べていけないことになっていました。ユダヤ教徒とイスラム教徒は今も豚肉を食べません。しかし今、私たちは豚肉を食べています(使徒1015)。…これは「目には目を、歯には歯を」で起こったこととよく似ていて、イエス・キリストによって始まった新しい時代の中、律法が新しい光のもとで解釈し直された結果です。

こうしたことは主イエスが律法をないがしろにされたというのではなく、主イエスが来られたゆえに律法が完成されたと見るべきです。そのことを主イエスはマタイ福音書で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と述べておられます。十戒の言葉は、イエス・キリストの光のもとで新しく解釈されることは確かですが、未来永劫決して廃棄されることはありません。むしろ完成に向かって進んでいるのです。

 

今日は十戒のうち、まず第一の戒めを学びます。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。これは十戒の根幹を示す言葉です。そして、すべての律法の中心をなす言葉です。…「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、ここでいうわたしとは何か、前の節を見てみましょう。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。

主というのは、年配の方はご存じでしょう。文語訳聖書ではエホバと訳されていました。今では神様のお名前をエホバというのは間違いで、ヤハウェ(yahweh)というべきだとなっています。「わたしはある」、これが神様のお名前ヤハウェの意味です。この神様のお名前は恐れ多くてなかなか口に出せるものではありません。そこでお名前を、別の言葉で置き換えようとして「主」とされたのです。神は主であるからこそ、ご自分が選ばれた民イスラエルをエジプトの国、奴隷の家から導き出されたのです。

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。いったい主なる神のほかに神があってはならないとは、当たり前のことではありません。まずこれは、神は存在するかどうかという問題について何も言っていないことに注意して下さい。現代人は神はいるのかいないのか論じていますが、古代の世界では、かりにも神がいないなどと想像する人は誰一人としていませんでした。どんな人でも神の存在は信じていました。ただ、それぞれの民族がそれぞれの神々を信仰していたのです。エジプトなど当時絶大な勢力を誇った国々は、自分たちの神々のために壮麗な神殿を造り、祀っていましたが、その中で、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」との命令が与えられたのです。神々と呼ばれているもろもろの存在ではなく、あなたがたを奴隷の地から本当の自由に向かって導いて下さっている主なる神だけを礼拝しなさいと命じられたのです。

もっとも、主なる神以外に神があってはならないということを、イスラエルの人々にしてもすぐに納得できたのではありません。人々はそれまでエジプトで、先祖伝来の信仰を失いかけていました。エジプトの神々を拝んでもいたのです(ヨシュア2414、エゼ20:8)。しかし、彼らを救ったのはエジプトの神々ではありません。何かあるとすぐにおろおろして、エジプトの軍門に降っていこうとする人々を神は叱咤激励し、エジプトの軍勢が追撃してきて、もうこれまでという時も奇跡を起こして人々を救われました。……これを親子の関係にたとえてみると、神が人間を創造されたのですから、神様が親で人間は子供だということになります。もしも子供が川で溺れている時に、飛び込んで助けてくれた人が父親であれば、子供は「お父さん」と言ってすがりつきたくなるでしょう。神はイスラエルの民が絶体絶命の窮地にあった時、全能のみ手を伸ばしてその力を見せて下さいました。そうして今、ご自分以外の神を信じてはならない、と子供である民に諭されたのです。

さて、そうしますと、神様にとって何がつらいことかも明らかです。子供は親を悲しませることが多いです。ただ親にとって最も悲しいことは、子供が親を自分の親として認めず、他の人を「お父さん」、「お母さん」と呼ぶことでしょう。そんなことがあってはならないはずですが、神と人間の間ではしばしばそれが起こるのです。自分たちを創造し、愛し、奈落の底から助けて下さる本当の神様を神様と認めず、他のわけのわからないものを神様として拝むなら、…これほど理不尽なことはありません。第一の戒めはただ一つの神だけを拝み、他のなにものにも心を動かされるべきでないことを教えています。

 

こうしてシナイ山のふもとで世界で最初の一神教の宣言がなされました。当時、他のあらゆる民族の宗教は多神教だったのですが、イスラエルの民だけが神が唯一絶対であることを声高らかに唱えました。ここに始まった一神教はユダヤ教となり、そこからキリスト教が出てきました。イスラム教も一神教ですが。一つの神だけを拝むことの意義はどこにあるでしょうか。

近年、日本の中では多神教が宣伝されることが多くなっています。皆さんも聞いたことがあるでしょう。3年前に亡くなった梅原猛さんがこういうことを唱えています。「一神教は独善的で考えが狭く、他の信仰を認めないので、しばしば戦争の原因になってきた。これに対し多神教は異なった教えに寛容で、心が広く平和的、戦争と環境破壊に苦しむ一神教の文明は多神教の原理によって救済される」と。有名な学者が言ったことでもあり、賛同する人が多く出ました。確かにキリスト教国とされるアメリカがアフガニスタンやイラクなどを相手に戦争ばかりしている状況下では、こういう議論も一定の説得力を持っています。ただ日本でも昔、キリシタンを弾圧したのは多神教を奉ずる人たちでしたから、多神教が異なった教えに寛容であるとは言えません。仏教徒が戦争に邁進したというのはあまり聞きませんが、しかし日本には僧兵がいましたし、戦争がないわけではありません。

多神教はそんなに理想的でしょうか。もしも神様がたくさんいるとしたら、神様の数だけ真理があることになります。多神教の最大の誤りは、正しいことと間違ったことの区別があいまいになってしまうことです。神はただ一つ、真理もただ一つ、正しいことは正しい、間違いは間違い、ということでなければ善と悪がごちゃごちゃになってしまうでしょう。ギリシア神話にはたくさんの神様がいて、魅力的な話も多いのですが、その神々が人間を道徳的に高めたとは言えないでしょう。神様がたくさんいるとなると、人間はその中で自分の気に入った神様を選ぶようになります。結局、自分が主になってしまうのです。もちろんキリスト教の側も信仰が独善的になってしまうことには厳しく注意を払わなければなりませんが、多神教の擁護論などに惑わされてはなりません。本当に拝むべきただ一つの神がいないところには、確かな救いはないのです。

1997年に神戸で起こった連続児童殺傷事件で、犯人の少年は自分で神様を作って拝んでいました。これは極端な例かもしれず、多神教を信じる人々がみんなこれと同じなんて言うことは決して出来ません。ただ、いまの日本がいっけん平和で落ち着いているように見えたとしても、一皮むくとこれでもかこれでもかというようにさまざまな問題が露呈してくるのは、多くの人々がただ一つの本当の神を見失い、無信仰を標榜していても、実は神ではないもろのものを神として拝んでいるところにあるのではないでしょうか。

ただ一つの神を信じ、その神様に指し示された人生の道を歩んでゆくことがなければなりません。十戒の第一の戒めを、私たちの全生活の中心に置いてゆこうではありませんか。

 

(祈り)

 主なる神様。神様がお選びになった民に長い歴史の中で与えられた尊い契約の言葉をうかがいました。私たちの信仰の祖先が奴隷の境遇から救い出され、神様から与えられた本当の自由の中で、十戒が与えられ、唯一の神様を信じる道が与えられことを、私たちも自分自身の喜びとして感謝申しあげます。

 私たちを、十戒を中心とする律法を、人間をしばるものとしてではなく、人間を生かすものとして受け取るものとさせて下さい。そのためにもイエス・キリストによって新しく言い表わされた律法の精神が私たちの心に宿ってゆきますよう、聖霊のお導きをお願いいたします。

ただ一つの神を信じられず、他のもろもろの存在に心を奪われるために、人生で不幸を招きよせる人がたくさんいます。神様、どうか私たち弱い人間を憐れんで下さい。救いは主なる神にこそあります。どうかこの国で、この地で、ただ一つの神様のみことばが力強く輝きわたりますように。この祈りを、主イエスのみ名によっておささげします。アーメン。