心に傷を持つ者の祈り

心に傷を持つ者の祈り  詩編51121、マタイ6:9~13  2022.7.10

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119176、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:312、説教、祈り、讃美歌:298、信仰告白(使徒信条)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

イエス・キリストが「だから、こう祈りなさい」と教えて下さった主の祈りで、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」に続いて与えられたのが「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という言葉です。これが「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という祈りの基になったのです。

 ここに負い目という言葉がありますが、これは恩義があったり、また自分の側に罪悪感があったりして、相手に頭が上がらなくなるような心の負担を言っています。もっとも心の負担だけではありません。借金とか負債を意味する言葉でもあるのです。

イエス様が負い目と言われたのに、それがなぜ罪になったのでしょう。そこで、もう一つの主の祈りが書いてあるルカ福音書の11章4節を読んでみると、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と書いてあることに気がつきます。ここから負い目と罪はほとんど同じ意味で使われていることがわかります。だから負い目を罪に直して、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と言って良いのです。

 

 教会ではいつも罪ということを言っておりますが、今日も言わなければなりません。人は神様との正しい関係を作れなくなってしまい、そこからあらゆる破れが生じています。人間関係がうまくいかないのも罪。悩みと苦しみ、その人ではなく他の人に責任がある場合も多いのですが、根本をたどっていけば罪にゆきつきます。人と人とが争いあい、時には戦争に至ることも、さらにその他いろいろな悲惨な出来事がありますが、すべて罪に直結しています。

罪は本当に恐ろしいものであることを、聖書は初めから終わりまで説いてやみません。罪は克服されなければなりません。しかし、これは人が神への反逆をやめ、神と和解するまでその実現はかなわないのです。

 罪ということを人が正しく受けとめることなしに、神様との和解も人間のあるべき姿も見えて来ません。ただこれは、頭ではわかっていても、実際に信仰生活の中で実践するとなるとなかなか難しいのです。そのため、知らずしらずの内に罪と仲良くなっている人、罪ってそんなに恐ろしいのかと思っている人がたくさんいるのです。

罪という問題について、いろいろなアプローチが考えられますが、今日は日本の風土ということから考えてみましょう。罪の受けとめ方が、欧米のキリスト教文化圏と日本では違うということがよく指摘されるからです。

1946年、アメリカの女性の文化人類学者であるルース・ベネディクトという人が「菊と刀」という本を出して、日本の文化を「恥の文化」であると指摘しました。恥の文化、事柄が正しいか誤っているかということよりも、他の人にどう思われるかとか、皆がどうするかということを重んじるのが日本人だと指摘したのです。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」、ですね。この人は欧米については、自律的な良心を意識する罪の文化だとし、日本の恥の文化に対置させています。彼女が言っていることを尊重いたしますと、日本人は罪意識というものが薄い民族だということになってしまいます。恥をかかないことがいちばん重視されるからです。……政治家で汚職などの悪事をしても、次の選挙で当選すると、みそぎがすんだとして平然としている人がいます。これは極端な例かもしれませんが、そのように、罪を簡単に考えるのが日本人だと言われることがよくあるのです。

そもそも日本でキリスト者は全人口の1パーセントしかいません。欧米など歴史的にキリスト教の影響が強い国なら、巨大な神様が立ちはだかっていますから、神の前で人はどうあるべきかということが、従順に従うかそれとも反発したり反逆したりするかということはあるのですが、真剣に問われることが多いのです。しかし、日本はそうではありません。この国の大多数の人たちは、古来、全宇宙を治めている絶対的な神を知らずに過ごして来ました。日本で伝統的に信じられてきた八百万の神々は、いわばふつうの人間に少し毛が生えたような存在で、その神々の前でおそれを感じたとしても、キリスト教の神とは程度が違います。聖書が啓示している神に比べたら、それらは子どもじみた存在だと言えるでしょう。

日本人とキリスト教という問題を考えぬいた遠藤周作は、日本の風土を沼にたとえ、ヨーロッパから宣教師がキリストの教えを持って来て伝道しようとしても日本の風土の前にずぶずぶ溺れてしまうということを書いています。日本はキリスト教を受けつけない土壌ではないのか、という問題がこの人の前に立ちはだかっていました。それは罪をどう認識するかということと密接に関わっているのです。

絶対的な神を信じる人にとって、罪は最重要の問題です。ただ教会の外にいる人たちに罪、罪と言ってもわかってもらうのはなかなか難しいです。多くの日本人が、絶対的な神を前にして自分たちの罪を見つめることを避け、罪意識が希薄なままという、今のこの状況はいつまで続くのでしょうか‥‥。全世界を治めておられる神の前で人はどうあるべきかを考えず、大きな力に自分を合わせることが多く、これが個人のレベルから国のレベルまで共通していますが、そんなことがいつまで通用するでしょう。こんな日本が世界の中で尊敬される国になっていくにはまだまだ道が遠いのではないかと思われます。

しかしながら、日本人には罪意識がないと断言することも出来ません。日本の伝統的な文化の中にも、罪の問題を真剣に考えているものはあるのです。…たとえば源氏物語です。NHK2024年の大河ドラマの主人公は紫式部だそうですが、彼女のこの作品には「罪」という言葉がひんぱんに出て来ます。

 いきなりなまなましい話で恐縮ですが、物語の中で、主人公の光源氏は、藤壺女御、この人は光源氏の父である天皇の何人かいる妻の一人ですが、その女性と密通して、子供を生ませてしまいます。このような不道徳な事件とそこから起こる罪の連鎖が作品の大きな流れを形作っています。……光源氏が犯したこの罪は後年になって、その結末を刈り取らなければなりませんでした。今度は自分の妻の女三宮が柏木という人物と密通してしまうのです。妻の不倫を知って光源氏は激しい怒りに襲われます。しかし、自分がむかし犯したおそろしい罪が、自分が妻の不貞を責めることの出来ない立場にあることを思い起こさせます。こうして彼は自分のしたことを深く悔いることになるのです。…一方、光源氏の妻と関係を結んだ柏木は悩みと苦しみの果てに死んでゆきます。…柏木と光源氏の妻の間に生まれた子どもが薫で、光源氏が死んだのちの宇治十帖と呼ばれる部分の主人公ですが、この人を巡っても愛欲地獄ともいうべきドラマが展開され、最後まで人間の罪をめぐる話が続いてゆくのです。

紫式部はもちろん、キリスト教に触れたことはありません。だから物語の中で罪という言葉がどれだけ使われていようと、これをキリスト教の立場でとらえているのでないことは間違いないところです。苦しみ悩む人たちは仏に救いを求めます。いったい、そこで救いが与えられたのかどうか……。確かなことは、この物語に登場するさまざまな人物が、宿命的に背負っている罪のために、心に傷を負い、葛藤し、深く悩み、そして真剣に救いを求めています、その世界は深いところで、聖書の世界から決して遠いものではありません。

そこには私たちがこれまであまり知らなかっただろう、もう一つの日本人の姿が浮かびあがってくるようです。……罪を犯し、その中で苦しみ、悩み、救いを求める人間の姿は、昔も、今も、欧米であれ日本であれ、どこの国であっても変わらないのです。……光源氏は自分がむかし犯した罪と、妻が犯した罪の間に密接なつながりがあることを知りました。個々の罪はそれぞれ孤立してあるのではなく、罪が次の罪を呼び起こします。悪いこととは知りながらも、これくらいは大丈夫だろうなどと思って一線を踏み越えると、それだけでも重大ですが、その罪が別の罪を引き込んでしまいます。良いことをしたはずなのに、それが罪を呼び起こすこともあります、このような罪の縄目の中で人は生きている、だから人の世には悩みと苦しみが絶えないのです。

私たちは光源氏がしたほどの罪は犯していないとしても、自分は罪を犯したことがないという人はいません。私たちは他の人の罪の影響をこうむるとともに、自分も他の人たちに対して罪をまきちらしながら生きているのです。たとえ、自分は絶対に正しいと確信していたとしても、すべてをお見通しである神様の前で胸を張ることは出来ないでしょう。

 

今日はなまぐさい話ばかり出てきますが、旧約聖書に出て来るダビデ王も絶大な権力を利用して自分の忠実な部下の妻を奪い、じゃまになったその夫を戦地に送って戦死させるという大罪を犯してしまいました。ダビデ王はその後、悔い改めて神にその罪を赦されますが、これに先立って歌ったものが詩編51篇です。その5節と6節にこう書いてあります。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」(詩5134)。…ここに書いてあることは私たちの常識とは違ってはいませんか。誰でも悪いことをしたのなら、まず自分が迷惑をかけた相手に対し、謝るものです。この時、ダビデ王が謝るべき部下はすでに死んでいましたが、だからということではありません。ダビデ王は神様に向かって「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯した」と言うのです。ここには、聖書が教える罪を理解するための大きな鍵があります。

 人間が行う罪は、その根本のところで、神との交わりをそこなってしまうのです。……誰でも悪いことをしようかどうかと思うとき、人の目を気にします。人の目があるところでは慎重になりますが、誰も見ていないところでは平気で悪いことをしがちです。ダビデ王がしたことも、これを告発する証人はなく、ほとんど完全犯罪でした。しかし、誰も見ていないと思っていた所も神が見ておられます。神様だけはすべてをご存じです。だから誰もいなくても、神様が見ている前で悪事に手を染める人間は、神様を怒らせ、いたく傷つけてしまうことになるのです。その結果はどういうことになるのでしょうか。

 私たちが罪を犯す、その一つひとつが罪を犯した相手はもとより、神様に対して負い目を持つことになります。この負い目をどんどんふくらませ、大きくしている人がたくさんいるのです。罪とは、神を裏切ることです。罪は私たちが思うよりもずっと恐ろしいのです。

 

 私たちもかかわっている、おそろしい罪は、それにもかかわらず赦されます。そのように神様が約束して下さいました。しかし、そのために神様は何をなさったでしょう。…私たち一人ひとりの罪は、神の御子イエス様を十字架につけなければならないほど大きいのです。

負い目という言葉には借金という意味もあります。人間同士の借金については、それを払い終えたらどうなりますか。お金を貸してくれる人の中には、借金を厳しく取り立てようとする人がいます。すべてがそうではなく、やさしい人もいるとは思いますが。借金の清算がすんだら、やれやれ、これであの人とのややこしい関係は切れた、もうおさらばだ、と安心することが多いのではないでしょうか。…しかし、神様との間の借金はこれとは違います。イエス様の十字架の死によって罪の清算がすんだとき、ああこれで神様とおさらばだとはなりません。その時からどんなに深い神様との交わりが始まることでしょうか。

神は私たちが願う前から、私たちに必要なことをすでにご存じであられます。神はイエス・キリストを信じる人の罪を赦して下さるのです。…神様から罪が赦されたことをよく知っている人は、今度はその罪の赦しを自分の生活の中でつくり出してゆくことでしょう。…そこでは相手が自分を赦してくれるかどうかは、もはや第一の問題ではありません。大切なのは自分が人の罪を赦すことが出来るか、ということなのです。神に罪を赦された人間として、罪を赦しあうことこそ、罪に対する勝利をもたらすのです。そのためにも、私たちに信仰の勇気が与えられますように。

 

(祈り)

天にまします我らの父よ。主イエス・キリストが文字通り命をかけ、血を注いでまでして与えて下さった祈りを教えていただきました。この祈りをこそ、私たちが神の子として生まれかわる祈りとして、確かに受けとめることが出来ますように。私たちが日ごとの食物を求めるように、あなたからの罪の赦しの恵みを、日ごとに求めて生きる者でありますよう、どうか聖霊でもって支え、導いて下さい。

神様、今日は日本の国にとってとても大切な国政選挙の日です。これからの日本が、民主主義を脅かす暴力に打ち勝ち、人々の生活と人権を尊重し、平和国家として立ち、世界から尊敬される国になることを願っていますが、選挙がそのための出発点となりますように。罪と死を凌駕する全能の神様の力をこの国にも現わして下さい。

 

とうとき主イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。