私たちの食生活を支える神

私たちの食生活を支える神  詩編651014、マタイ6913 2022.7.3

     

(順序)

前奏、招詞:詩編119175、讃詠:546、交読文:詩編85914、讃美歌:6、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:68、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ—18、信仰告白(日本キリスト教会信仰の告白)、(聖餐式、讃美歌204番)(献金)、主の祈り、頌栄:542、祝福と派遣、後奏

 

 主の祈りの中から4番目の祈りを見てゆきましょう。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」のもとになったのがマタイ福音書6章11節、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という聖句です。ここで糧と訳されている言葉は以前の口語訳聖書では「食物」となっていました。原文ではパンになっています。日本人ならお米に置き換えても良いでしょう。要するに、ここで祈っているのは、私たちの毎日の生活を支える、もっとも基本的な食べ物のこと、だから「神様、私たちに必要な食べ物を今日、与えて下さい」という祈りなのです。

 この祈りをするよう命じられている理由は何でしょう。…「うちに食べるものはいっぱいある、みんな自分のお金で買ってきたものだ。どうしてお祈りしなくちゃいけないのか」と思っている人がいるかもしれません。あるいは、食べ物のことを祈るのは何かはしたないことのように思っている人がいるかもしれません。私たちのイメージの中にある信仰生活と、食生活というあまりにも身近なことが結びつかないこともあるようです。しかし、よく考えてみると、人間にとってこれほど大切で切実な祈りはないのです。

主の祈りは前半と後半と二つの部分に分けることが出来ます。前半の、御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地の上にも、というのはみんな神様の方を向いた祈りでした。これに対して後半はすべて私たち人間に関わってくる祈りで、その冒頭にこの祈りがあります。主イエスは、人間の生活がまず食べ物から始まることを知っていたので、主の祈りの後半部分をこの祈りから始めたのではないでしょうか。

 日ごとの食べ物のために祈る、これと切り離すことが出来ないのが食前の感謝の祈りです。クリスチャンの大切な習慣とされていますが、マンネリ化している人がいるかもしれません。もしも祈る言葉が出なかったら「神様、ありがとうございます」、これだけでも良いのです。ほんの一瞬の祈りです。

 しかし現代社会には、私たちから食前の感謝の祈りを遠ざけるよう仕向ける力があるようです。戦後の食糧難の時代、私は生まれてないのでよく知りませんが、食べ物があるだけで有難かった時代には、口から自然に神様への感謝の言葉が出たのかもしれません。しかし、その時代に比べ、今は食べ物がたくさんあります。…むろん日本の国にはいま十分な食べ物を得られない人がいます。中には餓死する人もいるのですが、一方で、ありあまる食べ物の中、食べ物のために祈ったり、感謝したりする気持ちを持てなくなってきている人も多いのではないかと思います。

 毎日、十分な量の食事ができない人がいる、そのかたわらで、まだ食べられるものがごみになってしまう、いわゆる食品ロスの問題がこの国ではまだ解決できていません。数年前、この教会でも、コストコの大量のパンが持ち込まれて、希望者に持ち帰ってもらったことがありました。私たちが引き受けなければ、あれは全部ごみになってしまったのです。

 食べ物を巡っては、また、このほかに、日本の農業をどう守るかとか、食料自給率の問題、種の管理を巡る問題などさまざまなことがありますが、身近な問題としては食品の安全性のことが大きいでしょう。…私は専門家ではないので偉そうなことは言えないのですが。食べ物の安全性に関するニュースはむかし衝撃を持って伝えられましたが、何度もそんなことが続くとああそんなことかと誰もが慣れっこになってしまいました。いま食品添加物を気にしていたら、店で売っているものの多くが買えなくなってしまうでしょう。…近年はプラスチック汚染の問題が関心を集めています。海を漂うマイクロプラスチックを魚が体に取り入れ、それを私たちが食べて体に取り込むということはないのでしょうか。

 食べ物を巡って良いこともあります。例えばひと昔前には見られなかったインド料理店がいま日本中に出来ています。世界のいろいろな料理を食べることで国際理解が促進されるのは素晴らしいことです。

 ただ世の中の動きがめまぐるしく、添加物やマイクロプラスチックの問題以外にも、放射線照射食品、遺伝子組み換え食品、ゲノム食品、昆虫食、培養肉、その他いろいろ新しい食品が出来ていて、その中には合理的で健康増進に役立つものもあるでしょうが、逆に予測困難な健康被害が生じるものがないとは言えないようで、議論になっています。……私たちが、よく考えてみると不安だけど口にするしかない、そんな思いでいつも食事をしているとしたら、これは大変なことです。こうした暮らしは、楽しいはずの毎日の食事を貧しくしてしまうのです。

 したがって今の日本の国が、世界各国から輸入されるあふれるほどの食べ物を食べ散らかしながらも、しかしみんな本当においしいおいしいと思って食べているかとなるとどうも心もとないところがあるのです。昔より今の食事の方がおいしいと断言出来ますか。…目の前に素晴らしいごちそうが並べられていても感動がなかったり、これは本当に安全な食べ物なのかと心配したり、こんなことではおいしさは半減してしまうでしょう。逆に、お金のかからない、粗末な食事であっても、気持ち次第ではたいへんおいしく食べられるということがあるのです。

 私たちみんなの食生活が祝福されますように。そのためには、やはり食べ物に関わる神様の言葉が私たちの中に生きていることがなければなりません。そこで、もう一度、主イエスがこの祈りを制定された精神に帰ってゆきたいと思うのです。

 

 当然のことですが、重度の病人を除き、私たちの誰も、毎日何もしないで食事にありつくことは出来ませんし、生涯働かずに三度三度の食事をいただくことは出来ません。自分の労働により、もしくは労働によって得たお金によって、食べ物を手に入れることが出来るのです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るからと言って、私たちが働かずに、口をアーンと開けて、神様が食べ物を運んでくるのを待っていなさいと勧められているのではありません。…そうではなくて一生けんめい働くのです。しかし、自分の働きだけで食べ物を得たと考えるべきではありません。神様が自分の仕事を祝福して下さらなければ、それは実らないし、従って毎日の食事の恵みにあずかることは出来ないと信じるのです。

 日ごとの食物を求める祈りは、だから日々の労働と密接に結びついた祈りとなります。ミレーの「晩鐘」という有名な絵を思い出してみましょう。一日の労働を終えた農民の夫婦が、夕暮れの中、この日一日の生活を神様が支えてくれたことに感謝の祈りを捧げています。日ごとの食物を求める祈りと、毎日の労働の上に神様がともにいますことを求め、感謝する祈りは一つです。

 2000年前のユダヤで人々の主食はパンでした。そしてミルク、野菜、鳥肉、果物などを食べていました。魚は比較的貧しい人々が食べるものとされていたようです。もっともおいしいごちそうとされたのは肥えた子牛でした。

 主イエスはもともと一介の労働者でした。主イエスの父ヨセフの職業は大工であったと聖書に書いてあります(Mt1355)。私が聖地旅行で訪れたベツレヘムにはヨセフの仕事部屋というのが保存されてあり、そこで家具を作っていたと説明されていたので、ヨセフもイエス様も実際は家具職人だったのかもしれません。長男であるイエス様は父親を助けただけでなく、父親の死後は自らの働きで母親や弟・妹を養ったものと思われます。主イエスは貧しい庶民の生活をけんめいに生きてこられ、その喜びも悲しみも、家族を養うパンを得るためにどれだけ働かなければならないかもよく知っておられました。だから30歳になって伝道の仕事を始めてからあと、イエス様がなさるお話には、麦の種をまく話、パン種が大きくなる話、ぶどう園の農夫など、労働のたとえがたいへん多いのです。

 主イエスの時代と現代では労働のかたちがずいぶん違うとはいえ、その大変さということでは本質的な違いはないでしょう。昔も今も仕事の喜びや生きがいを見出すことは、なかなか難しいことだと思います。きつい仕事が多いですし、毎日同じことばかりくりかえす単調な仕事もあります。食べてゆくために、毎日ただただがまんして仕事をするのでは、いつかは気持ちが燃え尽きてしまうでしょう。どんな仕事であれ、そこに意味と生きがいを見出すことが出来るかどうかは、人生をまっとう出来るかどうかの鍵です。(むろんこんなことは皆さんに改めて言うまでもありません)。

 むしろこんにちの風潮では、つまらない日常の労働の時間を出来るだけ短くして、その分、余暇つまりレジャーの時間をつくり、生活をエンジョイすることに意味があるとすることが多いと思います。働きすぎの日本人が、労働時間を短縮し、心豊かに過ごす時間を確保することは人権を考える上でも大切なことです。しかしそのとき、仕事では自己実現はおぼつかないので余暇の時間にのみ自己実現が出来ると考えるなら、間違ってしまうでしょう。あるサラリーマンが、仕事は思い通りにならないことばかりで、自動車を運転しているときだけ自分は自由になれると言っていました。その気持ちはわかるのですが、望ましいことではありません。

 「働かざる者、食うべからず」とはテサロニケの信徒への手紙二の3章10節に出て来る、有名な言葉です。働くことが出来るのに、その意欲を持たない者には食べる権利がないと言う教えです。食べることだけでなく、食べ物を得るために働くことも、人間が人間であるために大切なことであり、両方共に神の導きのもとにあるのです。私たちは毎日の楽ではない仕事から逃げることなく、そこに積極的にかかわることによって、食べ物を手に入れます。しかし食べ物を前に、これは自分の力だけで手に入れたと思わないようにしたいものです。食べ物を得るための労働、家族を養おうと日ごと重ねる心づかい、それは私たちの人間としての生活の基本をなすものです。しかし、その基本的な労働の生活を神様が導いて祝福され、主イエスがもっとも大切な祈りの主題として与えて下さったことを私たちは十分にわきまえていたいものです。私たちが人間としてなすべき労苦を重ねてゆくとき、聖書の次の言葉が真実のことになるでしょう。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」(詩編1265)。

 

 ヨハネ福音書6章32節以下を見ると、主イエスはあるとき群衆の前で、私の父が天からのまことのパンをあなたがたにお与えになるとお話しなさいました。そこで群衆が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、お答えになりました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。神様は私たちが必要とするものをすべて用意して下さいます。ご自分のいのちを犠牲にされ、十字架上から全人類に愛を注がれた方、主イエスが命のパンであられます。主イエスは私たちの体に必要なものを与えて下さるだけではありません。私たちの魂になくてはならないものも日々与えて下さるのです。私たちは、主イエスご自身が命のパンであるということを心にとめる限り、自分が生活上のことで願うことがすでに神様のもとに届いており、そしてその願いを神様がかなえて下さると信じてよいのです。

 初めに申しあげたように、私たちのまわりには食べることと働くことにかかわる多くの難しい問題が存在します。その解決のために、人々は知恵をしぼっていますが、主イエスを信じることなしに最終的な解決はありません。神様を神様として拝んでゆく生活の中で、仕事に生きがいを見つけることが出来ますし、毎日の食事を今よりおいしくいただくことが出来るのです。

 今日、このあと聖餐式が行われますが、古代の教会にあっては聖餐式と愛餐会が一緒になっていて、それはおよそ次のようなものであったと聞いたことがあります。…人々はこの時、自分のところで作った食べ物、手作りのパンやぶどう酒などを携えてきて、食卓に積みました。そして、その中から、聖餐に使うものを取り分けてのち、伝道者の生活を支えるものを分け、そして貧しい人たちに捧げるものを確保して、執事が管理しました。そこにはキリストを信じる者たちの清い交わりがありました。永遠のいのちを約束する霊の糧と、日ごとの肉体の糧が、一つになっていました。またこの人たちは自分が裕福でないのに、もっと貧しい人たちを助けていたのです。

 どうか私たちの食生活も、そのような、神様のみ前で行う食事の恵みがありますように。キリストを通していただいた恵みを、さらに多くの人と分かち合うことが出来ますように。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。私たちは、混沌としたこの世界の中で、人間の罪の現実を思い、そこに自分も入っていることを認識し、そこから救われることを念願する者たちでございます。この一週間、自分でもわからないうちに神様にそむき、多くの罪を周囲に振りまいてきたかもしれない私たちですが、今日ここに集められました。神様を思う思いが、私たちの中から消えてしまわなかった、そこに神様の力のあらわれを思い、感謝いたします。そうして日ごとの食物をあなたに願うことが出来ます恵みを感謝いたします。私たちはいつも何を着ようか、何を食べようかと思いわずらっています。しかし、命のパンであられる主イエスが私たちに与えて下さる糧によって、身も心も養われてゆく者でありますように。

神様、どうか私たちの食生活を祝福して下さい。私たちがいただいている食べものは、多くの人の勤労のたまものです。その方々すべてをかえりみて下さい。…食卓の交わりを祝福して下さい。…世界にも日本にもまだまだ飢えに苦しむ人々がいます。魂の飢え渇きに苦しむ人もそれに劣らず多いです。「主よ、飢え乾く世界に命のパンを与えて下さい」、こういう思いをこめて主の祈りを祈ってゆくことが出来ますように。

 

 主の御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。