エジプトへの託宣

エジプトへの託宣  イザヤ19125、マタイ633  2022.6.26   

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119174、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:7、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:75、説教、祈り、讃美歌:354、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

 聖書、特に旧約聖書の中にはふだんめったに開くことがない、読みにくいところがたくさんあります。しかし聖書の中から、いつも面白そうな話だけつまみ食いするわけにはいきません。時には、全然なじみのなかったところを読むことも必要で、そこに思ってもみなかった新しい発見が待っているかもしれません。説教を作る方はたいへんで、特に今日のところはわからないこともたくさん出て来るのですが、どうか聞いて下さい。

イザヤ書の礼拝説教、前回は13章を取り上げ、「バビロンへの審判」という話をしました。バビロンは古代において栄華を誇った大都市ですが、今は廃墟しか残されていません。聖書はバビロンを取り上げることによって、バビロンに象徴される驕り高ぶった大帝国も神のみ前には永遠であり続けないことを説いているのです。

 イザヤ書は13章から23章にかけて、神が世界の歴史をどのように導いておられるかということを書いています。バビロンに引き続きアッシリア、ペリシテ、モアブ、ダマスコ、エフライム、クシュ、そしてエジプトという順序になっています。一つひとつのことをすべてお話しすることも必要かもしれませんが、私にとってかなり困難な仕事なので、今日は皆さんにも比較的なじみの深いエジプトについて取り上げることにいたします。

 

 古代世界においてエジプトがどれほど強大な国家であったかということは、今に残るピラミッドやスフィンクスなど驚異的な建造物を見るだけでも明らかです。ピラミッドをどうやって建造したのか、今もわかっていないところがたくさんあるということですが、これをなしとげた富の源泉はナイル川にあります。ナイル川は毎年、定期的に氾濫を繰り返しましたが、そのたびに上流から栄養分をたっぷり含んだ土が流れてきて、砂漠の地に農作物の豊かな実りをもたらしました。「エジプトはナイルの賜物」と呼ばれるゆえんです。

 紀元前13世紀、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを脱出したあともエジプトはずっと強大な国家であり続けました。預言者イザヤがいた時代、イスラエルの民は東の超大国アッシリアの軍隊の前におびえ、国全体がいわば風前のともしび状態になっていましたから、その中で自分たちが生きのびるにはエジプトに頼るしかないという人たちがいました。ひとつの超大国の脅威が迫るともう一つの超大国に頼って生きながらえようということで、同じことが現代でもひんぱんに起こっていますね。…そういう状況に陥った時、普通は厳しい状況の前に妥協して、「だって仕方がないじゃないか」と自分を納得させるものですが、こうしたことを神は厳しく批判されます。イザヤ書30章1節から読んでみます、「災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるがわたしによるのではない。盟約の杯を交わすがわたしの霊によるのではない。こうして罪に罪を重ねている。彼らはわたしの託宣を求めず、エジプトへ下って行き、ファラオの砦に難を避け、エジプトの陰に身を寄せる。しかし、ファラオの砦はお前たちの恥となり、エジプトの陰に身を寄せることは辱めとなる。」

 これはアッシリアの脅威を前にしてエジプトに守ってもらおうとした人々を神が批判されているのですが、なぜでしょうか。国が存亡の危機に陥っているのですから、東の超大国の脅威から逃れるために西の超大国に頼ろうとするのは当たり前ではないでしょうか。国王から一般の人々まで、そういう思いになっていたようです。しかし、そこに神の言葉を求める思いはないのです。イザヤは人々に、それではいけない。難を避けるためにエジプトに行ってはならない。エジプトの王ファラオはお前たちに恥を与えるぞ、と告げます。神様に頼ろうともせず、この世で力を持っている国を頼みとしても無益、それどころか恐ろしい結果を招くのだと告げたのです。…かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、エジプトの国は神に逆らう巨大な力として立ちはだかっていましたが、イザヤがいた時代にもこの国はイスラエルの民を誘惑し、神様から引き離そうとする抗い難い力になっていたのです。

 

 こうしたことを踏まえた上で聖書本文を見てゆきましょう。1節、「エジプトについての託宣。見よ、主は速い雲を駆って、エジプトに来られる。主の御前に、エジプトの偶像はよろめき、エジプト人の勇気は、全く失われる」。3節、「エジプト人の思いは、胸の中に乱れる。わたしが、その謀を乱すので、彼らは、偶像と死者の霊、口寄せと霊媒に指示を求める。」

 これがエジプトの姿です。エジプトは偶像だらけの国でした。太陽の神、ナイルの神をはじめ、さまざまな神々が信仰されていました。ファラオも神のひとりでした。偶像というのは、人間が自分の願望を実現しようとして造るものです。耳があっても聞こえない、目があっても見えない、口があってもしゃべることができない、自分の身を守ることもできない、そういうものに頼ろうとすることがどんなに無益なことか、よく考えれば誰でもわかることですが、これが昔も今もまかり通っています。

エジプト人はさらに口寄せや霊媒を通して死者の言葉を求めましたが、これもまことの神でないものに頼ろうとする思いの現れです。…話は飛びますが、シャーロック・ホームズという推理小説の傑作を書いたコナン・ドイルは、残念なことにのちに心霊学にはまってその伝道者となり、それこそ口寄せや霊媒を応援する活動をするようになりました。彼は、キリストの十字架に特別の意味はない、はりつけになった人間はほかにもいるではないかと言うのです。ほかならぬ神の御子が死なれたことを全く理解出来ていない考え方です。心霊学にはまって死者の霊と言葉を交わすことと、キリスト教信仰から離れることが、この人の中で同時進行していったことを示しているようです。

 偽りの神々を礼拝し、その結果、強大な力を持ちつつも堕落していたエジプトに神のさばきが下ります。…神はどのようにしてこの国を裁かれるのか。第一のことが2節、「『わたしは、エジプトをエジプトに刃向かわせる。人はその兄弟と、人はその隣人と、町は町と、国は国と戦う。」第二が外国による侵略です。4節、「わたしは、エジプトを過酷な支配者の手に渡す。厳しい王が、彼らを治める』と万軍の主なる神が言われる。」

歴史が伝えるところでは、紀元前747年にエチオピアがエジプトに襲いかかり、テーベというところを都とする王朝が成立したのですが、戦いに敗れた勢力が残っていて、この国は内戦状態になりました。右往左往する前の王朝の残りの人たちは、3節に書いてあるように心乱れ、偶像や死者の霊に助けを求めたということです。…そして紀元前664年、アッシリアが攻め込んできてエジプトを統治します。その後、バビロニアやペルシャ、そしてマケドニアのアレクサンダー大王によっても征服され、エジプトという国はなくなってしまうのです。エジプトが独立できたのはやっと20世紀になってからです。

さらに神のさばきの第三のことが5節から10節に書いてありますが、これはよくわかりません。5節、「海の水は涸れ、川の流れは尽きて干上がる」。ナイル川が干上がることを言っているのですが、実際にこんなことがあったのか、私は確認できませんでした。…今年の2月、エチオピアがナイル川上流に造ったダムが発電を開始、エジプトはこのダムによってナイル川の水が大幅に減ってしまうと猛反発していて、一触即発の危険があるのですが、こうしたことを言っているのか、それともさらに将来のことを言っているのかわからないので、次に進みます。

神のさばきの第四が11節から15節に書いてあり、それは知恵に関することです。エジプト人は知恵があることで有名で、さまざまな先端的な学問が花開いていましたが、それらは神のさばきの前に無力でした。内乱、外国による侵略、自然災害の前に何の役にも立たなかったのです。

 

さて皆さんは、このように読み進んでいくと、エジプトは神様の敵だったから神様に滅ぼされたのだ、と思ったことでしょう。たしかに、驕る平家は久しからず、ということがエジプトで起こったのでしょう。しかし、この先を読んでいくとそうはなっていないのです。もっとも、ここには多くの謎があります。

16節は、万軍の主が振りかざされる御手の前にエジプトが恐れおののくと言います。18節、「その日には、エジプトの地に五つの町ができる。そこでは、カナンの言葉が語られ」る、19節は「その日には、エジプトの地の中心に、主のために祭壇が建てられ、その境には主のために柱が立てられる」と言っています。エジプトで主なる神を礼拝する人々が起こされるというのですが、まず問題になるのは、これが実際に起こったのかということです。

ある人は「ユダヤ古代誌」という歴史資料を調べ、紀元前2世紀にユダヤ人が各地に移り住んだ結果、エジプトの5つの町にユダヤ人共同体が出来、その内の一つの町に神殿が建てられ、祭儀が行われたと言っています。それがイザヤの預言の成就だと言うのですが、私はエルサレム以外の場所で神殿が建てられたというのが信じられなくて不思議に思っています。別の資料ではこの神殿の正統性に対して疑う声があったと書いてあり、何があったのかわかりません。いずれにしても、エジプトにユダヤ人の一部が移ってそこで神様を礼拝したようです。そこにもしかしたらエジプト人も加わったのかもしれませんが、そのことをイザヤ書の預言の成就と言えるかどうかは疑問です。

というのは21節が「主は御自身をエジプトに示される。その日には、エジプト人は主を知り、いけにえと供え物をささげ、また主に誓願を立てて、誓いの供え物をささげるであろう」と言っているからです。エジプト人がまことの神に立ち帰ると言うのです。さらに23節は「エジプトからアッシリアまで道が敷かれる」、続く24節は「イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。」

皆さんは、こんな途方もないことが歴史の中で本当に起こったと思いますか。少なくとも2022年の今日まで、ここにあることがそのまま実現したとは考えられません。では、これをどのように判断したら良いのでしょう。…ここでエジプトとかアッシリアという言葉が何かを象徴していることが考えられます。また、神様がこれから先の世界に行って下さることを言い表したのだとも考えられます。

旧約聖書を読んでいてわかることは、エジプトが神に反抗する国として書かれていることです。奴隷であったイスラエルの民を虐待しただけでなく、イザヤの時代にもイスラエルの民にとって危険な存在でありました。その国に神のさばきが下されます。しかし22節に書いてあるように「主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる」。こうして彼らはいつの日かまことの神に立ち帰るのです。

25節で神は「祝福されよ、わが民エジプト、わが手の業なるアッシリア、わが嗣業なるイスラエル」と言われます。エジプトは「わが民」と呼ばれ、アッシリアは「わが手の業」、そしてイスラエルは「わが嗣業」と呼ばれ、3つの民がそろって「祝福されよ」と言われます。この時代の人々にとって常識を超えた言い方ではないでしょうか。現代に置き換えると、まるで「祝福されよ、アメリカ、ロシア、中国、日本」と言っているようなものです。…これは神が救おうとされる人々は、イスラエルという特定の民にとどまらず全世界に及ぶこと、超大国と呼ばれる国々も神に立ち向かうことは出来ず、すべて神の支配に服することを宣言しているに等しいのです。だとすれば、ここに現れたことは私たちに何を教えているのでしょう。

イザヤの時代と同じように、今の時代も超大国による力と力の対決によって世界は動いています。日本はその中で、イスラエルの民のような弱い立場にあると見ることも、日本より力の弱い国に対してはエジプトのように強い立場にあるとみなすことも両方可能でしょう。いずれにしても力を信奉するのが当たり前になっている世界の中で、聖書は力ではない、どんなに強いものでも神に敵対することはできない、神は力に頼る者を撃ち、その上でいやされる、彼らが頼みとしていることを打ち砕き、その上で祝福すると言われるのです。

 「地の果てのすべての人々よ。わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」、イザヤ書4522節の言葉です。どうですか。皆さんはこの神様を仰いで、救いを得ているでしょうか。神の導きは見出すことが難しいものです。しかし実際には世界を覆い、皆さん一人ひとりの上にも働いているのですから、今からでもそのことをもう一度見出し、神様を賛美し、感謝する歩みを始めてゆく者となりましょう。

 

(祈り)

 私たちにまことの道を指し示して下さる天の父なる神様。今日与えられたみことばはなかなか難しいものです。エジプトの国に与えられたみ言葉ですでに実現したものがある反面、これから実現するだろうものもあったからです。

 

 神様は聖書の中で、しばしば終わりの日の世界のありさまを前もって示して下さっています。エジプトがまことの神様に立ち返るというのもその一つですが、そのことを信じる信仰を与えて下さい。いまエジプトやその周辺の地域は緊張状態の中にあります。世界にはまたミャンマー、ウクライナを初めとして戦乱に苦しむ国々がありますが、神様が必ず平和を打ち立てて下さることを信じて、祈ります。日本の国も紆余曲折はあれど神様が示された道に向かって進んでいることを見せて下さい。どうか日本の進む道が平和と人々の幸せのため、またそのことで世界に貢献する道でありますように。微力な私たちも、その一翼を担うことが出来ますようにとお願いいたします。