力ある神の子

力ある神の子  詩編892030、ロマ117  2022.6.19

(順序)

前奏、招詞:詩編119173、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:66、説教、祈り、讃美歌:452、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:541、祝福と派遣、後奏

 

 私たちがローマの信徒への手紙を新しく読み始めて、その2回目となります。これは2000年にわたるキリスト教の歴史において最大の伝道者であったパウロが、これから訪れようとしている、まだ見ぬローマの教会の人々に書き送った手紙ですが、彼はその冒頭で「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と自己紹介をしています。キリスト・イエスの僕と言いますが、キリスト・イエスの奴隷と訳しても一向にかまわない言葉です。僕とか奴隷とか言うと、屈辱的なことのように思う人がいるのですが、ここにあるのは社会の中の上下関係とは違います。皆さんは、罪の奴隷になることと神の奴隷になることと、どちらが良いと思いますか。パウロは自分の体も魂も自分のものではなくキリスト・イエスのものであると信じ、そのことを喜び、また誇りにもして、伝道の生涯に邁進していったのです。

キリスト・イエスの僕であるパウロは、自分のことをさらに「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と書いています。…パウロはイエス様が十字架にかかる前からの弟子ではないし、またキリスト教徒を迫害した過去がありますから、あいつは本当に使徒なのかと疑う声があったのですが、しかし復活したイエス様が直接現れて彼を選び、召して使徒にして下さったことがすべての疑いを振り払います。パウロが使徒となったその目的は「神の福音のために」ということでありました。

 福音は英語でふつうgospelと言いますが、good newsにも福音という意味があります。良い知らせ、これを苦しみ、悩む世界に宣べ伝えていかなければなりません。だから「神の福音のために」というのは、良い知らせを宣べ伝えるということなのですが、その内容は決していま届いたばかりの新しいニュースばかりではありません。2節に書いてあるように「神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」でもあるのです。…古代の人々でも、それまで全く知らなかったことがニュースになって飛び込んできたら、信じて良いものか迷うことでしょう。すぐに信じてだまされるということは昔からありましたが、これはそんな怪しげなニュースではないことを言っているのです。…ここで言われている聖書とは旧約聖書です。主イエスは旧約聖書を指して「聖書はわたしを証しするものである」と言われました(ヨハネ539)が、そこで明らかになったように、旧約聖書の全体がやがて訪れるイエス・キリストを預言しているのです。旧約聖書で預言されていた神の御子がついに現れた、この方に関することが福音なのだということです。

 この手紙の受け取り手であるローマの教会には、異邦人と共にユダヤ人もいたでしょう。ユダヤ人なら誰でも神の御子のことは聞かされて知っていました。異邦人はあとから知ることになったのでしょうが、いずれにしても、ユダヤにイエス様が出現されました。この方こそはと期待されたのですが、十字架につけられ、およそ神の御子には似つかわしくない無残な死を遂げてしまいました。そのため「イエスはにせものに過ぎなった」と思った人が多かったのですが、しかし、心の目を開いてよく見なさい、この方こそ聖書の中で預言されていた御子なのだということです。

 

 福音とは御子に関するもので、福音は御子によって実現したのです。では御子とはどういう方なのか、3節、4節でこうまとめられています。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。

 イエス様がどういうお方なのかということを、パウロはこの手紙でも他の手紙でも、またあらゆるところで語っていますが、ここはごく短く、簡潔に語っています。礼拝式文や信仰告白のようなものですが、解釈がそうとう難しいところで、私は昨日、先輩の牧師にわからないところを質問して教えてもらったのですが、その牧師は「ここは難しいから説教では飛ばした」と言うのです。昨日今日の話で、私は今さら聖書箇所の変更など出来なかったのですが、ここを少しでも間違って語ると異端になりかねません。そこで、いったん書き上げた説教を検討したところ、おかしなところが見つかり、そこを破棄して新たに書き直しました。というわけで私の能力の範囲内で、これだけは確かだということしか言えないことを前もってことわっておきます。

 ここはイエス様がどういうお方なのか、日本キリスト教会信仰の告白にある「真の神であり真の人です」に関わるところです。世の中にはイエス様をただの偉人だとか人類の教師とか思っている人がいるのですが、皆さんはそういう段階からは卒業されています。しかし真の神であり真の人というのがどうにもわかりにくく、そのため、イエス様はただの人間だったのが復活して神の子に定められたのだとか、またこれとは反対に、イエス様は初めから神であって人間としての部分は見せかけでしかないとか、もっともらしいことを言う人が昔から後を絶ちません。私たちは引っ張られてしまわないよう注意しなくてはなりません。

パウロはこの手紙で、初めからイエス様を御子と呼んでいます。「御子は、肉によれば…」と、御子であることを前提にして書いています。イエス様は御子です。最初から神の子です。…お生まれになった時ただの人間だったのがあとから神の子になったということではありません。神が神であるまま人間になったのです。

ここに「肉」という言葉が使われています。「肉によれば…生まれ」、パウロは肉という言葉をそのたくさんの手紙の中でいろいろな意味で使っていますが、ここの「肉によれば…生まれ」これは人間として生まれたということです。人間型ロボットは外見上、人間に見えても中身は違います。そういうことではなく、外見上人間であるだけではなく、中身も人間だということです。だからイエス様は私たちと同じように、お腹がすくこともあれば、眠ることもします。体を傷つけられたら、私たちと同じように痛むのです。へブル書5章8節には「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と書いてあります。イエス様は人間として、試練を経験され、忍耐し、克服されたのです。

「ダビデの子孫から生まれ」、やがて来られる神の御子、すなわちメシア・救い主である方がかのダビデ王の子孫から現れるという約束を、神は多くの預言者にことづけて与えて下さっていました。今日の詩編891節でも、父なる神が「わたしはわたしの僕ダビデを見いだし、彼に聖なる油を注いだ」と言われています。…ダビデ王の子孫からイエス様が生まれるという神の約束の実現は、マタイ福音書第1章の系図でも明らかです。マリアの夫であるヨセフはイエス様と直接、血のつながりはないのですが、法的にイエス様はダビデの家系に属するヨセフの子となります。

イエス様は神の御子なのだから、赤ちゃんの時の泣き声も他の子どもと違って上品だったか、そんなことはないでしょう。罪を犯さなかったこと以外、他の人と同じなのです。

神が人間となる、こんなことは他の宗教で見つけることは出来ないと思います。日本には、ほとけ様が人間に化けてやって来て、その正体を知らずに親切にしてくれた貧しい人に恵みを施すといった話がありますが、この場合、ほとけは外見上人間になっただけで中身までそうではありません。苦しみ悩む人々と共に生きる神仏の話がないわけではありませんが、イエス様とは比較になりません。…私たちの信仰の対象である神は、ちょっとやってきて人間を助けてくれる、その程度の神ではないのです。神が私たちと同じ人間となり、共に生き、共に死んで下さった、それも十字架を引き受けたほど、これほどの教えは他にありません。

 

御子が「肉によればダビデの子孫から生まれ」は良いですね。次が「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」、深く考えると切りがないのですが、まず全体の構造からみてゆきましょう。

この文章から、イエス様が復活によって初めて神の子と定められた、と読みこんでしまう人がいるかもしれません。その場合、神の子でなかったイエス様が復活によって神の子となったとなるのですが、これは間違いです。先に申し上げた通り、イエス様は初めから御子です。神の子で、それはずっと変わりません。復活によって初めて神の子になったのではないのです。

もう一度見てみましょう。「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」、神の子であることはなんら変わりません。復活によって、力ある神の子になられたのです。力あるということが大切です。冒頭に「聖なる霊によれば」と書いてあることから、聖霊の働きによって力ある神の子と定められたことがわかります。

父なる神は死んで復活されたイエス様を高く上げられました。こうしてすべてのもの、天にあるもの、地にあるもの、また地下にあるもの、これは死という力にとらわれているものですが、すべてのものが「イエス・キリストは主である」と告白し、父なる神をたたえるようになるのです。初めから神の子でしたが、外からは普通の人間と変わらないように見えたイエス様が、この結果、力ある神の子になられたのです。

 

真の神で真の人であられるイエス様は、復活によって力ある神の子と定められました。しかしそれは、私たちにとって遠い遠い出来事ではないですか、という人がもしかしたらいるかもしれません。こういう人に言いたいことはたくさんあるのですが、今日は一つだけお話しします。

イエス様はたしかに2000年も昔、しかも日本からはるかに遠いユダヤで活躍なさった方です。死んでよみがえられたことも、ずいぶん遠い世界の話のように思われるかもしれませんが、ここに「死者の中からの復活」と書いてあることに注目しましょう。私たちが生きている間に終わりの日が来ないかぎり、みんな遅かれ早かれ、いつかは死者となります。死によって、それまで人生で積み上げてきたことはなくなってしまいかねず、いったい人は何のために生き、そして何のために死んでしまうのかと思うこともしばしばです。死んだあとでこの世界に帰ってきた人はなく、生きている者と死んだ人の間にはどうしようもない断絶があります。

けれども主イエスは死者の中から復活されたのです。これはイエス様おひとりだけが復活して、あとの人は取り残されたままということではありません。イエス様はインマヌエル、「神は我々と共におられる」というもう一つの名を持っておられます。イエス様は人間と共に生きたばかりでなく、死を体験され、死の世界に向かわれました。そしてそこから復活し、天に帰られましたが、これはイエス様がご自分を信じるすべての人の先駆けとなって行われたことなのです。いつの日か、イエス様に結ばれた数限りない人々がそのあとに続くのです。

神の御子、イエス様は見た目もその中身も人間で、神の御子であることは他の人間の目には隠されて見えなかったのですが、このイエス様が死んで復活されました。生きている者、死んだ者、すべて神を信じる者たちの先駆けとして。この時、イエス様は初めて「力ある神の子」と定められたのです。使徒言行録に出て来るステファノは殉教する間際、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言いました。皆さんの上に、このイエス様の輝くお姿が見えてきますように。この方に関することが福音なのです。

 

(祈り)

天の父なる神様。神様は古今東西、誰もが思いもしなかったことを実行して下さいました。遠い昔から預言者たちを通して約束された御子を地上に派遣されたことです。御子イエス様は、インマヌエル、神は我々と共におられるということを、その生と死、そして復活によって世界に示して下さいました。このイエス様によって、私たちの人生が祝福されるばかりではありません、死んだのちもそこからよみがえることが約束されていることを、心から感謝いたします。

神様、私たちがこの福音を堅く信じることによって、自分の中の善と悪のたたかいに打ち勝つことが出来ますように。そして、キリストを信じる者たちが祈りを合わせて、みこころに反する現実に立ち向かってゆくことが出来ますようにと願います。

 

イエス・キリストの御名によって、この祈りをお捧げします。アーメン。