みこころを地上にも

みこころを地上にも   詩編115111、マタイ6910    2022.6.12

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119172、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:24、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:57、説教、祈り、讃美歌:Ⅱ—26、信仰告白(使徒信条)、(献金)、主の祈り、頌栄:544、祝福と派遣、後奏

 

 今ここにいる皆さんは主の祈りをそらんじていることと思います。日曜学校でも毎週唱えているので、子どもの時に覚えたという人も多いはずです。私たちの頭に主の祈りが叩きこまれていることは、素晴らしいことですが、しかし、これを唱えることに新鮮な喜びがないままマンネリ化してしまうという危険がいつもついてまわります。主の祈りがまるで呪文のようになっているとしたら、…私たちはこれを本来の主の祈りに取り戻すことを真剣に考えなくてはなりません。

 その意味で一つ話題を提供したいのが1992年、南アフリカ・イギリス・ドイツの合作で作られた映画「サラフィナ」です。素晴らしい作品です。ミュージカル映画で、アパルトヘイトという悪名高い人種隔離政策の中にあった南アフリカ共和国の黒人たちのたたかいを描いており、いまユーチューブでも見ることが出来るのですが、この中に主の祈りが出て来ます。それが、静かにこれを唱えるというのではないのです。主の祈りを歌いつつ踊るのです。この当時、たいへん悲惨な状況の中にあった黒人たちですが、若いいのちがはじけていくような印象的な場面で、中でも私には「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」の言葉が生きて輝いているように見えました。この人たちにとって、人種隔離政策の撤廃こそ、天において行われている御心が地上で行われることで、彼らは主の祈りを唱えながら、これを勝ち取っていったのでしょう。アパルトヘイトはついに撤廃されました。

 

 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」、これは私たちがいつも祈っている言葉では「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」となります。私たちは、主の祈りの最初に神様を「父よ」と呼び、次に神様の御名をあがめる祈り、そして御国、すなわち神の国が来ますようにと祈ります。この祈りと今日の4番目の祈りは、密接に関連していて、「御国が来ますように」が発展したのが「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」となったと考えられなくもありません。

 「御心」というのは、神様の思い、神様のご意思のことです。神様の思いがその通りになりますように、と祈ります。天において、神様の思いは完全に実現されています。しかし、地の上ではどうでしょうか。ここで地の上と言うのは、天と向かい合っている地ですから、海の底も宇宙ステーションの内部もみんなそこに入っています、念のため。

 主イエスはここで、御心が天に行われるように、地の上にも行われるよう祈るよう命じておられるのですが、私たちはこのことをどこまで知って祈っているでしょうか。何も考えていないのは論外として、神様のご意思がその通りになりますようにということを誤解したままこれを唱えている人がいないとも限りません。私はこの時、二つの誤解が生じやすいと思っています。

 その第一が、これがいちばん多いのですが、神の御心を脇に置いて、自分の思いや願いを一番に追い求め、それを祈っているということです。神様のご意思がその通りになりますようにと言っているはずなのに、実は自分の願望ばかり神様に申し上げているということです。もちろん、一人ひとりが切なる願いをお祈りすることが悪いと言っているわけではありません。私たちがしている祈りが御心に一致していることを願います。たとえば自分がかかっている病気の快復をお祈りしたとします。「病気が快復することで、私は神様の御用をもっとしっかり出来るようになりますから、どうかこの願いをかなえて下さい」。この場合、問題はありません。…しかし、こんな祈りばかりではありませんね。自分の利益を、つまり自分に得になることだけを一心に求めて、御心を少しも考えず、神様に自分の要求を押しつけているだけだという場合もありますから、そのことを認めると、この第三の祈りを祈ることが決してたやすいものではないことがわかってくるでしょう。

 もう一つ、気をつけたいことは、「御心が行われますように」ということが自分が何もしないことへの言い訳になってしまわないかということです。ちょっと極端な例になるかもしれませんが、自分の成績が悪いのも、仕事がはかどらないのも、家族の中で問題があるのもみんな神の御心!?、これでは人生、前に向かって進むことは出来ません。

この祈りはよく、問題だらけの悲惨な世の中がどうか平和で明るい世界であってほしい、神様、何とかして下さいという願いを込めて祈られることが多いかと思います。そう祈るしかないたいへん厳しい現実がありますから、よくわかるのですが、ここで見過ごしてしまいそうなことがあるのです。…天で行われる御心が地の上でも行われる時、そこに一人ひとりのこの私たちも入っているのです。自分のことを除外してこの祈りを祈ることは本来ありえません。

 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」、私はその意味を考えれば考えるほど、これがすごい祈りだと思えてきました。この祈りを祈るとき、私たちはキリストにならって自分を神様にあけわたすことが必要です。この祈りを祈るたび私たちは、御心がこの自分の中にも実現されるよう祈っていることを、自覚しなければなりません。

私たちは主イエスを信じ、神の子とされています。あるいはそのように招かれています。それは神様の御心に対し不従順な人々の世界に、御心に忠実な者として送り出されているということでもあるのです。私たちは、自分でもわからないうちに不従順な人々の一員になってしまうかもしれません。だから私たちはこの祈りを祈っている以上、みな神の恵みに押し出され、この地に御心を実現なさろうとする神の働きに参加する者となることを願わなければ、本当にこの祈りを祈っていることにはならないのです。

 主イエスはこのことを別なところでも教えておられます。たとえばマタイ福音書の7章21節にこう書かれています。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。信仰はイエス・キリストを信じることがまず第一で、善いことをしたからといって救われるわけではないのですが、しかし何も行わなくて良いということではありません。人はむしろ主イエスを信じることによって、父なる神の御心を行う者となるのです。

 もう一つ、ヨハネ福音書4章34節にも主イエスの次の言葉があります。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」。ここで御心を行うことがわたしの食べ物と呼ばれていることが重要です。食べ物はそれがなければ人間生きてゆくことが出来ない最重要なものですから、主イエスが、御心を行うことを食べ物にたとえたということは、御心を行うことがどれほど重要なこととされているかということです。主イエスにとってこれほど重要なことは、また私たちにとっても同じです。ですから、御心を行うということは、ほかのいろいろなことをやって、余った時間にちょっとしてみようという程度のことではありません。出来ればそうしたらといった程度のことではなく、まことの人間として生きてゆく上で欠くことの出来ない重要な事柄なのです。

「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」、ここで神様に向かって、天と同じように地の上にも目をくばって下さい、働きかけて下さいと言っているのですが、地の上には自分もいるのですから、この祈りは、自分も含めて神の御心が実現すべく導いて下さいということなのです。この祈りを祈れば祈るほど、それは自分にかえってゆくのです。

神の御心を問わなければならないことは、当然、私たちの生活の中にたくさんあります。私たちの日常の生活は決断の積みかさねです。今晩の食事は何にしようかというものから、どの学校に入ろうか、誰と結婚しよう、どのように仕事をしてゆこう、…また、お金をどう使うか、時間をどのように用いるか、健康のためにどうしたら良いか、家族の介護をどうするか等……人生は常に大小の決断を迫られるものですが、このとき私たちはどのようにするべきでしょうか。もちろん自分が責任をもって判断しなければなりません。しかし、そればかりではないのです。決断する時には神様に対しても責任をもって行わなければなりません。その場所で、何が神の御心であるかを問うのです。

 

御心を求めて祈る祈りには、さらに重要なことが含まれています。それは御心とは運命とか宿命とかとは全く別のことだということです。

たしか今昔物語だったと思うのですが、日本の古典文学の中には、人生に何が起こるかはすべて前世で決まっているということばかり言うのがあるようですが、教会ではそうしたことは言いません。もちろん占いとも無縁です。聖書に運命という考え方がないからです。

運命、運命と言っている人で明るい未来を告げる人はいないと思います。こんなものを信じた人は、あらがいがたい運命に翻弄されるだけです。あなたの人生はこうなるように定められ、もうそこから抜け出すことは出来ないのだ、ということしかないからです。

しかし聖書に運命という考え方はありません。運命よりもっと深い「摂理」ということを教えています。「摂理」とはどのようなものか、ひとことで言いますと神のご計画です。すべてのことは、天地創造の初めから、世の終わりまで神のご意思によって起こるという信仰です。神のご計画が、私たちを、そしてこの世界を導いて下さる。その先に永遠の命が待っています。滅びと死が待ち受けているということは絶対にありません。

運命に従う時、人はあきらめるしか出来ません。これは運命だからしかたがないと言って生き、そして死んでゆくのです。けれども、神に従うとき、信仰はしかたがないとは言わせません。人生どんなことが起こるかわかりませんが、しかし神がおられます。神は私たちに良いことをなさっているのだと信じて、祈りつつ自分のすべてを神に委ねて生きることが出来るのは信者の特権です。

主イエスは十字架につけられる前の晩、ゲツセマネの園でこういう祈りをされました。マタイ2639節、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。これはあきらめの祈りではありません。十字架にかけられて死ぬ運命ならばそうしましょうという祈りではないのです。主は運命ではなく御心を問うておられます。いったいあなたの御心は何でしょう、それが示されたら私は従いますという祈りです。…「もしできることなら、この苦しみを取り除いて下さい」という主の最初の願いは聞かれませんでした。しかしついに、十字架にかかることが人類の救いのため、どうしても必要だということが示され、確認されますと、主はもう迷ったりしないで、勇気をもって立ち上がるのです。主イエスはこうして祈りのたたかいに勝利して、十字架へと向かわれたのです。

 

「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」、これは永遠なる神のご計画が、天ばかりでなく、この世界と私たちにおいても実現することを祈る祈りです。…ただその御心が何であるか、つかむことが簡単ではない場合も多いです。現在、ミャンマー、ウクライナなどいくつかの国で、戦争のために目を覆うようなことが起こっていて、私たちはそうしたことを見聞きして、どこに御心があるのかと思ってしまうこともあるでしょう。悲惨な犯罪事件を知った時にもそのような思いになることがあります。…しかし、そこで、「だから神はいないんだ」と考えてしまうと、その人はさらに有害な結果を呼び込んでしまいます。世界のこれまでの歴史からも「だから神はいないんだ」というところから明るい未来が開けていったことはないはずです。いったいどこに御心があるのかというぎりぎりのところにあっても、拠り所になるのはイエス・キリストのみです。むしろイエス様が「どこに神がおられるんだ」としか思えない場所、十字架につかれたことを私たちは見なくてはなりません。

皆さんの中には、終わりの日が訪れ、世界が神の力によって生まれ変わる時が来ない限り、御心が行われることはないと思う人がおられるかもしれません。しかし、悪魔が跳梁しているかにみえる人間世界にあっても、イエス・キリストによってつけられた道があります。それは「みこころが地の上に行われている」ということなのです。それでいっぺんに劇的な変化が起こることは、なかなかないかもしれません。しかし教会を通し、皆さんに、そして世界に差し出された御心は、初めは小さくてもやがて大きな実を結ぶということが繰り返されてきました。もちろんサタンの方でも次々に新たな手を繰り出してくるので、神の民はのんびり休むことも出来ませんが、これは価値あるたたかいと言えます。

教会はイエス・キリストによって天につながり、天において行われている御心をこの世界に伝えています。礼拝の最後に祝祷があります。牧師を通して祝福の言葉がなされると皆さんは教会から外に帰って行きます。これは礼拝を終えた出席者に、今度は教会の外で御心を現わして生きるように、という励ましの言葉なのです。実社会の中から礼拝のために教会に入ってきた皆さんが、この祈りによって再び実社会に送り出されます。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」、ここに私たち自身が入っていることを感謝をもって受け止めて下さるように。

 

(祈り)

天にまします父なる神様。あなたはみ子イエスにおいて、偉大ではかりがたい御心を全世界に示して下さいました。それゆえ私たちは、たとえ御心を見出しがたい死の陰の谷を歩いていても、あなたが共におられることを信じていますから、たじろぐことなく、あきらめることなく、前に向かって生きていくことが出来ます。どうか私たちの上にも御心が行われることで、心にひそむ善と悪のたたかいに打ち勝ち、全身全霊をあげてあなたに従うことが出来ますようにと願います。

 

神様、しかし私たちは自分のことばかり祈っているわけにはいきません。ミャンマー、ウクライナなど、世界には悲惨で目を覆うばかりの状況にある国があります。私たちの日本も表向きは平和ですが、実際はどうでしょうか。神様、誰もがもうここに救いの光は届かないと思っていた場所にイエス様が来られたことを、ここにまことの平和が打ち立てられたことを、神様が建てた教会を通して世に知らしめて下さい。とうとき主イエスの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。