異言語が響き合うとき

異言語が響き合うとき 創世記1119、使徒2:1~13  2022.6.5

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119171、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:30、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:177、説教、祈り、讃美歌:500、信仰告白:日本キリスト教会信仰の告白、(聖餐式、202番)、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:543、祝福と派遣、後奏

 

 バベルの塔は、その昔、建設が始まったもののついに完成しなかった巨大な建造物です。この塔が建てられたのはシンアルの地とされています。すぐ前の創世記10章には、あの大洪水の中を箱舟に乗って生きのびたノアの家族から、諸民族が分かれ出たことが書いてあります。8節以下を読んでみます。「クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。彼は、主の御前に勇敢な狩人であり、『主の御前に勇敢な狩人ニムロドのような』という言い方がある。彼の王国のおもな町はバベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった」。

ここにシンアルの地とバベルが出てきます。バベルはバビロンとも密接な関係があります。この地は今のイラクにあり、チグリス川、ユーフラテス川が流れており、古代四大文明の一つ、メソポタミア文明が花開いたところです。

 

この時代に生きた人々はみな同じ言葉を使って、同じように話していました。同じ一つの言語のもと、互いにわかりあっていたので、「れんがを作り、それをよく焼こう」とか「さあ、塔のある町を建てよう」と呼びかけあい、一致団結して事にあたることが出来たのです。

この地では大きな石がなく、建築用の石材がなかなか得られないので、人々は型を造ってそこに粘土を注ぎ込み、日に乾かすだけでなく、火で焼きあげて固め、れんがを造りました。そしてアスファルトで塗りこめて、驚くほど堅牢な建設資材をつくりました。アスファルトは原油に含まれる炭化水素類の中で最も重いもので、接着剤として使われたものと考えられます。新しい事業と技術開発にかける人々の熱意と勤勉さには目を見張るものがあります。

しかし「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」、ここには神様を信頼する思いはありません。人々は、塔のいただきを天まで届かせようとしました。…ここで現代人が、いくら空高く上っていっても、そこに天はないと言っても仕方ありません。古代人は空高く上っていったら天に達し、そこに神がおられると信じていました。だから天まで届かせようというのは、高い塔を建設することで神がおられるところまで到達しようということだったのです。

また、人々の「全地に散らされることのないようにしよう」という言葉からも、神様が見えなくなってしまっていることがわかります。というのは、神はかつて、箱舟から降りてきた人間に向かって「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われていたからです(9:1)。彼らは神様のこの言葉からも逃げ出そうとしていたのです。

以上みてきましたように、神に背いた一大プロジェクトが開始されたのです。バベルの塔建設とは、神への反逆という罪が引き起こしたものでした。

では、人間たちのこの罪に対し、神がどう対処されたのかをみましょう。

「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、…」、地上から見ると、巨大な建造物が天を突くように空に伸びていました。数知れない人々が労働に汗を流していました。この情景は、遠大な理想に向かって邁進してゆく人間たちの不撓不屈の力を実証するもののように見えます。これは歴史始まって以来の大プロジェクト、魂をゆり動かす大革命ではなかったでしょうか。けれども、神のいます天から見れば、この建造物は「主は降って来て、見」なければならないほどはるか下の方にあったのです。

神は、この人間たちに審判をくだしました。「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」。

バベルの塔を描いた映像作品などでは、この日、神様が手を下されたとたん、人々がそれぞれ違う言葉をしゃべりだして話が通じなくなり、工事の続行が出来なくなったように描かれています。ただ、そんな劇的な変化を考えなくても良いと思います。神様を抜きにして一致団結し、一代プロジェクトを始めた人間たちは塔の完成を待たずに空中分解してしまったのです。人々が話している言葉が必ずしも違う言語にならなくてもかまいません。工事の進め方をめぐる考え方のちがい、けんか、足の引っ張りあいや責任のなすりあい、ある人は楽して働きある人は虐待されるという不平等、利害の対立、そういうことがたまりにたまってついに発火点に達してしまったのでしょう。こうして人々はもう一緒に働くことが出来なくなりました。このことは人間の罪がもたらした結果であり、同時に神から下された罰でもあったのです。

 バベルの塔の建設はこうして未完成のまま終わり、互いにわかりあうことが出来なくなった人々は、そこから外に向かって出て行きました。このようにして世界の各地に散っていった人々の間で、互いの言葉はますます通じなくなってしまいました。

いきなりたくさんの違った言語が出来たために工事がストップし、人々が各地に散っていったというより、人間の罪が重なった結果、言葉が通じ合わなくなり、それが人々を分散させ、今日見るようにたくさんの言語が出来るようになったのです。…いま、同じ言語を話す者同士でも、互いに言葉が通じ合わないことはざらにあります。元気はつらつな人と今にも死にそうな人、お年寄りと若い人、大金持ちと物乞い、かっこいい男性とそうでない男性の間でもそうですが、まして言語が違うとなると、互いの間に無理解や感情的な行き違いが生まれます。あの国の人は怖いとか、あれは劣等民族だというレッテルをつけたりして、互いにわかりあえない民族と民族の間の敵対関係が戦争を呼び起こすことがあるわけです。…聖書は、そうしたことすべてが、人間が神の権威に挑戦したことの当然の報いではないかと言っているのです。

 

 さて、いま私たちはここでペンテコステの礼拝を行っています。教会はこの日起こったことを聖霊の降臨だと教えています。聖霊降臨によってイエス・キリストを信じる人が起こされた、この日こそ今に続く教会の誕生日なのですが、そのことは、むかしバベルの塔をめぐって起きたことを見据えることなしには理解できません。なぜなら言葉が通じなくなって世界各地に散らばり、ばらばらになってしまった人たちが、この日を境にして再び、一つに集まることを開始したからです。

 どのようにしてこのことが起こったのか、イエス・キリストは十字架の死ののち復活して40日の間、人々の前に現れ、ついに昇天なさいました。使徒たちや弟子たち、女性たち、イエス様の家族などおよそ120人が一つになって熱心に祈っていました。この人たちは、イエス様が「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)と言われていたもの、つまり聖霊が降るのを待ち望んで、祈りをささげていたのです。

 その日は五旬祭、ペンテコステの日で、都エルサレムにはもともとそこに住んでいた人たちばかりでなく、各地から大勢のユダヤ人が集まっていました。エジプトから来た人もいれば、トルコから来た人もいる、メソポタミアから来た人もいるという具合です。それぞれ違う言葉を話している地域から来た人たちです。100万人の人が集まったという資料があるくらいですから、都は人でごったがえしていたことでしょう。

 120人ほどの人たちの熱心な祈りが熱烈な祈りになって、ついに沸騰点に達した時だと思います。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」

ついに聖霊が降りました。そこで何が起こったのか、「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉を話しだした。」

 この人々は家の中から飛び出し、通りや広場に出て、いろいろな言葉で語り始めたのです。まるで熱に浮かされたような話し方ではなかったでしょうか。言葉が鉄砲玉のようにぽんぽん出て来て、それがみんな神様をたたえる言葉なので、そこに居合わせた人たちはみんなあっけにとられてしまいました。

 「話をしているこの人たちは。皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また…」、

いろいろな地名が列挙されています。さすがに中国や日本は入っていませんが、エジプト、リビア、ローマ、クレタ、アラビア、メソポタミアなどここにあげられているのは当時の人々にとっての全世界です。…一人の人がいろいろな言葉を聞き分けられることはまずありません。今もフランス語をしゃべっているのに英語だと勘違いする人もいますから、きっと別々の場所から、「あ、ギリシャ語をしゃべっている」、「アラビア語が聞こえた」、そんな声が聞こえて来たという状況だったのでしょう。

 もっとも、これを聞いて「あの人たちは、新しい酒に酔っているのだ」と言ってあざける人がいたことから、120人がみんな外国語を流暢にしゃべれたかどうかははっきりしません。たどたどしい、片言まじりの外国語だったのかもしれません。異言を話す人がいたのかもしれません。しかし、そんなことはどうでもいいことです。…皆さんだって、道でいきなり外国人から外国語で話しかけられたら、びっくりしてしまって、言葉がなかなか出ないでしょう。違う言葉を話そうとするとかなりの勇気がいりますが、ここではみんな、その勇気を与えられてあふれる思いを語り始めた、バベルの塔を建設しようとして罰を受けた人間たちが魂の再生のために再スタートを切ったということなのです。

 この不思議な話は、人が聖霊を受けた時にどんなことが起こるかを示しています。それまで人々が生きていたのは、ほとんど同じ言葉を話す人たちの中だけの世界でした。違う言葉を話す人たちには初めから心を閉ざしてしまっていて、わかりあえるはずはない、まして同じ神様を信仰することはないと思っていたのです。しかし聖霊が、つまり神の息が注がれた時、違う言語を話していた人々が、言葉の壁を越えて理解しあう道が開かれました。

 21世紀に生きる私たちの中にも、同じ日本語を話す人たちだってわかりあえない、まして言葉の違う人たちなんて、という気持ちが残っていそうです。言葉が違う、生活レベルが違う、習慣が違う、政治についての考え方が違う、むかし自分の国と戦争したことがある、その他さまざまな違いが相互理解を困難にし、あの人たちのことは全くわからないとなってしまいます。まあ同じ日本語を話している者同士でもそうなのですから、まして外国人ならなおさらです。

 しかしイエス・キリストの思いはこれとは正反対のものでした。イエス様は地上での最後の夜に「父よ、…すべての人を一つにしてください」(ヨハネ1721)と祈っておられますが、この祈りのこたえがこの日起こったとも言えます。

 バベルの塔建設の中止で明らかになった人々の心の分断、言葉の分断、そこからあらゆる災いが起こったのですが、そうした世界が再び一つになりますように。それはまずイエス様を信じる者たちが言葉を初めいろいろな壁を超えて一つになるところから始まり、そうしてそれをさらに外に向かって広げることでなしとげられるのです。

 神様に反逆して、天に届く塔を造ろうとした人間たちがばらばらにした世界に聖霊が降って、みんなが言葉やそのほかあらゆる違いを超えて一つになる歩みが始まった、その日三千人の信徒が与えられて教会の誕生があったということを感謝をもって受けとりたいと思います。

 

(祈り)

天にまします我らの父なる神様。み名をあがめます。あなたは全宇宙を統べ治められる方でありますのに、銀河系の片すみの小さな星に生きる私たち人間をかえりみて下さいました。大昔、バベルの塔が建設されつつあったことは神様にとって痛くもかゆくもなかったことだったかもしれませんが、あなたはわざわざ降りてきて、人間にふさわしい罰を与えられました。神様は、人間に苦しみを与えられる時にも愛であられるからです。

神様、むかしイエス様の弟子たちなど約120人の人たちの熱心な祈りの中に聖霊降臨の出来事が起こり、世界各地に教会をつくってゆきました。日本で最初のプロテスタント教会である横浜海岸教会も、何日にもわたる熱心な祈りの中で霊的な恵みを与えられて誕生したと聞いておりますし、広島長束教会も教会員の熱心な祈りの中でこの地に建てられました。

神様、今日も私たちを聖霊において満たして下さい。この礼拝において、まだ聖霊について確信が持てなかったり、よくわからない人には、神様からいただいた恵みを思い起こさせ、自分も聖霊の賜物を豊かに与えられていることを知らせて下さい。私たちの心の目を開いて下さい。この世界はただ物質の運動だけで動いているのではなく、神様の霊が生きて働いているのです。この教会に、また私たちの上に注がれる聖霊によって、私たちの信仰が真に生きたものとなることを願います。

 

とうとき主イエス・キリストのみ名によってこの祈りをお捧げいたします。アーメン。