バビロン滅亡の預言

バビロン滅亡の預言 イザヤ13122、黙示録1812  2022.5.29   

 

(順序)

前奏、招詞:詩編119170、讃詠:546、交読文:詩編941219、讃美歌:2、聖書朗読:上記、祈り、讃美歌:75、説教、祈り、讃美歌:379、信仰告白:使徒信条、(献金・感謝)、主の祈り、頌栄:539、祝福と派遣、後奏

 

 今日は預言者イザヤの口から出たバビロン滅亡の預言についてお話しします。教会に来る人ならバビロンはよく聞く名前です。ただ、もう一つバビロニアというのもあって、どう違いますかということになるのですが、バビロンとはメソポタミアにあった都市の名前、バビロニアはバビロンを含む地域や国の名前です。バビロンはバビロニアの首都です。もっともバビロンと言っても、そこにいた民や、また都市国家を指している場合があって、混同してしまうのもやむをえません。

バビロンは栄華をきわめた古代都市です。その昔、この都は世界一の規模を誇っていたものと思われますが、紀元前6世紀に破壊されてしまいました。だからバビロンの都はすでに存在しないのですが、しかし強烈な存在感があったのでしょう、聖書には繰り返し出て来ます。世界の終末を預言したヨハネの黙示録にも登場しますが、ここではやはり栄華を誇ったローマ帝国が意識されています。また現代でも、誰も抵抗することが出来ないような大帝国がバビロンにたとえられることがあります。こうしたことは、バビロンに、過去のある一時期に存在した都市以上の意味が与えられていることを示しているのです。

 

 イザヤ書は13章から23章にかけて、神が世界の歴史をどのように導いておられるかということについて書いています。バビロン、アッシリア、ペリシテ、モアブ、ダマスコ、エフライム、クシュ、エジプト、エドム、ティルスといった諸民族について順に書いてあり、一つひとつのことをお話しすることも考えましたが、私にとってはかなり困難な仕事になりますし、また皆さんにもなじみが薄い世界のことなので、その中で特に大事だと思われるところをピックアップしてお話ししようと思っています。

 皆さんご存じのように、人類史上初めての文明が誕生したのはチグリス川とユーフラテス川が流れるメソポタミアで、これとバビロニアは地理的に重なっています。有名なバベルの塔もこの地で建設されたようです。紀元前3500年ごろ、シュメール人が多くの都市国家をつくりました。シュメール人は世界で最初に文字を発明した人たちです。紀元前1800年頃、バビロン第一王朝、別名、古バビロニア王国が成立、これはたいへん強大な国家で建築技術、軍事力などだけ見ても世界の最先端を走っていたようです。「目には目を、歯には歯を」で有名なハムラビ法典もここで生まれました。私たちと特に関係が深いのはアブラハムです。イスラエル民族の祖であり信仰の父と呼ばれるアブラハムの出身地はカルデアのウル(創1128)でこの地域になりますが、彼は神の召命を受け、行き先も知らずに出発して、カナンの地にたどりつくことになったのです。

 メソポタミアはその後、歴史の中で幾多の変遷を重ねます。イザヤが預言者になったのは紀元前740年頃とされていますが、その少し前、紀元前745年にバビロンはアッシリアの支配下に入ります。つまり、イザヤが活動した当時、バビロニアという国はなかったのです。イスラエル民族はイスラエルとユダの二つの国に分裂していましたが、両者とも、直面している最大の脅威はアッシリアでありまして、紀元前722年、北のイスラエルはアッシリアの軍隊の前に滅亡し、南のユダだけが、かろうじて生きのびている状態でした。

 繰り返しますがイザヤが預言していた時、バビロニアという国はありません。バビロンという都市はあったようですがアッシリアの支配下にあったのです。それなのにイザヤはバビロンに対する託宣を告げます。19節、「バビロンは国々の中で最も麗しく、カルデア人の誇りであり栄光であったが、神がソドムとゴモラを覆されたときのようになる。」…バビロンはソドムとゴモラのように神様に滅ぼされてしまうと言うのです。

 これはいったいどういうことでしょうか。歴史が明らかにしていることは、この当時、存在しなかったバビロニアがその後、再登場するということです。学問上は新バビロニア帝国というのだそうです。その歴史は紀元前625年に始まり、605年にアッシリアを滅亡させます。世界帝国となります。そうして586年にユダに攻め寄せ、これを滅ぼします。戦乱で多くの人が殺され、信仰の中心であったエルサレムの神殿が破壊されたばかりでなく、生き残った人たちも強制移住させられ、そのことを私たちはバビロン捕囚と言っています。祖国を失い、異国に連れて行かれることが人々をどれほど悲嘆の淵に追いやったか、言うまでもありません。…しかしながら、その状況がいつまでも続くことはありませんでした。ついにペルシアという国が興って539年、バビロニアを滅ぼしてしまいます。どんなに強大な国家でも終わりがあり、永遠に続くことはなかったのです。こうしてイスラエルの人々、ユダヤ人は祖先伝来の地に帰ることが出来ました。

 そこでもう一度イザヤに戻りますと、イザヤはバビロニアという国が存在しなかった時にバビロンへの神の審判を告げたことになるのです。…バビロンの滅亡は14章にも書いてあります。14章4節、「ああ、虐げる者は滅び、その抑圧は終わった。主は、逆らう者の杖と支配者の鞭を折られた。かつて、彼らは激怒して諸民族を撃ち、撃って、とどまるところを知らなかった。また、怒って諸国民を支配し、仮借なく踏みにじった。しかし今、全世界は安らかに憩い、喜びの声を放つ」。

 これは常識では考えられないことです。イザヤがいたユダの国は大きさから言うと日本の四国より小さく、そんな小国に現れた預言者が約150年後に起こる、この時には存在しなかった超大国の滅亡を預言しているのです。

 今日でも、150年の先の世界がこうなるという人がいたら、その話を聞く人がいるでしょうが、うさんくさいと敬遠する人も必ずいるでしょう。これと似たことで、イザヤが預言した当時、その言葉をどれだけの人が信じたのかと思うのですが、やがて、その預言の言葉通りになったのです。歴史というのは神が支配しておられるからです。

 

 それではバビロンとは何か、またその滅亡が何を私たちに教えているかを考えてみましょう。

 すでにお話ししたように信仰の父アブラハムはバビロニアの出身です。アブラハムの出身地、カルデアのウルは、学者によるとシュメール人の中心的な都市国家でした。人々は月を神として礼拝していました。ウルがあった場所はバビロンの南東240キロと考えられています。…アブラハムが育ったのは当時、世界の最先端を走っていたところですから、人の目を奪う輝きと危険な誘惑に満ちたところで、その人々がよりどころにしたのが偽りの神々だったのです。もしもアブラハムがその地にずっと留まっていたら、そうした神々に心を奪われたまま一生を終えてしまったことでしょう。

 しかし神はアブラハムに「あなたは生まれ故郷、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と命じられました。アブラハムはそれに応えて出発し、カナンの地にたどりつき、そこから神の民イスラエルの歴史が始まるのです。生まれ故郷を離れ、見知らぬ土地に行って移り住むというのは現代の私たちでも大変なことです。アブラハムだって、どれほどふるさとに戻りたいと思ったかしれませんが、そうした思いを乗り越え、偽りの神々ではなく本当の神と共に歩む全く新しい、自由な人生を選び取っていったのです。

 続いて預言者イザヤがいた時代、バビロニアという国はなくバビロンも復興していなかったのですが、それはやがて歴史の中に現れ、アッシリアを倒し、世界の覇者となってゆきます。どんな力もこの国を倒すことは出来ないと誰もが考えたことでしょう。バビロニア自身その思いの中にあったのです。1311節に「傲慢な者の驕りを砕き、横暴な者の高ぶりを挫く」とありますが、その実例が1413節です。「かつて、お前は心に思った。『わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂きに登って、いと高き者のようになろう』と」。しかし、どれほどの超大国であっても、神の上に立つことは出来ません。

 バビロン捕囚の時代、亡国の民となり、異国に強制移住させられた人々の嘆きは、哀歌の最後にある「あなたは激しく怒り、わたしたちをまったく見捨てられました」という言葉からもひしひしと伝わってきます。人々は苦しみの中から、この災いがどこからきたのかを考えました。そうしてついに、神に背いて他の神々を拝んだ自分たちが罪に染まってしまったこと、そして、これに怒った神が外国の軍隊を差し向けて自分たちを討伐させたことに気がついたのです。神の怒りが自分たちに恐ろしい審判となって向けられたのだと!こうなることは、それまでイザヤを初めとする預言者たちに警告されていたのですが、それを自分たちは無視していたのだと気がつきます。こうして人々の上に、どん底の状態からの悔い改めと信仰の目覚めが起こったのです。

 そうして、その思いをさらに強めたのがバビロニアの滅亡です。おごれる者は久しからず、それこそ世界を支配したバビロニアが新しく起こったペルシアに征服されて滅びてしまいます。バビロンの都も廃墟となってしまいました。超大国で、他に並ぶものがなかったバビロニアの国も絶対ではなかったのです。強国が次々に起こっては消えてゆく、これは神の支配こそほかの何にも増して世界の歴史を貫いていることにほかなりません。

 

 その後、イエス・キリストの時代になると、今度はローマ帝国が世界に君臨しました。「すべての道はローマに通ず」という言葉が現代まで伝わっているほど、その力は比類なきものでした。ローマ帝国こそ新しいバビロンでした。この国は皇帝を神として礼拝することを求めました。そのため、皇帝ではなく主なる神を礼拝するクリスチャンは想像を絶する迫害を受けるようになったのですが、そうした時代にまとめられたのがヨハネの黙示録です。「倒れた。大バビロンが倒れた」、それは信者を励まし、神に背く獣の国家がやがて滅亡することを告げるものでありました。

 バビロンはその後の歴史の中でも次々に登場し、世界に圧倒的な力を見せつけますが、やがて消えてゆきました。ヒトラーの第三帝国、大日本帝国、またソ連はバビロンではなかったでしょうか。そして今、この時点での超大国、アメリカ、ロシア、中国を見て下さい。この3国がつぶれるなんてことはなかなか考えられないのですが、近未来の世界に何が起こるかわかりません。驕り高ぶった超大国が滅び、あの国もバビロンだったと言われるようなことがないとは、決して言えないのです。

 私たち社会の中で力の弱い者たちは総じて政府に従順で、お上の言うことには逆らえないと思っています。しかしどれほど強大な国家であっても神をしのぐものではありません。まして主権は国民にあるのですから、私たちも自分の国がバビロンにならないよう社会的責任をまっとうする務めを持っているのです。神のみこころこそが歴史を貫きます。

 中国の唐の時代の詩人、杜甫は「国破れて山河在り」と歌いました。国家は興亡を繰り返しますが、山や河といった自然は永遠であるということですね。ただ時代はかわって、今日では、かりに国が破れたとしても山河が残っているのかどうかというところまで来ています。戦争はたいへんな環境破壊です。日本がたとえバビロンのような国と対峙することになったとしても、戦争は絶対に避け、あくまでも平和的手段によって解決しなければなりません。

 今ほど人類の叡智が求められている時代はなく、世界は次から次に出て来る難題にすぐ効果のある処方箋を見つけることが出来ないままでいますが、バビロンが滅びたことを知ることが問題解決への第一歩です。この世はすべて移り変わり、どんなに力あるものも永遠ではありません。いつの時代にも変わらない神のみこころに従うことこそ、私たちの生き方でなければなららいのです。

 

(祈り)

 私たちにまことの道を指し示して下さる天の父なる神様。今日も礼拝の恵みをいただいたことを心から感謝いたします。

 神様、私たちの心から不必要なおそれを取り除いて下さい。心の中にあるのが神様へのおそれではなく、この世の力へのおそれである場合がとても多いのです。力の強い人、権力や高い地位を持っている人、またそうした国をおそれ、そのかわり神様と神様が遣わされたイエス・キリストが片隅に追いやられてしまいがちなのです。

 私たちが移り変わるものではなく、永遠に変わらない、神様のみこころをこそ信頼して歩むことが出来ますように。見えるものではなく、見えないものに心を注ぐことが出来ますように。今、この難しい時代だからこそ、この信仰に生きる者として下さい。

 

 とうとき主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。